(1)
『ねぇ~、ちょっと大丈夫?』
「は? 何が?」
ヴィクトリアの呼び掛けに、ティアナンは気の抜けた返事をする。
あれから早くも一週間が過ぎた。へザーが消え、ティアナンとヴィクトリア二人だけになった毎日は、驚くほど静寂に満ちたものだった。
ヴィクトリアは肩を竦める。
『あれからずっと呆けっぱなしよ。せっかく呪いも解けたってのに』
リビングのソファに身を沈め、膝に乗せた聖書のページをただいたずらにめくり続ける彼にヴィクトリアは苦笑する。
「……そう、ですね。何だか急に目的がなくなってしまって。普通の体に戻ったとは言え、わたしはここでは異質な者です」
『異質な者って、変質者?』
「ヘザーとこの世を去れたら良かったのかもしれない、なんて思ったりもしてしまうんです。別れすら、ちゃんと言えなかった」
『さらっとスルーしやがったわね、この野郎』
ヴィクトリアは溜め息をつき、ティアナンの手から聖書を取り上げる。それはずっと逆さまに開かれていた。
『……そりゃあね。アタシだってヘザーとはもっと一緒にいたかったし、会いたいって思うけど……でも、そんな悲観しないでもまた会えるわよ。人は、イヤでもいつか必ず死ぬわけだし。でしょ?』
「そう……ですね」
『あ~ッもう! 暗い、暗いわよ! こんな時はパーッと騒ぎに行くに限るわ!』
「騒ぎに、ってどこへ」
『んー、こんな時間じゃまだ、バーラウンジもダンスクラブも開いてないわねぇ』
「だ、ダンスクラブ!? またですか!?」
叫ぶように反芻したティアナンは、無意識か、胸元で十字を切る。
『やぁね、なにその反応、まるで地獄にでも行くみたいに。アンタ堅物過ぎるのよ! せっかくコンテニューになった人生楽しまなきゃ損でしょ!』
「だ、だからって、あのような魔の巣窟……ッ!」
『失礼よそれ。アメリカ中、いや世界中のダンスクラブというダンスクラブに謝りなさいよこの野郎』
その時だった。普段、めったに鳴ることのないベルの音が部屋に響いた。
互いに顔を見合わせ、ティアナンが玄関へと向かう。ドアを開けると、明るい声が飛び込んで来た。
「クックスバーガーのデリバリーっす~!」
そこに立っていたのは、バーガーショップの制服姿の青年だ。
「いえ……あの、わたしは頼んでいませんが……?」
ティアナンは困惑し、首を横に振る。
「代金は既に頂いてます。いつもはデリバリーなんて受け付けてないんですけどね、お客さんがどうしても、って。たくさん注文して貰ったし、今回は特別に」
押し付けるようにして渡されたのは、カラフルなバルーン数個と袋いっぱいのバーガーだ。中を見ると、十、いや、二十個以上はありそうだ。
「あと、これも」
追加で、リボン付きのサラダも渡される。
ひょい、とティアナンの手の中の袋からひとつのバーガーが浮いた。それは勝手に動き出し、器用に包みが開かれる。
「……ッ!? う、うわぁああああ!」
それを目にした店員はパニックになり、逃げ去ってしまった。
「ヴィクトリア……」
『だっていい匂いなんだものぉ~。ん、美味し♡』
ティアナンの呆れたような眼差しを一切気にすることなく、ヴィクトリアは首を傾げた。
『それにしても、誰から? こんなお祝い贈ってくるなんて』
「わたしにも全く思い当たるふしも……」
サラダのリボンの下に、畳まれた紙が差し込んであった。それを広げたティアナンの動きが止まる。
『なになに、どしたの~?』
バーガーにかじり付きつつ、ヴィクトリアがティアナンの肩越しにそれを覗き込んだ。
ティアナンはそれに答える間も惜しいとばかりに、勢いよく外に飛び出した。
昨日までの雪がやみ、摩天楼の上には抜けるように青い冬空が広がっている。
冬のシーズンの貴重な日光をめいっぱい浴びようとセントラルパークを訪れた人々は、突如現れた疾駆する馬に驚き、皆振り返る。
しかしティアナンはそれに脇目も振らず、ただひとつの場所を目指した。
人通りの少ない道にあるベンチ。ヘザーと並んでバーガーを食べた場所だ。
コーヒーの紙カップを手袋をした両手で包み込み、暖を取っていた彼女が顔を上げる。
エンジ色のふわふわのダウンジャケットに黒いスラックス、キャメルのスウェードブーツ。
緩くウェーブしたブロンドヘアに白いニット帽、赤いフレームのメガネ。それがよく似合っている。
馬の蹄の音に、少女はぱっと目を輝かせた。
立ち上がり、大きく手を振り息を弾ませ、頬を上気させる。
「ティアナン!」
弾むような声も全く変わらない。ティアナンの聞き慣れたものだ。
そこにいるのは、間違いなくへザーだった。
「びっくりした、こんな速くに来るなんて。もっと遅くなると思ってたんだよ。あれ全部食べるには相当早食いしないと、……って、ちょ!」
「ヘザー……? 本当に? 本当に、あなたは……、けど、本当に? 生きて?」
ペタペタと顔を掌で触られる。
それはロマンチックとはおよそかけ離れた遠慮のない触れ方で、息苦しさとくすぐったさにヘザーは『ぶふッ』と女の子らしくない声を出してしまう。
「ちょ、ティアナンったら!」
「あ、あ、す、すみません! 何だか信じられなくて、つい」
わたわたとへザーから離れる彼に、へザーは思わず笑みをこぼす。
これほどまで余裕のない彼も珍しい。
「全部思い出したの。あたしね、しばらく意識不明で、生死をさまよってる状態だったんだ。事故だったの。車に轢かれかけて、強く頭を打ったんだって。病院の先生がそう言ってた。皆はあたしが自殺未遂したんだって思ってたらしいけど」
穏やかではない言葉に、ティアナンはそっと眉を寄せる。
「自殺未遂……? そんな、どうして」
「ちょっとね。ツラいことがあった直後だったから」
へザーは軽く肩を竦める。
今では既に、遠い昔のことのように感じていることだ。
「あの後、あたし悪霊化しちゃうのかな、って思った。でも気付いたら、病院の天井を見つめてた。ゴーストの時に時々あった目眩は悪霊化の兆しじゃなくて、意識が戻りかけてたってことだったみたい。何度か目を覚ましそうになったのに、でもなかなか戻らなくてすごい心配したって、パパとママも大泣きしちゃって。クリスマスの奇跡だって言うの。あたしのことなんかより、もっとすごい奇跡が起きてたのにね」
「すごい奇跡……?」
「うん。ティアナンの呪いが解けたこと」
「ヘザー……」
「サプライズしてみたんだけど、どうだった?」
にっこり笑うと、ティアナンはポケットから先ほどの紙を取り出した。それは、サラダに貼られていたメモだ。
呪いが解けたお祝いに送ります。これを食べたら、会いに来て。あのセントラルパークのベンチで待ってるから
P・S、野菜もちゃんと採らなきゃダメだよ!
「あんなにたくさん、いくらなんでも食べきれませんよ」
ティアナンはくしゃりと顔を歪める。
「あれ、多かった? でもそうしたら、明日食べればいい。ティアナンなら、バーガー毎日でもきっと飽きないでしょう?」
「そうですね。それに、あなたも一緒に食べればいい。あなたもよく食べるでしょう?」
「それなんだけど。ゴーストの時にお腹が空いてしょうがなかったのは、体が空腹だったからみたいなの。だから元に戻って良かった、今でもそのままだったら、すぐに不健康なくらい醜く太っちゃ――」
最後まで言い終わる前に、ただ強く抱き締められる。
万感の想いを込めて、ヘザーもハグを返す。言葉はいらなかった。
通りかかった青年が口笛を吹いてヤジを飛ばし通り過ぎて行くが、気にもならない。
「……あなたにひとつ、言っていなかったことがあります」
「なに?」
「わたしの名前です。修道院に入った時に授かった洗礼名があるのです。当時そこで呼ばれていた名は、ニコラスでした。悪魔だけではない。わたしもニコラスだったのです」




