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(5)

 ティアナンが鋭く息を飲み、振り返る。

 道沿いに植えられた茂みから飛び出したのは、しかし、悪魔ではなかった。


『あーもうッ! イイトコだったのに!』

『ヴィクトリア!?』

「なぜあなたがここに!」

『アンタ達のデートなんて面白いこと、尾行して覗くの当たり前でしょ?』

『尾行!? 覗く!?』

「まったく、あなたにはプライバシーという言葉は……」

『いーから、その件は後!』


 ヴィクトリアの視線を追うと、そこには一人の青年が立っていた。

 道を塞ぐように立つ彼が身に纏う空気は、人間のものとは明らかに違う。

 ――悪魔だ。


『ティアナン、お前はアルバを失って以来、オレだけを見ていたはずだ。なのに最近は、その女ばかり相手にしていてオレのことはすっかり忘れているらしいな』


 その顔が醜悪に歪む。


『だから思い出させてやろう、お前が考えるべきことを。……今日は手加減なしだ』


 そして、ざらついた耳障りな声が叫ぶように告げる。

 それは一瞬の出来事だった。

 キイン、という耳鳴りのような甲高い音が脳まで響き、三人は思わず耳を塞ぐ。そしてそれが治まった時に周囲を見渡し、愕然とした。


『なに……これ』


 見慣れた街並みに、耳が痛くなるほどの静寂が満ちている。

 先ほどまでと何一つ変わらないはずの景色に違和感を覚え、へザーは落ち着きなく周囲を見渡す。

 遠くに見える道路を行くイエローキャブも、街路樹の細い枝さえも、何もかもが凍り付いたように固まっている。

 息を飲む音に振り返ると、ティアナンとヴィクトリアは無事なようだった。眉間に皺を寄せたティアナンが周囲を見渡して言う。


「時間が、止まっている……? いや、違う。それよりもここは、別の世界――」

『別の世界? ってどういうことよ!?』


 これに声を上げたのはヴィクトリアだ。


「推測ですが。ここは奴が作り出した異空間、といったところでしょうか」

『そんな能力まであるなんて、どんだけ無駄にハイスペックなわけ!?』

『お褒め頂き、どうも』

「……ッ!?」


 ティアナンが振りかざしたクロスを軽々と避けて、ルーカスの唇がにぃっと大きく弧を描く。


『今日は他のヤツらに邪魔されたくはない。いちいち消すのも面倒だからな』


 クスクスと笑い、その姿は霧のようにかき消える。


『捕まえたければ、追い掛けて来るんだな』

Shitクソ!』


 ヴィクトリアの口から、男性の声での汚い言葉が飛び出すが、ティアナンでさえも今はそれを窘めるほどの余裕はないようだった。


『いっそのこと、どっかから爆弾でもくすねて来て、ドカンと街ごと派手にあいつを吹き飛ばしたい気分だわ』

『だ、ダメだよそんな……ッ!』


 ヘザーは小さな悲鳴を上げるが、ヴィクトリアはただ肩を竦めるだけだ。


「それはやめたほうが賢明でしょうね。下手なことをすると、元の場所に戻れなくなる危険性が」

『んもう! ティアナンまで。わかってるわよ、あくまでも気分なだけだってば』

『そんなことより、見失っちゃう!』

「そ、そうですね」


 慌ててティアナンは首をめぐらせ、悪魔の姿を探す。それはすぐに見つかった。

 橋の欄干に立っていた悪魔は不適な笑みを見せ、ふいにその場から身を踊らせた。


『――! ダメ、ルーカスが!』


 青ざめたヘザーが駆け寄り身を乗り出して水面を見下ろすが、そこには水しぶきひとつ上がった形跡もない。


『ここだ』


 背後から声が聞こえ、肩を跳ね上げて振り返るが、その姿は既にそこには見つからない。

 そうやって悪魔は彼らを嘲笑うかのように姿を現してはすぐに消える。

 完全に静止した不気味な街の中、三人は自分達を除いてたったひとつ動くその人影を追って翻弄される。


『もうッ! あっちこっち、ほんと落ち着きがないったら!』

『も、もう、息が……』


 ある時は車の中から手を振り、かと思えば次の瞬間には、今度は背後のビルの二階の窓辺に立ち、ほくそ笑む悪魔に、ヴィクトリアが舌打ちする。

 ひたすらただ振り回されながら走り続け、三人の体力も瞬く間に尽きてきた。


『アイツ、そもそも何が狙いなワケ!?』

「それは、わたしも昔から疑問に思っているのですが……」


 荒い息をつき、ティアナンも困ったように眉を寄せる。


『知りたいか? そうだな、今日は特別に教えてやってもいい』

「……ッ!」


 すぐ近くで聞こえたひび割れた声に、身を翻して飛び退る。


『と、思ったが。タダで教えるのもな』

『こんの、ごうつくばりが! いくら欲しいってんだよ、えぇ!?』


 ヴィクトリアが男性の声で唸り、歯噛みする。


『金など必要ない。欲しいのは、楽しみだ』

『楽しみ……?』

『そう。人間達の痛み、苦しみ、悲しみ、それが好きなんだ、何よりも』


 ティアナンの目が、嫌悪に細められる。


「……下衆め」

『そう、その目、その感情。あまりの美味さに鳥肌が立つほどだ。お前の心は今、苦しみに満ちている。愛するアルバを救えなかったこと、いつまでも終わらない生、他の人間達とは相容れない辛さ――』

「言うな!」


 ティアナンの表情が苦痛に歪められる。


『ティアナン、聞いちゃダメ!』

『そうよ、それこそアイツの思うツボだわ!』

『……今は、新しい女を見つけたというわけだ』


 瞬間的に悪魔はへザーの背後に回り込んでいた。

 逃げる間もなく背後から抱きすくめられ、ぞくりと肌が粟立ち、首筋の毛が逆立つ。冷たい視線を向けられ、ヘザーは息を詰めた。


『ヘザー!』


 ヴィクトリアが声を上げ、ティアナンの顔がさっと青くなる。


「やめろ、彼女には手は出すな!」 

『このゴーストが消えたら、お前は今より更に苦しむのだろうな? もちろん行き先は天国などではない』


 ティアナンから腕の中のヘザーへと視線を落とし、その耳元で、ルーカスの声で甘く囁く。


『このまま一緒に地獄まで行くか? このルーカスって奴も一緒に、仲良く皆で』

『――そんなの、絶対にお断り!』


 ヘザーは思い切りスネを蹴り上げる。


『おっと』


 案の定あっさりと避けられたが、腕からは解放された。


『あまり怒らせるなよ? お前らなど、オレにとっては地を這う虫けらと同等だ。気まぐれで見逃してやっているだけということを忘れるな』


 ルーカスの声から耳障りなざらついた声に戻し、悪魔は警告する。

 ゆらりと蜃気楼のように周囲の景色が揺らぐ。

 刹那、激しい震動が起こった。派手な音をたてて地面に巨大な穴が開き、何もかもを飲み込んでゆく。

 ビルとビルの間の道路、街頭や車、それに街路樹が流れ落ちるようにして闇に消えてゆく。


『……っ!』


 ヴィクトリアが二人を抱え上空に逃げていなければ、確実に巻き込まれていただろう。

 眼下に広がる信じがたい景色や、空を掻くつま先に、ヘザーは悲鳴を上げた。


『そ、そそそ、空、飛んでる……っ!』

『アタシ達ゴーストでしょ! これくらいできて当たり前だったら!』

『じゃあなんでさっきまで走って逃げてたの?』

『あら、どうしてかしら……?』


 ヴィクトリアが本気で考え込み、首を傾げる。


「一度逃げましょう!」

『逃げるって、でもどこへ!?』

「教会です! 神の家には悪魔は入れない!」

『教会――』


 ティアナンの言葉を反芻したヴィクトリアの視線が、眼下に広がる街並みを素早く走る。そして一番に目に入ったそれに向かい、空を蹴った。


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