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(3)

 自分が、悪魔の名の鍵を握っている。

 そう言われ、どんなに頭を捻って考えても、ヘザーにはやはりと言うべきか思い当たるものはない。

 ティアナンには自分のことを考えろと言われてしまうものの、それよりも、どうしてもティアナンのことのほうが気になった。

 ずっと追い求めていた悪魔を再び見つけることができたというのに、それを祓う術は相変わらず見つからない。

 彼にとってはもどかしい、などという言葉では足りないだろう。つい先日の事件も相まって、焦燥に苛まれているのは明らかだ。

 ここのところ、気付けば眉間に皺を寄せた厳しい表情で宙を睨み付け、物思いに耽っている。


『大丈夫かな。ティアナン、もう五日間もあそこから動いてないよね?』

『まぁ毎日リセットされる体だから、全く飲食も寝もしなくても、健康には問題ないとは思うけど。けどあのしかめ面じゃ、それを毎日見てるアタシ達まで参っちゃうわね。ちょっとは息抜きさせた方が良さそうねぇ……』


 部屋の入り口から二人でこっそりとティアナンの様子を窺う。昨夜寝る前に見た時とまるっきり変わらない。

 リビングの硬いソファに深く座り、黙々と本でできた高層ビル群に向かうその姿にヴィクトリアは、やれやれと首を振った。


『あの調子じゃ、お茶に誘ってもまた「後でいい」って断られるわね。せっかくのヘザーのジンジャークッキーとエッグノックなのに』


 キッチンに戻り、オーブンから取り出し少し冷ましたクッキーを、ヘザーはバスケットに丁寧に並べる。得意の、人形の形をしたクッキーだ。


『今日はクリスマス・イブだけど……ティアナンにとっては、今はそれどころではなさそうだね』

『そうねぇ……。ところで、ヘザーのほうだけど。リストでまだ完了してないのがあったわよね?』


 突如話を自分のことに振られ、ヘザーは瞬く。


『え? でももう、旅行も済んだし、クールになるっていうのもこれ以上は……それに、デートも』

『そう、それよそれ! 例のあの、ティアのお馴染みスポット巡りでしょ? そんなのデートじゃないったら!』

『そ、そうかもしれないけど……でも、あたしには他にデートに付き合ってくれるような人はいないし、それに』

『それに?』


 言葉に出かけたその科白を、すんでのところでぐっと飲み込む。

 今ではもうルーカスはもちろんのこと、他の誰ともデートをしたいとは思えなくなっていた。――たった一人を除いては。

 ヘザーはその本音を心の中に留め、慌てて首を横に振った。


『ううん、何でもない』


 恥ずかしくて、言えるはずもない。

 けれど、顔を赤らめて俯いたヘザーに、ヴィクトリアの目が意味深に細められた。次にはとびきりの悪戯を思い付いた子供のように、顔を輝かせる。


『あのね、ヘザー。ちょっと相談なんだけど……』




『ねぇちょっと? なぁに、天井に何かあんの?』

「うわッ!」


 その日の午後、膝に本を広げ険しい表情をし、腕を組んで天井を睨みつけているティアナンの背後にヴィクトリアがそっと忍び寄りった。彼の視線の先を追って、声を掛ける。

 ティアナンには見えない位置に身を屈め、彼の肩越しに囁くように声を掛けたのは、もちろんわざとだ。


「お、驚かさないで下さい、心臓に悪い……!」

『運悪く止まったとしても、明日にはまた動き出すんでしょ?』


 揶揄するような口調と表情で言われると、返す言葉もなかったらしい。ティアナンはただ息を吐き、首を小さく振る。

 本が無造作に散らばったテーブルを眺め、ヴィクトリアは苦笑いする。


『どう? 見つかりそう? アイツの名前』

「必ずあるはずなんです。真実の名のない悪魔なんて、いるはずもない」

『ちょっと根詰め過ぎよ。少しは肩の力抜いて、リラックスしなきゃ』

「いいえ。今はそんな場合ではないですから。やっとまた奴を見つけたんです。この機会を逃したら次はいつになるか……」


 そこまで言って、彼はふいに口を閉ざす。


『自分に言い聞かせてるように聞こえる』

「は?」

『今のアンタには、どこか迷いがある。もしお目当ての名前が見つかったとしても、アイツを祓って決着を付けるのを躊躇うくらいに。アタシにはそう見えるけど?』

「迷いだなんて、まさかそんな……!」


 勢い込んで強く否定し、しかしティアナンはすぐに言葉を飲み込み、俯いた。


「いえ、そうですね。ヴィクトリア、あなたは他人の心を読むのが上手い。嫌になるほどに」


 大きく息を吐き、背もたれに深く身を沈めて苦笑する。


『それって褒めてるのよね?』

「もちろんです」

『ん、ならいいわ!』


 にっこり微笑み、ヴィクトリアは満足げに大きく頷いた。


『続けて。一体、何を迷ってるの?』


 促すが、ティアナンの口は重い。


「ヴィクトリア……」


 言いたくない、とヴィクトリアを映すその目が訴える。


『話してみたら? ちょっとくらいは、ラクになるかもだし?』

「……いいえ、これはわたし自身の問題で」

『ヘザーのことでしょ?』

「なぜ……!」

『いやぁねぇ、アンタの考えなんて簡単に想像できちゃうわよ、単純なんだから』

「わたしは……あの悪魔を祓い、死ぬことだけをずっと考えて生きてきました。それを、心の底から望んでいた。そのはずなのに……」

『迷ってるのね。アイツを祓うことを』


 沈黙が落ちる。それはつまり、無言の肯定だ。


「ヴィクトリア、ここだけの話にして下さい。おそらく、わたしはヘザーとの約束を守れない」

『それ、どういう意味よ?』

「長いこと悪魔のかけた呪いに蝕まれているのは、体だけではないでしょう。わたしの魂も、もう神の御前には立てないほど影響を受けているかもしれない」

『じゃあ、アンタはどこへ行くっていうの?』

「悪魔と共の道を」

『それって……地獄へ堕ちるってこと?』


 一瞬の間の後、ティアナンは大きく息を吸い込んだ。


「ヴィクトリア、お願いです。もし悪魔を祓い、わたしがあなた達の元から去ったら。ヘザーを頼みます」

『イヤよ』

「……は?」

『イヤよ』

「……あ、あの」

『イヤ』

「さ、三回も言わなくても!」


 そこでヴィクトリアは、ふと頬を緩める。まるで困った子供に向き合うような笑顔だ。


『だってね、ティアナン。アンタ、あの子のことが好きなんでしょ?』

「……は? 好き? いや、あの、妹のように思ってはいますが……」

『妹?』

「ええ。なぜかわからないけれど、放っておけないと言うか、助けたくなるというか……それに、傍にいるとどうしてか落ち着くんです。不思議なんです、会ってからまだほんの瞬き程度の時間しか経っていないのに。できるなら、もっと一緒に時を過ごしたい。誰かのことをそう思えたのは、本当に久し振りです。あの時……以来で」


 そこまで言って、自身の言葉に驚いたようにティアナンは目を見張り、口を閉じる。


『あの時……ああ、あのアルバって女性ね。ホンット鈍感ねぇ。って言うか、意地っ張りと言うか。認めちゃいなさいよ、過去のオンナと同じだなんて、好きって言ってるのと同じじゃなくって?』

「まさか! あくまでも妹のような」

『はいはい、わかったわかった。オーケー、妹ね。そういうことにしておきましょうか、とりあえず今は』


 躍起になって否定するティアナンに、ヴィクトリアは大げさに首を振り、肩を竦めて苦笑する。


『だとしても。アンタの頼みは、お断りするわ』

「どうして!」

『だってね。そんな調子じゃ、次はアンタが未練タラタラでゴーストになるかもしれないでしょ。まぁそうなったらなったで、お互いゴーストである意味ハッピーエンドかもしれないけどね。でも違う、そうじゃない。あの子にアンタの本心ぶつけて、それで一緒に天国に行くのが、トゥルー・ハッピーエンドってもんじゃないかしら?』

「けれど、わたしは」

『地獄へ堕ちるっていう確証なんてないでしょ? それにアタシ、前に言ったわよね、神様って少し遅れたくらいで怒るほど狭量じゃないはずって。悪魔の被害者――つまりアンタのことよ? それを救わずに更に苦しめるなんて、アンタの信じる神様ってそんな非情じゃないはずよ』


 ティアナンは反論できないでいるようだった。驚いたように、ヴィクトリアをただ見つめている。


『だからね。自分で拾ってきた子の責任は、アンタが取りなさい。そうね、先にヘザーの未練も無くしてあげて天国へ見送って、その後アンタもすぐに悪魔を祓ってこの世を去るってプランが一番いいかしらね。それで天国で合流して、口説くなり何なりして一緒になればいい。……あの子、きっとアタシ達には言ってない本当の望みがあるんじゃないかしら?』

「本当の……望み?」

『それにね。アンタをがっかりさせちゃうけど。ヘザーは、あの悪魔の取り憑いたルーカスって子に惚れてるわね』

「……え」


 全く想像すらしていなかったらしい。これにティアナンの目が微かに見開かれる。


「そう、ですか……。だとしたら、必ず悪魔を祓わねばいけませんね。彼を、絶対に助けなければ」

『アンタって本当、鈍感よねぇ。アタシがアンタを焚き付けてるの、わからない? ここはライバルを助けるんじゃなくて、悔しがって何とか彼女を自分に振り向かせるところよ!』

「で、ですから。そういう気持ちではないと……! 六百歳差ですよ!? それに私は神の道を選んで」

『愛があれば、年齢も人種も性別も職種も関係ないってば』

「いえ、ありますって! いや、あの、世間一般的にはその考えは賛同しますし、素晴らしいことだと思います。けどさすがに、わたしとヘザーの場合では……!」


 勢い込んで言うティアナンを、ヴィクトリアは手を上げて黙らせた。


『まぁ、いいから。そんなわけで、その機会をアンタにあげるわ』


 言って、ヴィクトリアが差し出したのはスマートフォンだ。


「……? これが何か?」


 ティアナンは、怪訝そうに画面を見つめる。


『今日はクリスマス・イブよ? デートに良さそうな映画と、あとファビュラスなディナーの予約しといたから。貸したげる。これがないと予約の証明できないからね。あ、使い方はヘザーに聞きなさいな』

「は? デート? 映画?」

『そう。ヘザーとの待ち合わせは二時間後。そのスマホにあるシアター前のカフェよ』

「え!? 待ち合わせ? 二時間後? 一体何の話を――」

『ほらほら、ぼさっとしないですぐに支度して出なきゃ間に合わないわよ! キャンセルしても全額返ってこないのよ。そしたら、あんたのあの「グランマ貯金」から出すからね!』


 わけもわからないままヴィクトリアに蹴り出されるようにして家を出たティアナンの背を見送り、ヴィクトリアはやれやれと首を振った。


『すっかり心も胃袋も掴まれちゃってるのに気付かないなんて、ホント、鈍感過ぎるったら』


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