(4)
――ティアナン、お願い。もう一度、あたしとデートしてくれる?
映画館の目の前のカフェでヴィクトリアに言われたとおり待ちながら、ヘザーは何度も頭の中でその科白を繰り返していた。
『デートプランはアタシに任せて!』
そう言ったヴィクトリアが瞬く間に手配したのは、映画、それに一流店が軒を連ねるアッパー・イースト・サイドのレストランでのディナーだ。
その後は海が見える場所で夜景を見るというデートプランだった。
提案を聞き、ヘザーはその手際の良さと内容に目を丸くする。
『思ったよりマトモ……』
『あらっ、やあねぇ、どんなのを想像してたの?』
『え、えっと……』
『まぁヘザーが未成年じゃなきゃ、バーラウンジも追加したけどね。アタシの行きつけの、ドラァグ・クイーン達のお気に入りよ』
『そうそう、そういうのだと思ってた』
バーラウンジはまだヘザーにとっては敷居が高い。
未成年で良かったと、内心で胸を撫で下ろす。
『ティアナンのほうはアタシに任せて。ヘザーは支度して、先に行ってなさい。外で落ち合った方がデートっぽいでしょ?』
そう言ってウィンクしたヴィクトリアに急かされるまま身支度を済ませ、ティアナンには何も告げずに出て、今に至る。
(おかしく、ないかな……)
クリスマスの、雪をモチーフにしたデコレーションが施されたガラス張りの窓。
ヘザーは、そこに映る自分を確認する。
(うん、大丈夫。きっと前よりはずっといい、オタクには見えないはず)
今のヘザーは、ティアナンと出会った頃とかなり変わっていた。
大した手入れもせず、ただひとつに適当にまとめていただけの髪は今は艶があり、緩くウェーブして背に流してある。
白過ぎる肌には、健康的に見えるように淡いカラーのチークとリップ。指先には、ベビーピンクのネイル。
そして身に付けているのは、明るいイエローのシンプルなワンピースにパンプスだ。
ガラスに映る自分は、背筋も伸び、眼鏡を外した瞳も輝いていて、ほんの少し前とはまるで別人のようだった。
店内の時計が、四時を告げる。ここでもうこうして二時間近くは待っていることに気付いた。
(て言うか、そもそも、本当に来てくれるのかな。あんなに必死に名前を探してる最中なのに)
ヴィクトリアの計画に勝手に浮き足立っていた自分が急に恥ずかしく感じてきた。
ティアナン本人にちゃんと確認せずに、自分勝手だったかもしれない。
そう思うと、みるみる気持ちが萎んでゆく。
(……映画が終わる時間まで待って、来なければ、あたしも帰ろう)
壁にかかっている時計を改めて見やり、もう一度髪を確認しようと窓を見る。
反対側の歩道から車道を突っ切ってくる人影に、ふいに気付いた。
彼はガラスの壁越しにヘザーの前で足を止め、目が合うと、ほんの一瞬驚いたように目を丸くした。
そして、コンコンとガラスをノックし、微笑む。
ティアナンだった。
「驚きました。いつもと全く様子が違うから」
それがティアナンの第一声だった。
最近はほぼずっとヴィクトリアと行動し、色々なことを学んではいたが、ティアナンの前では至って普通にこれまで通りのまま過ごしていた。
これもヴィクトリアの提案だった。
『変身課程は見せないで、仕上がったらどーんとサプライズしちゃいましょ!』
そしてそれが今日だった、というわけだ。
『来てくれたんだ。あんなに真剣に名前を探してる最中だったのに』
「ヘザーのことを、ここのところすっかり後回しにしてましたからね。すみませんでした。やり直しましょう、リストの三つ目を」
『……うん!』
ヴィクトリアの手配は完璧だった。ヘザーが思い描いていたようなデートコースだ。
クリスマスのイルミネーションが美しく煌めく街、そして、ヘザーにとっては完璧とも言える相手。
しかし、予想外のこともあった。
このデートの最中ティアナンに言えずにいたことがあったが、最後の海が見える公園での散歩の時にはもう、限界を迎えていた。
それは――。
『ど、どうしよう。もう無理、歩けない……!』
普段ほとんど履くことのないヒールの高い、つま先の細い靴は、ヘザーには拷問に等しかった。歩きにくいだけではなく、少し動いただけでキリキリと痛む。
足元にほんの一瞬、視線を落とし――。
『わ!』
そのまま転びかけてしまった。ティアナンがとっさに支えなければ、派手に地面に転がっていたことだろう。
「だ、大丈夫ですか!?」
『うん、ヒールなんて履き慣れてないから……。あたし、やっぱりまだ子供だね。ヴィクトリアがせっかく大人のデートをセッティングしてくれたのに』
「いいんですよ、それで。先を急ぐ必要なんてありません。今という時は、今しかないのです。それを大切にして、しっかりと楽しめばいい」
先を急ぎたくても、へザーにはこの世での「先」はない。あるとしたら、悪霊化してしまうという最悪な事態だ。
それを思うと胃が重く沈み込むのを感じたが、「今を大切にする」という言葉を心に刻む。
へザーはそっと微笑んだ。
『……うん。そうだね、そうする』
「歩けますか?」
『大丈夫。こうするから』
言って身を屈め、ヒールを脱いで手に持った。
「それでは凍えてしまいますよ?」
今日は雪こそは降っていないものの、真冬のニューヨークは極寒だ。ティアナンの吐く息も白い。けれどヘザーには問題はない。
『寒くないから平気。ゴーストだもん』
どうもティアナンはヘザーがゴーストであるということを最近は忘れがちのようだった。「そうでしたね」と言って、自身に苦笑する。
並んで歩き出すと、指先が触れ合った。
ヘザーの手が、ティアナンの大きな手に包まれる。
指を絡ませるような繋ぎ方ではなく、大人が子供にするような繋ぎ方ではあったが、それでもヘザーの心臓は跳ね上がる。
『……っ』
「デートでは、こうするものだとヴィクトリアが。構いませんか?」
『う、うん、もちろん』
どもってしまったのが格好悪く恥ずかしかったが、ティアナンは「良かった」と微笑んで首を軽く傾けた。
(……あたしは、彼のことが好き)
ヘザーは、今では自身の想いを確信していた。
今思えば、ルーカスには単純に憧れていたにすぎない。彼と、彼の属するクールだと思っていた世界に。
けれどティアナンに対する気持ちは、それとは全く違うものだった。
彼は、「ダサい」とクラスメートに笑われる元のへザーでも、笑うどころか認めてくれた。
彼のことをもっと知りたい。
彼のためにできることがあれば、何でもしたい。
ずっと一緒にいたい――。
いつの間にかそう思うようになっていた。
ティアナンの抱える重荷を知った後に、自身の気持ちに気付いた。そして今ではそれが日々膨らんで行くのを感じている。
思い切って言ってしまおうか。そうしたら悔いもなくなるかもしれない。
(あたしが、悔いなく天国に逝くためには……本当にやりたいことは)
ずきり、と胸が痛む。天国に逝くことは、しばらくの間とは言えティアナンと別れることも意味している。
いや、そもそも自分が本当に天国へ行けるのか。
そして行けたとしても、もしそこがとてつもなく広かったとしたら、ティアナンと再び会えないのではないか。考え始めれば不安は尽きない。
けれど、このままではいつか悪霊化してしまうかもしれない。
それもそう遠くない未来に――。
「ヘザー? やはり、足が痛みますか?」
無意識に彼の手を強く握っていたらしい。ティアナンが、足を止めたヘザーに腕を引かれる形で振り返る。
『ティアナン。あのね、あたし――』
思い切って、想いを告げようとしたその刹那。
一陣の風が二人の間を裂くように駆け抜けた。




