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最終章

「ヘザー! もう時間ですよ! そろそろ起きて下さい」


 目覚ましのベルの後、ティアナンの声が告げる。


「え、待って、もうそんな時間!?」


 寝ぼけ眼を擦ったへザーは、時計を見て愕然とする。

 それはすっかりお馴染みになった毎朝の光景だった。

 ヘザーは夢のとおり、科学者としての道が開ける大学へと進学した。

 大学近くのアパートにティアナンと共に住み大学へと通う生活も、早くも三年目だ。

 共にいられる有限の時間を、一秒でも大切にしたい。

 そう考えて、ティアナンもあの家を去り、この現代的なアパートに移り住むことを選んだ。ビリーは郊外の牧場に預け、休日に会いに行っている。

 同棲しているとは言え、ティアナンはやはり古風と言うか、堅いところがある。部屋はいまだにしっかり別だった。

 それどころか、ファーストキスすらもまだだ。

 ――更に。


「……っ! ちょ、ヴィクトリア!? 待って、寒い!」


 布団を剥がされ、ヘザーは抗議の声を上げた。

 一見二人暮らしのように見える生活には、目に見えない友人もいる。

 ほらほら早くなさいとばかりにタオルが投げられ、宙に浮いたパステルカラーのメイク用品がゆらゆらと揺れた。

 『早く顔を洗って来なさい』の合図だ。


「朝はまだメイクはいいってば、ヴィクトリア」


 見えないヴィクトリアがぐいぐいと背中を押すのを感じ、ヘザーは肩越しに振り返る。姿は見えないが、その笑顔は脳裏にはっきり浮かぶ。

 今ヘザーが願うのは、人間の目でもゴーストを捉えることができるようになる、そんな何かの発明をすることだ。


「ヘザー? 朝食ができましたよ」


 バスルームのシンクで顔を洗っていると、ひょっこりとティアナンがドアから顔を覗かせる。

 水色のシャツにネクタイ姿。――の上に、今はエプロンを掛けている。

 神父服ではない彼にもすっかり見慣れたな、とぼんやりと思いつつもヘザーは頷いた。


「うん、すぐ行く」


 テーブルに着くと、フライパンから皿に置かれた熱々のパンケーキは半分焦げていた。料理はやはり苦手だと彼は苦笑いする。


「ティアナンは、今日はまだ行かなくて大丈夫なの?」

「今日はリテールの責任者達とのミーティングなので、少し時間に余裕があるのです」


 訊ねられて彼は、コーヒーを啜りながら壁の時計を見上げる。

 テレビでは今日の天気予報を告げている。今夜は雪で、明日はホワイトクリスマスになるでしょう、と。



 あれからティアナンもどうにか現代人らしい生活に馴染もうと努力し、そして、やりたいことを見つけていた。

 「聖職者としてのこれまでを悔いることはないけれど、自身の意志でこれからを選ぶことができるなら」と彼は、ある道を選んだ。

 彼の生きた中世では自身で仕事を選択するなど、考えもできないことだったらしい。


「でもすごいよね、まだできたばかりのお店なのに、もうすぐ三店舗目がオープンだなんて」

「バーガーだけは、色々と食べ歩いてましたからね」


 黒こげのパンケーキを見やり、「これはまだ苦手ですが」と肩を竦める。

 ティアナンが立ち上げた『クルスズ』の人気は瞬く間に上昇し、彼は今やニューヨーク流行りの店のオーナーだった。

 かつて修道院で会計を任されていて、そして長い時間を様々な本を読むことに費やしてきた彼には、商売の知識が十分に備わり、そして才能もあったらしい。

 へザーは以前の彼も、そして今現在の彼も、どちらも誇らしく思う。


「今日はあれよ、約束の日。夕方、あのシアター前のカフェで」

「ええ、もちろん覚えてますよ。絶対に遅れませんから」


 今日は十二月二十四日。クリスマスイヴだ。

 ティアナンからするとヘザーはまだまだ子供だと言って、共同生活を始めてからもこれまでずっと、二人の関係は相変わらず微妙なままだった。

 しかし昨夜、ヴィクトリアがこっそりと教えてくれていた。今日のデートでティアナンから特別な、二人にとって重要な意味のあるプレゼントを渡されるはずだ、と。

 ヒントは、小さくて、丸くて、ダイヤモンドもあしらわれたものだとまで。

 そしておそらく、女性が聞きたくてたまらない言葉も添えられるはず、て言うか、でなきゃ背後からド突くと、ヴィクトリアは締めくくった。

 「でも、どうしてそのことを知ってるの?」と訊ねると、それを隠している場所を見つけたとヴィクトリアは答え、『でも秘密ね(笑)』と素早くスマートフォン画面に書き加えた。

 その姿は見えないが、おそらく茶目っ気たっぷりな表情をしていることだろうと思う。

 その後、ヴィクトリアの文字は更に続いた。


『それにしても、ホント、ティアったら甲斐性ないったら。もう三年も一緒にいて、ファーストキスすらまだなんでしょ?』

「ちょっ……!」


 図星だった。一年ほど前に、やっとでしてくれるようになった挨拶のキスも、いつも頬や額に軽くだった。


『ヘザー、不安にならないの?』

「ううん、全然。ティアナンがあたしを何とも思ってないわけじゃないって、あたしはちゃんと知ってるから。それさえわかっていれば不安になんてならないよ。だってあたしは、ティアナンを信じてる」

『まぁねぇ、他に隠れてオンナ作れるようなタイプじゃあないわよねぇ……』


 昨夜のその会話を思い出し、へザーはひとり苦笑する。


「にやにやして、どうかしましたか?」

「ううん、なんでもない」


 ヘザーは午後早くには一度帰宅して、念入りに身支度をし、ティアナンを驚かせる予定だった。にっこり笑ってナップザックを肩に掛ける。


「行ってきます!」

「あ、待って、ヘザー。忘れてます」


 言って、ティアナンはヘザーに十字を切る。


「今日一日も、あなたに神のご加護を」


 神父ではなくなっても、習慣というものはなかなか変えられるものではない。

 二人のお約束として、いつもは同じようにティアナンに十字を切る仕草を返すヘザーだったが、今日はふと何かを考えるように動きを止めた。


「どうしました?」

「ううん、ちょっと。ティアナン、あのね?」


 くいくいと指先で近付くように示すと、首を傾げた彼が身を乗り出す。

 内緒話をするように顔を近付けて、ヘザーは素早く唇にキスをした。


「これはあたしからの、ちょっとだけ早いクリスマスプレゼント。メリー・クリスマス!」


 そしてにっこりと微笑んだ。

 


<完>


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