(6)
ティアナンの言うとおり聖なる家には近付けないのか、もしくは単に余裕からなのか、悪魔が追って来る気配はない。
聖堂内に入り重い扉を内側から閉ざすと、三人は揃って扉に背を付け崩れるようにして床に座り込む。
『ここなら、とりあえずちょっとは休めるかな。あたし、もうクタクタ』
もっと運動をして体力を付けておけば良かったと、今更ながらにへザーは思う。
その隣でヴィクトリアが、感慨深げに周囲を見回して呟いた。
『アタシ、教会なんて久々に来たわ。最後に記憶があるのって、そうだ、お葬式だわ』
『お葬式……身内の?』
『いいえ、アタシのよ』
その光景を思い出したのか、苦い表情で首を振る。
『それにしても。アイツ、今夜はヤケに本気モードみたいよね……』
『どうしたらいいの? 名前を見つけられなかったら、あたし達どうなるの?』
「わかりません。悪魔の気まぐれで解放されるか、もしくは、ずっとこの世界に閉じこめられたままか。一番考えたくない結末は、奴と共に引きずり込まれることですね」
『地獄……』
へザーは身震いし、両腕を自身の体に回す。
『まぁここにいる限りは大丈夫みたいだし、アタシ達は誰も餓死する心配はないわけだけど。でも永久にここでこうしてるってのも、ある意味地獄よね。暇すぎて』
「奴の名前、それさえわかれば……」
ティアナンの呻きが入り交じった呟きの後、沈黙がその場に落ちる。
解決策を見い出せぬまま、時は刻々と過ぎて行く。
――否。そう感じるだけで、実際は止まっていた。
壁に掛けられた時計の針も、蝋燭に灯された炎も、不気味なほどに微動だにしない。それは不思議な世界だった。
永遠に続くかのように思われた時間の中、ふとティアナンが、祭壇に顔を向けた。
ステンドグラスを見上げた淡い色の瞳が、ガラスのように透き通った光を帯び、動きのないこの空間で揺れる。
へザーがそれを無意識に見つめると、ティアナンがぽつりと漏らす。
「……あなた達だけでした。わたしの、現実では有り得ない話を信じ、そして避けずに受け入れてくれたのは」
その口調はまるで、懐かしい思い出を語るように柔らかかった。
「あなた達と過ごしたこの二ヶ月は、わたしにとって本当に貴重な時間でした。死ぬために生きてきたはずなのに、久し振りに、そのことを忘れられた。……それを言える今のうちに、伝えておきます」
『ちょっと待ちなさいって! 何よそれ、死亡フラグ勝手に立ててんじゃないわよ!』
ヴィクトリアは怒鳴るように言い、床を蹴って立ち上がった。それからはぁ、と溜め息をつく。
『アンタね、なんでそんなあっさり諦められるの? アタシ達がどうして負けるなんて思うの! ふざけないで! アタシが嫌いなのはね、偏見とコールスローサラダと、何よりも勝負に負けることよ!』
真顔での叱咤とそぐわない言葉に、ティアナンは一瞬、呆気にとられたような表情になる。それからややあって、ぷっと吹き出した。
「コールスローサラダって――」
『子供の頃から嫌いなのよ、アレは』
対するヴィクトリアは、どこまでも真面目な口調と表情だ。
「そう……ですね。すみません、弱音を吐きました。最後まで、諦めずに」
言って、すう、と深く息を吸い、鈍色の光を放つリボルバーを取り出した。指先でその形をなぞる。
「できる限りの手は打ちましょう。このまま永遠にこうしていても仕方がない。とりあえず、こちからかも打って出て――」
そこまでしかティアナンの言葉は続かなかった。
刹那、体の奥にまで響くような振動が建物全体を揺らした。
ガラスが割れる音が、周囲に反響する。粉々に砕け散ったそれが床に降り注ぐ。
「――ッ!」
『いつまでそこで休んでいるつもりだ? いい加減に出て来い』
壁にぽっかりと開いた穴の先、外を見やると、そこには予想通りの姿があった。ヴィクトリアはげんなりとし、唸る。
『んもう! 中には入れなくても、外からは物理的に攻撃は可能なんじゃないの!』
『どうにかしないと……!』
崩れた壁から離れ、中央の通路に真っ直ぐ敷かれた赤い絨毯を駆け抜け、反対側の壁に三人は逃げる。
ティアナンは二人の前に立ちはだかり、銃を構え、それを放った。
しかし見えない壁があるかのように弾丸は弾かれ、地面を削る。
悪魔の余裕に満ちた表情は微塵も変わらない。
「名前、名前を見つけなければ――!」
『ヘザー! 何か思い付かない!?』
『そ、そんな』
あれからずっと考えてはいた。けれど、どう考えても自分がそれを知っているとは思えなかった。
『何でもいいから、試してみて!』
『な、何でも、って……!』
「――ッ、ヘザー!」
突如、視界がぐるりと回転した。
かと思えば次の瞬間には、床に倒れ込んでいた。
何かを強打するような鈍い音が体に振動となって伝わり、すぐ目の前に備え付けのベンチがいくつも転がり落ち、派手に砕ける。
『……っ、ティアナン!?』
覆い被さるようにしてヘザーを庇った彼は、腕をつき身を起こそうとして、小さく呻いた。
『あ、あたしなんて庇わないで大丈夫なのに!』
「そう言えばあなたは、ゴーストでしたね……って、つい少し前にも話したばかりなのに」
はは、と苦笑するティアナンの腕から大量の血が溢れている。彼は、痛みに顔をひきつらせた。
「大丈夫です、わたしも死ねない身です。そんな顔、しないで下さい」
『そ、そんなの、ムリだよ……! な、何かで止血しないと!』
流れ出る血の赤に動揺し、周囲にあてもなく視線をさまよわせる。
ふと目に飛び込んだのは、無惨にも床に倒れたツリーだった。綺麗に飾り付けられていたオーナメントが周囲に散らばっている。
その中のひとつに、目が吸い寄せられた。
白い大きな袋を背負った、真っ赤な衣装の人形だ。
『サンタ、クロース……』
刹那、脳裏に鮮やかにあの光景が蘇る。
ロックフェラーセンターのツリー。
男の子の声。
――サンタさん来てくれる?
サンタさん。
サンタクロース。
『……どうして、気付かなかったんだろう』
ヘザーは、悄然と呟く。
『気を付けて! また来るわよ!』
ヴィクトリアの声に、現在に引き戻される。
まだ崩れていない壁に身を寄せ、息を押し殺す。
目の前で激しい竜巻でも起こっているかのように、様々な物が風に煽られて踊る。
唸る風に負けないように、ヘザーは声を張り上げた。
『ねぇティアナン、サンタクロースのもとになった人がいたよね!?』
「はい? サンタクロース?」
なぜ今それを、と言いたげに彼は瞬いた。しかしへザーは必死だった。
『お願い、その元の人を教えて!』
「も、元は、聖ニコラスという聖人です……!」
聖ニコラス。
どくり、と心臓が高鳴る。直感とも言うべき何かが、へザーに正解だと告げている。
『それ、試したらどうかな!?』
「まさか――ニコラスが?」
ティアナンは瞠目する。微かに動揺したように、その瞳が揺れた。
それも仕方がないのかもしれない。神父である彼にとって、悪魔が聖人の名を名乗るなど、とんでもないことなのだろう。
『あたし、前に不思議なお爺さんに会ったの! その人があたしに教えてくれたの! 『サンタさん』――それが、あたしの『運命』の名前だって! だから、もしかしたら……!』
ティアナンとヴィクトリアは驚いたように目を丸くし、半信半疑に互いの視線を素早く交錯させる。
『そのおジイちゃんがサンタクロースかどうかは別として、試してみる価値はあるんじゃなぁい? 今日はクリスマス・イヴだし、聖夜の奇跡が起こるかもしれないわよ!?』
『ヴィクトリアの言う通りだよ! やってみよう!!』
ティアナンは、奇跡的に損壊は免れている祭壇へ視線を走らせた。
短い祈りの言葉を呟き、十字を切る。
「神のご加護を、どうか私達に――!」
悪魔が再び手を翳す。悪魔の視界の中心にティアナンが立つ。
「ニコラス!」
そして、叫んだ。
『ッ!?』
ぎくり、と悪魔の動きが止まる。
醜悪に歪められていた顔に、一瞬で恐怖の感情が浮かんだ。
同時に、渦巻いていた嵐も嘘のようにたちどころに消え去る。物が落ち、石の床に砕ける音がしばし続いた後に、周囲に静寂が戻る。
ティアナンは肩で息をし、背後の二人の無事を目の端で確認してから、悪魔に向き直った。
「……ッ、やはりそうなんだな? お前の真実の名は、ニコラス」
『なぜ、それを……!』
「聖ニコラス……サンタクロースからの贈り物ですよ、ヘザーへのね」
『……このッ!』
もはや人間のものとは思えない恐ろしい形相だ。
「待て!」
ティアナンが命じると、上空に逃げようとしたその体は、ゆっくりと地上へと降りた。その意志には反して。
聖堂内に降り立った悪魔は、喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げ、体を痙攣させる。激しい憎悪の目を祭壇に、そして目の前に立つティアナンに向けた。
ティアナンは足下にうずくまる悪魔を睨み、一度、大きく息を吸った。まるで、何かの覚悟を決めるように。そして、落ち着いた声音で問う。
「……ニコラス、答えろ。なぜ、お前はわたしを選んだ? なぜわたしの時を止めた?」
それは、彼が幾度となく投げかけた問いだった。
だがこれまで悪魔はその問いに答えることはなかった。ティアナンの苦しみを喜び、嘲笑うだけだった。
しかし、名を呼ばれた今は違う。悪魔はティアナンに逆らえない。
『わからないか? オレは、お前のことをずっと恨んでいたんだよ、ティアナン。容姿も頭脳も、何もかもに恵まれたお前に』
「な……に、を?」
『オレには、欲しいものがたくさんあった。容姿は生まれつきだから仕方ないにしても、代わりに教会での地位を求めた。だが、どんなに努力しても何一つ手に入らない。足掻いたよ、どうすればいいのかわからなくて、なぜ自分には何もないのかと悩み続けた。そうしているうちに、月日は流れた。気付けばもう四十間近で、若ささえも失っていた。そんな時に、お前に会った』
そこで悪魔はティアナンを睨みつける。憎悪がふんだんに含まれた眼差しで。
『お前はオレみたいに野心を持つ人間じゃない。むしろその正反対だ。何も望んでいないように見えた。だというのに、お前はオレの欲しい物を、オレの半分ほどの年齢で全て手に入れそうだった。院長の信頼も贔屓も地位も、それに仲間からの人望、何もかもを易々と。だから憎かったんだ』
「まさか、お前……ニコラス? あの、ニコラスなのか!?」
『そうだ。今更気付くなんて相変わらず鈍感が過ぎるな、ティアナン』
『あのニコラス、って、知り合いなの?』
「以前に話したエクソシスト……六百年前に失踪し、遺体で発見されたというエクソシストです」
『そんな、それがどうして悪魔になんて……!』
愕然としたヘザーの呟きに、悪魔――ニコラスは、唇の端を微かに上げ皮肉な笑みを浮かべる。
『どんなに祈っても、神はオレには何も与えなかった。けど、悪魔は違った。欲しい物を何もかも与えてくれた』
「それは違う! 全てまやかしだ!」
『まやかしでもいい、自分の命との引き替えであることもわかっていた。それでも、オレの訴えに応えてくれない神に仕えている時より、どんなに救われたことか!』
「救いだと? 今のお前がか? わからないのか、今、自分がどれほど落ちぶれ醜くなってしまったか! 姿だけじゃない、心も、何もかもだ。お前は、これまで犯した罪をあがなわなければいけない。ここではない、地獄で」
悪魔の目が、憎悪に燃える。
ティアナンに向かい歯を剥き、唸るように叫ぶ。
『お前の問いに答えてやる! なぜお前の時を止めたか、だって!? それはお前を失望させたかったからだ! 神を心から信じているお前に「神などいない」と思わせ、絶望の淵に落としてやりたかった!』
『酷い、そんなのって、単なる一方的な嫉妬と僻み以外の何ものでもないじゃない!』
『そうよそうよ、器の小さいオトコってサイテー!』
「ヘザー……ヴィクトリア」
憤慨する二人を、ティアナンが静かな口調で止めた。
「絶望は、しましたね……それも何度も。お前の望みの通りに」
場にそぐわない穏やかな口調で、彼は囁くように言う。
「けれど、ニコラス。お前が、お前という悪魔が存在することで、わたしは神の存在も信じることができた。光と闇は表裏一体なのだから、片方だけしか存在しないなど有り得ない」
『……ッ!!』
人だった顔が、再び悪魔の形相に変わる。
『呪われろ! コロす、殺ス、コロス! 死ねシネ死ネシネ!』
喚き散らし、口から悪臭を放つゼリー状の液体を吐く。
『やだ、汚』
ヴィクトリアは飛んできたそれを軽くよけ、眉をしかめた。
『やっちゃいなさいよ、ティア!』
『止めろ、オレだ、ニコラスだ! ティアナン、助けてくれ!』
悪魔の態度が突如、豹変した。不意にその声が再び人間のものに変わる。恐怖に歪んだ表情で訴える。
「ニコラス――お前は、本当に愚かだ。お前は、わたしを買い被っている。お前は、アルバを殺した。兄もそのせいで死んだ。それに何人もの人々を苦しめ、死に追いやった。そして、わたし自身を――。これを言葉だけの謝罪で許せるほど、わたしはお人好しではない」
『オレは悪魔に操られてるだけなんだ! 本当だ! 悪魔を祓えばオレも一緒に地獄に堕ちる、それだけは嫌だ!!』
へザーの知らない、太く低い男性の声で喚くように懇願する。おそらくそれが、本来のニコラスの声なのだろう。けれどティアナンは眉一つ動かさない。
『騙されちゃダメよ! 芝居よ、それ。しかも超絶下手ックソな!』
「わかってます。ニコラス、言い残すことはそれだけか?」
言われずとも、とでも言うように、ティアナンは振り返らずに銃口を悪魔に向ける。
「去れ! 悪魔ニコラスよ! 神の名にかけて!」
銃声が轟く。
一度、そして、二度、三度。
しかし、どれも命中することはなく、悪魔の足下を削っただけだった。
『んもう! ヘタクソ!』
ヴィクトリアがなじる。ティアナンは珍しく感情が高ぶり、動揺を抑えきれていない様子だった。
ただでさえ、普段は握ることのない銃だ。更に今は怪我を負っている状態の上に、様々な感情に苛まれている。
手が震えるのも無理もないとヘザーは思う。
「……へザー」
悪魔を見据えたまま、ティアナンが背後の彼女を呼ぶ。
思ってもいなかったところで呼ばれたへザーは、この場の緊張感にそぐわない素っ頓狂な声を上げた。
『は、はぇっ!?』
「あなたは、後ろを向いていて下さい。あなたには見せたくない」
『大丈夫だよ、あたしはもう子供じゃ――』
「もしあなたが大人だったとしても。それに、本物の銃ではなかったとしても。想っている相手が撃たれるところなんて、あなたには見せたくない」
『え……』
思ってもいなかった言葉に、ティアナンの足下に両膝を付くルーカスの姿を見やる。
――違う。あたしが想っているのは……。
否定の言葉が声になる前に、ヴィクトリアにそっと肩を抱かれた。
『……ほら、へザー』
そして背後の壁に向かされる。
ほんの僅かな間の後に、ひとつだけ、銃声が轟いた。
『ぐ、あ……!』
悪魔の呻き声が響き、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
どさりと重いものが落ちる音がして振り返ると、ルーカスの体が床に崩れ落ちている。
そして瞬いたほんの一瞬のうちに、景色が変わっていた。
あれほど破壊しつくされたはずの建物が、全て元通りになっている。
銃を下ろし大きな溜め息をつき、しばし虚ろな視線を周囲に漂わせた後、ティアナンがへザーとヴィクトリアを振り返った。
「どうやら無事に、悪魔の作り出した空間から抜けたようですね」
『じゃあ、何も被害はないの?』
「ええ。ただひとつ、心配なのは」
ティアナンが視線を向けたのはルーカスだ。完全に気を失っている。
「う……くっ」
腕を押さえて呻いたティアナンを、ヘザーは慌てて押し止めた。
『無理しちゃダメだよ!』
「……彼は、無事ですか?」
ヴィクトリアが素早く近付き、ルーカスの隣に膝を付いた。
顔色を窺い、脈を取り、ついでに閉じている目を開いてのぞき込み、納得いったように大きく頷く。
『大丈夫よ、顔色は死人みたいだけど生きてる。気を失っているだけだわ』
それに深い息をついて、ティアナンは壁にどさりと背を預けて座り込んだ。ぼんやりと宙を見つめ、囁く。
「信じられない……、本当に、あの悪魔を……?」
『そうだね。あたしもなんだか信じられないし、びっくり。まさかサンタクロースがヒントだったなんて』
ヘザーも頷き、すっかり元通りのツリーを見やる。ヒントをくれたあの人形は、トップの星の近くにあった。
悪魔を、祓ったんだ。ティアナンをずっと苦しめていた悪魔を。
これでもう彼は――。
そこでヘザーは、重要なことに気付いた。
『――ティアナン!』
「はい……?」
『まだ、生きてるよ』
「……? ――ッ」
指摘され、彼は青くなった。
「呪いが、解けなかった?」
言って、自身の体を見下ろして、何かに気付いたように息を飲む。
彼が凝視したのは、腕の傷だった。
もどかしげに袖を捲り上げると、そこには生々しい傷跡が残っていた。
あの戦いは夢ではなく、本当にあったことだと告げるように。
「今は、今の時間は――!?」
壁の時計に視線を走らせる。それは今ではしっかりと時を刻み、深夜の十二時二十分を示していた。
『時間がどうかした……の? って、あ!』
へザーはその重大なことに気付き、声を上げる。
同時にティアナンの顔が歪んだ。けれどそれは痛みのためではない。
「傷が……消えていません。これがどういう意味か、わかりますか?」
『それってつまり……!』
「わたしは死ななかった。けれど呪いは解けた。時が動き出したのです。止まっていたあの日から、再び」
ティアナンが受けた傷は、これまでは日付を越えると同時に消滅していた。それは悪魔に付けられたあの傷だけではない、新たに得た他の怪我や病気に関しても言える。
しかし、今はそれが消えていない。
ティアナンの呪いが解けたという何よりもの証拠だった。
これまで抱いていた苦しみ、それに絶望から解放され、彼の頬を一筋の涙が伝う。
予想外の、だがしかし幸運な結末に、へザーも何と言ってよいかわからず呆然としていた。
――良かった。嬉しい。
たったそれだけでは、この感情は表現しきれない。
『ティア……』
自身の手首の傷を無言で眺める彼にへザーがそっと声を掛けようとした、その時だった。
祭壇近くの小さな扉が静かに開いた。おそらくこの教会の管理者か何かなのだろう、初老の女性がライトを手に、目を丸くしてこちらを見ている。
ティアナンと目が合い、顔色を失った。
「……ッ!」
床に転がるリボルバー、倒れているルーカス、ティアナンの血――。
「あ、あの、これは……!」
「人殺し!」
ティアナンが弁明しようと立ち上がるが、その時には既に彼女は悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。
『ち、違うのこれは!』
へザーが叫ぶが、その声が届くはずもない。ヴィクトリアが舌打ちする。
『逃げるわよ! このままじゃ、アンタ犯罪者で刑務所行きになるわ!』
「しかし! 彼をこのままここに寝かせておくわけには――」
そう言ってティアナンが振り返った先には、未だ気を失ったままのルーカスの姿がある。
『バカ! お人好し!!』
そうこうしている間にも、けたたましいパトカーの音が遠くから近付き、それは瞬く間に大きくなった。車の急ブレーキ音と同時にサイレンが止む。
窓から外を覗くと、警官が銃を構え、こちらに向かって叫んだ。
「人質を解放して、大人しく投降しろ!」
『人質?』
「彼のことでしょうね。わたしは強盗か何かで、偶然ここで会った彼を撃ったとでも思われているのでしょう」
ティアナンが淡々と説明するが、『なるほど』と悠長に頷いていられる状況でもない。
『んもう~! だから逃げろって言ったのに!』
警官には見えないはずのヘザーとヴィクトリアまでも、つい物陰に隠れてこそこそしてしまう。
『仕方ないわねぇ。ここはアタシに任せて、行きなさい。あのお兄さんとは、アタシがちょ~っと遊んであげるから』
ウィンクし、ヴィクトリアはふわりと宙に浮いた。
壁をすり抜けて外に出るなり、警官の襟首を掴み、そのまま夜の空高く上って行く。
「う、うわあああああッ!?」
見えない何者かに引き上げられ、瞬く間に警官はパニックに陥った。
警官以上にティアナンも青くなる。
「ヴィクトリア!? それちょっとじゃない! やりすぎです!」
慌てて外に飛び出したティアナンがヴィクトリアに向かって叫ぶが、降りてくる気配もない。
悲鳴を聞きつけて、野次馬が続々と集まって来る。
その中に同じ警官の制服を見つけ、ティアナンとヘザーは慌てて身を翻した。
誰もが空に浮かぶ警官に気を取られているうちに、人混みを抜け、遠くへと走る。
『ま、待って!』
やがて大通りから閑散とした細い通りに入り、へザーはティアナンを止めた。
「……ヘザー!?」
『あたし、何か変。ぐらぐらして、それに急に目が霞んで……』
彼に引かれているその手は、今ではほとんど見えない。
何度も何度も瞬くが元には戻らず、それどころか視界は徐々に霞みがかってゆく。
『やだ、待って、まだあたし……!』
別れすら言っていないのに。
ヴィクトリアにも、目の前にいるティアナンにも。
『やだ、やだよ、こんな別れ方……! 神様お願い、もう少しだけ……!』
遙か彼方の空を見上げ、懇願するように叫ぶ。しかし返事はない。
「ヘザー!」
ヘザーの意識は、眠るように沈みこんでいく。
ティアナンが強く握りしめた手は。
冬のニューヨークの冷たい空気を掴んだだけだった。




