(3)
ヘザーが自身の体に戻り、冬が過ぎ、春が訪れた。
そして今日、ヘザーは鏡の前で身支度に四苦八苦していた。
「あ、だめ、もうちょっと綺麗にカールしなきゃ……!」
うまく整えられずくしゃくしゃになってしまった一筋の髪に溜め息を落とし、鼻に皺を寄せる。やり直しだ。
鏡の中の自分と目が合い、まだまだお洒落は下手だと苦笑する。もっと腕を磨かなければ。
今夜は、夢にまで見たプロムの晩だ。
整えられたベッドの上に慎重に広げて用意してあるのは、ゴーストの時に見た、あのショーウィンドウのワインレッドのドレスだった。今では自分に似合っていると自信を持って思える。
それはヘザーの容姿が変わったからではない。考え方が変わったからだ。
時間になりヘザーを迎えに来たのは、ルーカスではなかった。
普段はきっちりと整えている黒髪が、今日は現代の流行に合わせてセットされているが、よく似合っているとヘザーは思った。
淡いブルーの瞳が、どこか恥ずかしげに細められる。
それは、ティアナンだった。
『こんな老人があなたの相手だなんて』と言う彼を、ヘザーは必死に説得しなければならなかったが、最終的には彼に『イエス』と言わせることができた。
神父の服装ではなく正装した彼を見るのはこれが初めてだったが、予想していた通り、いや、それ以上だった。
思わずヘザーが見惚れてしまうほどに。
「そのヘアスタイル、ヴィクトリアがやったの?」
「ええ。いいというのに任せろと聞かなくて」
不慣れな身嗜みのせいか、少しはにかむようにティアナンは首を傾けた。すると彼の耳がくい、と引っ張られる。
「ヴィクトリア!」
ティアナンが抗議の声を上げる。へザーはぱっと顔を輝かせる。
「そこにいるの?」
元より第六感に優れていたティアナンには、悪魔の呪いが解けた今でもゴースト達の姿が見えるという。
けれど、ヘザーにはもうヴィクトリアの姿は見えないし、声も聞くこともできない。それが寂しかった。
しかしヴィクトリアは生前から現代人だったため、メールでいつでも連絡が取れる。
あっさりとメールが繋がり、返信が届いた時には、嬉しさに飛び上がりそうになったほどだ。
それだけではない。その場にヴィクトリアがいるのであれば、筆談もできる。紙に走り書きすることもあれば、スマートフォン、パソコンで会話をすることもある。
ヴィクトリアがティアナンに何か言ったらしい。
「あ、ああ、そうですね」
彼は慌てて鞄に手を入れる。
鞄だけは以前から彼が使っているあの肩掛け鞄で、今日の服装とのアンバランスさが彼らしいと、へザーはこっそり微笑んだ。
「ぷろむのしきたりをよく知らないのですが……これで合ってました?」
ティアナンが差し出したのは、コサージュだ。
「ありがとう、すごく綺麗……!」
ヘザーは喜んで受け取り、手首をそれで飾る。
外に待っていたのは黒いリムジンではなく、コーチ(馬車)だった。それを牽くのは、もちろんビリーの役目だ。
ヘザーは、予想外のことに目を丸くする。
「今日はさすがに、馬に跨がらせるわけにはいかないと思って」
「これ、最高! すごくロマンチック!」
感激に声を上げると、にっこりと微笑んだティアナンが、ヘザーをエスコートしてコーチに乗り込んだ。
「御者は、ヴィクトリアですよ」
「え。でも、手綱、浮いちゃうよ?」
「そこは心配しないでも大丈夫です。客観的には、ひとりでにビリーが馬車を牽いているように見えるようにと、お願いしてありますから」
ティアナンがそう言って、にっこり笑う。
ヘザーにはその姿は見えないが、ヴィクトリアが手綱を振るうと、ビリーはゆっくりと歩き出した。
リムジンや送迎車が並ぶ中、本物の馬が牽くコーチが到着した時には周囲がざわめいた。
それも当然だろうと思いつつ、今更ながら「これほどまで目立ってしまうのは恥ずかしかったかも」とへザーは思ったが、後の祭りだ。
その場の全ての視線を集めながら、ティアナンにエスコートされ、プロム会場に入る。
「さて。これからどうします?」
「飲み物と軽いスナックを楽しんで、それにダンスをするの。……ダンスは、できる人がね」
「中世の舞踏会と同じなんですね。飲み物は、あのテーブルですか。何か持ってきましょうか?」
「ありがとう」
コーチから降りて周囲の好奇の目から逃れ、人混みに紛れてほっとしたのもつかの間だった。ティアナンがへザーから離れた隙に、へザーは瞬く間にクラスメート達に囲まれてしまう。
「ちょっとヘザー! すごいじゃない、どこで見つけたの、あんなイケメン!」
「しかもリムジンじゃなくてコーチだなんて、ロマンチック~!」
ヘザーを見る周囲の目が、百八十度変わっていた。
周囲を取り囲むクラスメートの先で、ルーカスと目が合った。
ヘザーはそっと笑いかける。色々あったけれど、今はもう彼を恨む気持ちはない。
彼は気まずそうに慌てて視線を逸らし、足早に離れて行った。
ヘザーはあの時、彼のデート、それにプロムの誘いを受けることはしなかった。
「ありがとう、気持ちはすごく嬉しい。でも、あたしには今、他に好きな人がいるから」
そう断ると、予想もしない答えだったらしい、ルーカスは驚いた様子だった。
「他に? って、もしかしてマックス? それとも、ケヴィン?」
「ううん、うちの学校の生徒じゃない人」
「どこの学校?」
「学生じゃないの、うんとうーんと年上の人。あたしの親よりも、もっとね」
「そんな、あり得ない! どうしてそんなヤツ……!」
これにルーカスはぎょっと目を剥いた。
「生きてきた年数なんて関係ない、その人が誰よりも大切なの。だから、ごめんなさい」
そう言ってぺこりと頭を下げると、ルーカスは苦い表情で去って行った。
あれ以来、彼とは学校内ですれ違っても、話をすることはない。
プロムのしきたりにのっとって選ばれたクイーンとキングを、ヘザーは祝福する。キングは、やはりと言うべきかルーカスだ。
以前の彼女であれば、きっとあまりの惨めさに泣き出していたかもしれない。
自分と、ルーカスの隣に立つチアリーダーのクイーンを比べて、悲しい気分になっていたことだろうと思う。
けれど今は違う。他人と自分を比較して落ち込むことはない。
自分には自分だけの魅力があるということを知ることができたのだから。
あそこにいる『クール』と言われる二人と、ここにいる自分は、ただ違うだけだ。立っている舞台の種類が。
誰もが皆、自身の人生では、それぞれが主役なのだ。
そこではただ自信を持って、背筋を伸ばし真っ直ぐ前を見つめればいい。
バンド演奏が始まり、キングとクイーンを中心にダンスが始まる。
ワルツを知らないヘザーは、壁を背にしてティアナンと並び、色とりどりのドレスがひらめく光景をうっとりと眺めた。
たとえ自分は踊りを知らなくとも、ここはまるで夢の世界のように美しい。そして隣には、ティアナンがいる。
幸せだと思った。
今まで生きてきた中で一番、そう思える瞬間だった。
ふいに、ヘザーの口から小さな笑みがこぼれる。
「まさか、叶えられるなんて思ってなかった」
「え?」
その呟きに、ティアナンは瞬いた。
「あたしね。ティアナンに嘘をついてた」
「嘘?」
「うん。前に見せた、やりたいことリスト。あれ、書き直した物だったの」
これに驚くと思ったティアナンは、意外にも、微かに頷いただけだった。
「やはり、そうだったんですね」
「知ってたの?」
「ええ。気付いたのはヴィクトリアですけどね。本当の望みは、何だったんですか?」
「今夜それが叶ったの。今、ティアナンとここにいること。それがあたしの本当にしたいことだった。あたしが本当にしたかったのは、心から好きで、そして大切な人と、プロムに行くことだったから」
「好きな――」
一瞬瞠目し、ティアナンは、しかしすぐに微笑む。
「わたしもへザーが好きですよ」
爽やかにさらりと言われるが、彼の言う「好き」はおそらくへザーのそれとは全く違う意味だろう。
それでもへザーにとっては、顔から火が出そうなほど恥ずかしいことだった。だから慌ててつま先に視線を落とした。
「あ、あたし、もう願いも叶ったし、次に死んだら今度は直で天国に行けるかな?」
「そうですね。でもそれは、もっと先のことになることを願いますが」
「うん。あたしもそう思うよ」




