(1)
悪魔の真実の名を探る。
これは、途方もなく大変なことのように思えた。
『普通は、どうしてんのよ? どうやって名前を知るの?』
「聖書の言葉や、聖水で弱らせて聞き出します。ですが、あの悪魔は強力で、どちらもほとんど効果がなく……」
『じゃあ、あの悪魔について調べたらどうかな? インターネットとか、図書館とかで』
「いんたぁ、ねっと?」
『ちょっと! ハイテク音痴も度が過ぎるわよ! 今時ネットも知らないなんて』
「いやぁ、面目ない……」
苦笑するティアナンを尻目に、ヴィクトリアはスマートフォンを取り出し、素早く指先をひらめかせ画面を操る。
『ざっと見ただけでも、山ほどあるわね……』
『あんな大変な中で、いくつも名前を呼んで試すなんてムリだよ』
「わたしも、辞典の始めから最後まで、全て試したらどうかと思ったことがあるんですが……。悪魔と対峙している最中に、そんな悠長にやっている時間的余裕はありませんね」
『辞典?』
「ええ、たくさんの名前が載っている書物です」
ここでヴィクトリアがパチンと指を弾いた。
『わかった、書斎の本棚の、赤ん坊の名付け辞典! なんでそんな本をアンタが持ってたのか、これで納得いったわ』
『独身神父様が、赤ん坊の……』
『聖書じゃなく名付け辞典持って悪魔と対決する神父って、想像したら……あ、だめ、笑う、笑っちゃう』
二人に何とも言えない眼差しを向けられ、ティアナンは気まずそうにひとつ、ゴホンと咳払いをする。
「や、役には立つこともあるんですよ。赤ん坊の洗礼の時に、名付けに困った人に貸したり、とか」
視線を泳がせるその顔は赤い。
「そ、そのことはもういいでしょう。それよりも! 今は、悪魔のことです」
『今はティアナン一人じゃないんだよ。あたしとヴィクトリアもいる。だから、それっぽい名前をいくつか探しておいて、次にまた遭遇した時に皆で試したらどうかな?』
「そうですね。やってみる価値はありそうです」
『じゃあ、これね! あ、だめ、笑っちゃう』
言って、例の名付け辞典をテーブルの上に置いたヴィクトリアを、ヘザーは肘でつつく。
「悪魔についての禁書に、以前目を通したことがあります」
『禁書?』
「ええ、現在はバチカン市国に厳重に保管されていて、簡単には目にすることもできない書物です。昔、何とか読む機会を得ることができまして。その中にあった名は全て写し取り、そして試したのですが……」
そう言って、彼がいつも使っている鞄から取り出したのは一冊の手帳だ。これもまたレザー製の表紙がボロボロに擦り切れている。
茶色く色褪せた紙には、几帳面な筆記体でびっしりと名前が綴られていた。
『あのさぁ、もしかしたら、外国人名とかってことは? テンプラとかスキヤキとか』
「それ、人の名前じゃないですね」
『アタシの好物♡』
「外国人名の可能性はないでしょう。奴の遣う言葉は、中世アイルランド語と英語のみです」
『ちょ、華麗にスルーしたわね?』
『そうか、もし外国出身の悪魔だったら、話す言葉も違うよね』
「ええ。ですからアイルランド、もしくは英語圏の名前であるはずなのですが……。それに、昔使われていた名前の種類は今よりも多くはなかった。そう考えれば、だいぶ狭い範囲に絞られるかと」
『悪魔って言ったらもっとこう、いかにもな感じの独特な名前のイメージあるけどねぇ。ベルゼブブとか』
「悪魔と言えど、そのほとんどは元々そうだったというわけではないのですよ。神であったのが堕ちた者、それに生前は人間で、地獄に堕ち、そうなってしまった者もいます。だから名前は馴染みのあるものであることも多いのです」
『なんか、意外』
ヘザーも初めて聞く話だった。
『そう言えば、唐突だけど』
何かを思い付いたように手を叩いたヴィクトリアに、二人の視線が向けられる。
『アタシの知り合いにね、ちょっと第六感が鋭くて、そういうことに詳しいコがいるのよねぇ。もしかしたら、あの悪魔について何かわかるかもしれないわよ?』
「聖職者のお知り合いですか?」
『いやぁ……、むしろ逆というか』
『逆?』
ヘザーが、意味がわからず首を傾げる。ヴィクトリアは頷いた。
『ええ。だから今回はヘザーは連れて行けないわ。場所が場所だけにね』
ヴィクトリアがティアナンと連れだって向かったのは、ナイトクラブだった。
派手な音楽が大音量で鳴り響き、建物全体を揺らす。
フロアで浮かれ騒ぐ人々が、明らかに場違いな服装のティアナンに気付き、驚きに声を上げる。
「オイ! こんな場所に、神父が来やがったぜ!」
「マジかよ!? おいおい、勘弁してくれよ!」
ギャハハハという笑い声にティアナンは微かに眉を寄せるが、それは自分に向けられた声に対してではない。
この場全体の雰囲気に、困惑している様子で視線をさまよわせている。
「ヴィクトリア……ここは」
『時々ここに来ているんだけど、神出鬼没だから』
藁にもすがる、というのは、こういうことを言うのかもしれないとティアナンは苦渋に顔をしかめる。
『ちょっと! 眉間に皺寄せないで、怖~い顔! 空気読んで、一杯くらいは付き合いなさいったら』
肘でつつかれ、ティアナンは我に返ったようだった。渋々と言った様子で頷き、大きなため息を落とした。
「……わかりました。オーダーは、あそこですね」
カウンターに近付くと、バーテンダーはにやにやと笑う。
「注文は?」
「水とか言うなよ!」
途端、周囲からヤジが飛び、更に大きな笑い声が起こる。
「……ウィスキーを」
出されたグラスを手持ち無沙汰に、ティアナンはブルーの瞳を眇め、じっと周囲を観察する。腹をくくったのか、その表情は既に仕事の時に見せる真剣なものになっている。
フロアの端の暗がりに溶け込むように身を寄せ、彼は自然な仕草でためらいなくウィスキーに口を付ける。ヴィクトリアが意外だという目を向けた。
『あら、飲めるの?』
「ええ。さすがに長年の苦しみを紛らわせるものが、信仰心以外にも必要でしたからね。とは言っても飲むのは時々ですが。ところで、どんな人なんです? その知り合いって」
『女よ。年齢不詳の、こう、出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んでる、ナイスバディの』
訊ねられヴィクトリアは、ゼスチャーで体のラインを表して見せる。
「そういう感じの人、けっこういますけ、ど……? って、ヴィクトリア! あなたはここでは飲んではだめですって! グラスが浮いてます!」
ヴィクトリアがどこからか勝手に拝借してきたらしいグラスを、ティアナンは青い顔をしてその手から奪い取る。
『んもう、ちょっとくらいヘーキよ。神経質なんだから』
その時だった。二人の背後から、物音が聞こえた。
振り返ると、そこに扉がある。個室もいくつか用意されているらしい。
「ちょ……!?」
何を思ったか、ヴィクトリアがそれをノックもせずに開いた。それを止めようとして足を踏み入れて、目に飛び込んだ光景にティアナンは言葉を失い固まる。
ソファで、男女が絡み合っている。二人――彼らからしたらティアナン一人が足を踏み入れた途端、女が顔を上げる。
彼女の視線を追い、驚いた声を上げた男が彼女から身を離した。こちらに背を向け、何やら悪態をつきながら、腰のベルトに手をかけてごそごそと服を正す。
薄暗い室内で、二人が何をしていたかは一目瞭然だった。服はまださほど乱れていないのが幸いだったとティアナンは思う。
それでも気まずいことには変わりはない。慌てて身を翻す。
しかし、その襟首をヴィクトリアは掴んで引き戻した。
『見つけた』
「はあ!?」
ティアナンが驚愕に声を上げ振り返ると、憤怒の表情の男が目前に迫っていた。
「クソ! これからだってのに、邪魔しやがって!」
「あ、あの、すみません……! 決して悪意があってのことでは……!」
『いくらか掴ませて。あっちへ行ってもらうの』
「え!? なぜわたしが」
『いいから!』
「何独り言言ってやがんだ?」
「い、いえ、あの、お詫びにこれを」
ティアナンが差し出した十ドル紙幣二枚をむしり取るようにして奪い、男は彼を一睨みして去った。残された女はソファに身を起こし、真っ直ぐな視線をティアナンに向ける。
彼女は、ティアナンが想像していたのとは違うタイプだった。
抜けるように白い肌に、プラチナブロンドの長く波打つ髪。その色素の薄い睫毛も長く、淡い緑色の瞳を縁取っている。
先ほどのような行いを、このような場でするようにはとても思えない、儚さを持つ女性がそこにいた。
細く美しい指で髪を耳に掻き揚げ、女は微笑んだ。
ティアナンにではなく、その隣にだ。
「ヴィクトリア……久し振りね」
『ハイ、メレディス。お楽しみのところ、邪魔して悪いわねぇ』
「いいのよ、別に。あれくらいの男なら、すぐにまた代わりが見つかるわ」
ほう、と溜め息を落とす彼女は、神秘的とも言える美しさだ。
しかし彼女の口から出た言葉に、ティアナンは顔をしかめる。
「あなたにも、見えるんですね。ヴィクトリアの姿が」
「私は、占いを生業にしてるの。だから、第六感は少し鋭いわ。あなた達聖職者からしたら、魔女とか異端と言われる類の存在かもしれないけれど」
「それは――」
『悪魔について知りたいの』
ティアナンが口を開くと同時に、ヴィクトリアが素早く言葉を重ねる。
ティアナンが片眉を跳ね上げても、ヴィクトリアは全く気にする気配すらない。
『厳密に言えば、悪魔の名をね。ルーカスって男の子に取り憑いてる、やっかいなヤツ。その本名。占えない?』
「そう……、神父様はその悪魔に呪いをかけられているのね。お気の毒に」
「……ッ、なぜそれを」
「わかるわ。あなたは……あなたの纏う空気は、違う。生者でもゴーストでもない」
「わたしに呪いをかけた悪魔を、あなたは知っていますか?」
真摯に問いかけると、彼女、メレディスは口を噤んだ。
ティアナンを値踏みするように眺め、ややあって唇の両端を軽く引き上げる。その笑みは、思わずぞっとするほどにに美しい。
「……そうね、あなたが私と飲み比べして勝ったら、ヒントを与えてあげてもいい」
予想もしていなかった取引を、ティアナンは訝しんだ。
その真意を探るべく、慎重に訊ねる。
「なぜ、そんなことを?」
「単なる暇つぶしね」
髪を耳に掻き上げて、彼女は蠱惑的な笑みを浮かべる。
「もしかして飲めないのかしら? それなら、さっきの人の代わりに、続きに付き合ってくれるのでもいい」
言って、メレディスは立ち上がった。そっとティアナンに近付き、彼の腿を掌でなで上げる。
ティアナンは目を眇め、静かに身を引くことでそれを退けた。
「いや、それは結構。勝負のほうを受けて立ちます」
「あらそう? 残念ね、あなたいい男だから、一度は味見したかったわ」
これにはティアナンは、厳しい表情、そして無言で応えるだけだ。
メレディスはそっと肩を竦めた。
「いいわ、ではヴィクトリア、お願い。お酒を持ってきてくれるかしら?」
ヴィクトリアがバーカウンターから勝手に拝借してきたボトルがずらりとテーブルに並ぶ。
ビールはもちろんのこと、ワイン、ジン、ウィスキー、それにブランデー、スコッチ――どれも強いものばかりだ。
ティアナンはワインのグラスを取ると、ぐいと一気に喉に流し込んだ。
これにはヴィクトリアも驚いた。
『ちょっ、ティア! そんないきなり一気飲みなんて……』
「大丈夫です。わたしは、アルコールには強い。負けません、絶対に」
ヴィクトリアに宣言し、メレディスに向き直る。
「わたしは飲みました。次は貴女の番です」
「いいわ」
頷いて、メレディスも同じくワインのグラスを一気に空にする。
そのやり取りがしばし続き、勝負は平行線を辿った。
しかし、先に音を上げたのは、メレディスだった。
八本目のボトルにさしかかった頃、口を付けようとしたグラスを何度もためらった後に、そっと下ろした。
その顔は、今ではほんのりと赤みを帯びている。
「負けたわ。初めてよ、こんなこと」
彼女は、顔色ひとつ変わらないティアナンを驚いたような表情で見つめ、やがてにっこりと微笑んだ。
「いいわ、教えてあげる。あなたを包んでいる悪魔の気配。残念ながら私は知らない悪魔のようだわ」
「そうですか……。それにしても、悪魔の気配の違いがわかるなんて、貴女も相当な力を持っているようですね」
「そんな褒められるほどでもないけど、でも、それで生活できる程度ね」
さらりと言って、彼女は微笑む。邪気のない笑顔だ。
「人って、外見とか声とかって一人一人個性があるでしょう? そんな感じよね。気配にも個性がある。あなたを包む気配は、独特ね。きっと一度視たら忘れない。でも、私には過去にそれを視た覚えがない」
「そう……ですか」
「でもね、女性が見えるの。あなたの近くにいる女性」
『アタシ?』
「いえ、残念ながらあなたじゃないわね、ヴィクトリア」
ふふ、とメレディスは笑う。
「女性……と言うより、まだ子供かしら? その子が、鍵になるわ」
「ヘザーが?」
「心当たりある子はいるのね? なら簡単ね、彼女に訊くといいわ」
「でも彼女は、何も知らないのです。その悪魔のこと、それにわたしの呪いのことを知ったのも最近のことで」
困ったように首を振るティアナンに、メレディスはそっと微笑む。
「残念だけどね、イケメン神父様。私にわかるのは、ここまでよ」
「……ありがとうございます。あの、情報に対する報酬は」
「いらないわ。勝負には、あなたが勝ったのだから」
立ち上がったティアナンが、部屋を去る前に肩越しに振り返る。
「余計なお世話ですが、年寄りのお節介と思って下さい。もっと、自身を大切にしたほうがいい」
「若者の軽率な行いだと思って? ご心配ありがとう。でもね、これが私の望む、好きな生き方なの」
ティアナンが微かに眉根を寄せると、彼女は肩を竦めて見せた。
「わかってるわ、端から見たら眉をしかめられるような、愚かな行動に思えるってこと。けどね、世間一般の言う常識にとらわれて窮屈に生きることに、一体どんな意味があって? 他人の目を気にして生きるのは、自分の人生を生きていないのと同じこと。私は私として、望むように自由に生きたい。それを止める権利は誰にもないはずよ」
「そうですね。差し出がましいことを言いました。謝ります」
「いいえ、どうしたしまして」
メレディスはにっこりと笑って二人を送り出した。
『あのコ……メレディスも色々苦労してんのよ、だから……』
「わかっています、人それぞれに抱えているものがあることは。ですが、職業柄、どうしても……といったところでしょうか」
『アンタの場合は、性格上、って言った方がいいかもしれないけどね。まぁ、それがアンタって人間の良いとこだけど。ああいうのを認めて「いいぞもっとやれ」なんていうアンタは嫌だもの』
「いや、あの、誰ですかそれ」
地下から地上への階段を上り、ぎくり、とティアナンの動きが止まった。
「悪魔……!」
階段の最上段、ネオンで縁取られた店の狭い入り口に、その姿があった。
『メレディスか、あれは極上だな。ティアナン、お前の女か? あのアルバって女のことはもう忘れたか』
「違う! それに、彼女の名をお前が軽々しく口にするな!」
開口一番に悪魔の口から飛び出した科白に、ティアナンは激高する。
悪魔は肩を竦めて見せるが、大袈裟でわざとらしい仕草だ。
『お前、まだ諦めていないのだな。オレを祓うことを』
「当たり前だ! 絶対にお前の名を見つけて、地獄へと送り返してやる!」
地獄という言葉に、ぴくりと悪魔の眉が跳ね上がった。
『お前はオレの呪いで死ぬことはないが、単なる人間だ。それを忘れるな。何の力も持たない人間如きが、悪魔であるオレに勝てると思うな!』
ゆらり、と悪魔の纏う空気が揺らいだ。
『な、なんかこれ、マズいような――』
ヴィクトリアの言葉も、最後まで続かなかった。
その声をかき消すように、階下で激しい爆発音が炸裂した。




