(10)
――眠れない。
あの後、カフェに立ち寄る案は自然と消え去り、気付けば誰も口を開くことなく家に帰り着いていた。
いつもとは違い、緊張した空気の中、それぞれ早々に部屋に引き上げたものの、頭が酷く冴えている。深夜まで悶々とし、寝返りばかりを打ち続け、ヘザーは思い切ってベッドから身を起こした。
階下へ行くと、キッチンにはまだ明かりが灯っている。
そのテーブルに彼は座っていた。
食後、部屋に上がる前に見た時と同じ姿勢のまま、固まってしまったかのようだった。
『ティアナン』
そっと声を掛けると、その肩が微かに震える。
「まだ、起きていたのですか?」
『うん。って言うかあたし、ゴーストなのにちゃんと昼型生活って、よく考えたらおかしくない?』
わざと明るく言うが、ティアナンの顔色は晴れない。ただ少し、ヘザーに合わせて微笑んだだけだった。
すう、と息を大きく吸って、彼の前の席に着く。
まっすぐに目を見つめ、思い切って言った。
『お願い、話して』
「話す?」
『そう。ティアナンと、あの悪魔のこと』
「前にも話したとおりです。わたしは長いことあの悪魔を追って」
『それはわかってる。あたしが知りたいのは……』
――あの、アルバって女性のこと。
そう言いたかったのに、言葉が喉の奥につかえて出て来ない。
『あのオンナ誰よ?』
頭上から降ってきた声に、揃って顔を上げる。
ヴィクトリアが両腕を組み、凄みの効いた表情でティアナンを見下ろしている。まるで恋人の浮気現場を目撃して問い詰める時のようだ。
有無を言わさぬ強い口調に、思わず答えかけたティアナンだったが、すぐに首を振り口を閉ざす。
「……言えません。きっとあなた達は、信じないでしょう」
『バカにしないでよ。あんた、アタシを一体何だと思ってるワケ!?』
「え、何って、どらぁぐ・くいーん……です」
『違――くない! けど、今はそっちじゃない! ゴーストよ?』
ヴィクトリアの言いたいことをすぐに理解し、ヘザーも頷いた。
『そうだよ。自分がそうだっていうこと以上に驚くようなことなんてある? それが信じられるなら、何だって信じられる』
「ヘザー……」
『だから。何を聞いても、ティアナンを信じる。ティアナンも、あたし達を信じて』
二人の真剣な眼差しに、ティアナンは決心したようだった。ゆっくりと、だが確かに顎を引き、頷いた。
「……わかりました。全てを話します」
一拍置き、テーブルの上で両手を硬く組む。それを睨みつけるように視線を落とし、彼は重々しく語り出した。
「あの時、悪魔がわたし達に見せた人々は、わたしがこれまで助けることができなかった人々です」
『ティアナンが?』
「ええ、あの悪魔がよりしろとしてきた人々なんです。わたしは奴を祓えなかった。だから彼らは悪魔に体を乗っ取られ、命を落とした」
『あんなに大勢? それに服装だって、すごい古い物だったじゃないの』
ヴィクトリアの問いに、ティアナンは頷いた。
そして微かに逡巡した様子の後に一度大きく息を吸い、告げる。
「わたしは、ずっと昔から生きているんです」
沈黙が落ちる。
ティアナンは構わず、落ち着いた口調で当然のことを言うように、淡々と続けた。
「わたしが産まれたのは、一四一七年の三月十七日です」
『……そ、』
そんな、まさか。
思わず出かけた一言をヘザーはぐっと飲み込む。今、何を聞いても信じると言ったばかりなのに、と、内心で自身を罵る。
しかしティアナンはその言葉を予測していたらしい、ただ弱々しく微笑んだ。
「嘘ではありません。アイルランドの貴族の家に三男として産まれたわたしは、十の年齢の時にアルバと知り合いました。聡明で明るい人柄の彼女に惹かれたのは、わたしだけではなかった。兄のフィンも、一目見て彼女に魅了された。そして彼女が選んだのは、当時十六歳だった兄のほうでした。わたしは落ち込みはしたけれど、まだ子供である自分では兄には適わないと知っていました。それに、何よりも兄のことを一人の男として尊敬していたし、彼女にも幸せになって欲しかった。だから、二人を祝福した。けれど近くで見ていられるほど単純ではなかった。だからその五年後、わたしが十五の年齢になり修道院へ送るという話が出た時、すぐに飛び付きました。これも神のご意志とお導きかもしれない、と自身を強引に納得させて」
ヴィクトリアが眉を曇らせる。
『たった十五で修道院送りなんて、ちょっとヒドくない? そんなトシで一生が決まっちゃうなんて』
「いえ、そうでもありません。当時では当たり前のことでした。家を継ぐ権利のない者が神の道へ入り、その世界での出世を望む。わたしもそこで適当な地位を得て、普通の人間と変わらない短い一生を終えるはずでした。――けれど、そうはならなかった。あの悪魔が、わたしの時を止めたのです」
ヘザーは息を詰めた。ティアナンは続ける。
「ことの始まりは、一人のエクソシストの失踪でした。彼はわたしと同じ院の仲間でした。彼が悪魔祓いに赴き、そのまま姿を消した。エクソシスト達は皆、彼は悪魔に負けたのだろうと噂しました。そしてそれは、真実だった。彼は数日後に死体となって見つかりました。その体は黒い痣だらけで、四肢や首が有り得ない方向に捻れていました。悪魔の仕業としか思えない状態でした」
そこでひとつ重い息をつき、ティアナンは瞼を閉じた。
ほんの僅かな間の後、それを震わせて上げ、再び淡々と続ける。
「それから間もなく、次に異変が起こったのが、アルバです。あの悪魔にわたしが初めて会ったのは、その時でした。奴が選んだのは、よりにもよって彼女でした。悪魔と対峙した時、奴は言ったのです。あのエクソシストと同様に、この女も地獄に道連れにしてやる、と。そしてわたしは、彼女を救うことができなかった。仲間とアルバだけではない。彼女の尋常ではない死に様に、わたしの生家は世間から白い目で見られるようになりました。兄も妻を失い、それに世間体をも失って心を病み、生涯を狂わされた。そしてその後、数百年にわたってあの悪魔に取り憑かれて死んでいった何人もの人々――わたしは、彼らを救えなかった」
テーブルの上で握りしめられた拳が震える。しかしその感情を押し殺し、静かに彼は締めくくった。
「だからわたしは、その悪魔をずっと追って生きてきたのです。奴を祓い、敵をうち、そして止められた時を再び動かせることだけを願って」
『で、でも、病気で亡くなった妹さんがいるって……! だから、あたし、てっきり』
それは最近のことで、そして自分と同い年くらいの少女のことだと思っていた。思考がなかなか追い付かず、混乱に陥る。
しかしティアナンは終始落ち着いた様子で、ヘザーの疑問を一つずつ丁寧に紐解いてゆく。
「妹が亡くなったのは、一四八二年です。死因は病ではあったけれど、彼女は当時にしては長く生きた。妹だけでした。全く老いることのないわたしを避けなかったのは。他の誰もが、わたしを気味悪がったのに。信心深かった妹は、私の姿が変わらないのは神に愛されている特別な者だからと、信じていたのです。実際は逆であるのに」
そう言ってティアナンは寂しそうに笑う。どこか自虐的な笑みだ。
『他のエクソシストの人達は? 悪魔のこと知ってる仲間だったなら、理解できたでしょう?』
「わたしのような例は当時知られる限り、ひとつもありませんでした。信じた者も数人はいたけれど、逆にわたしを『悪霊に魅入られた者』として畏怖しました」
『そんな……じゃあティアナンは、ずっと一人だったの?』
「そう……ですね。ビリーと、それ以前に共にいた馬達以外は」
ティアナンは頷き、そっと笑う。ヘザーもヴィクトリアも押し黙る。
全てを告白し終え、ティアナンがふと全身の力を抜いて弱々しく首を傾げた。
「やはり、信じられないでしょう? いえ、責めているわけではないんです。わたしだって、もしあなた達の立場であれば、信じることなどできないでしょうから」
『違うわ、ティアを疑ってなんてない。アンタがそんな大きな嘘なんてつけないタイプの人間だってこと、知ってるもの。ただ、こういう時になんて言ったらいいのか……』
ヴィクトリアは、ティアナンに掛けるべき言葉が見つからないと言った様子で困ったように眉を寄せる。
「半信半疑、と言ったところでしょうか。そうですね……証拠と言えるかわかりませんが」
しばし考えた後に、ティアナンは何かを思い付いたらしい。袖を捲り上げ、手首を二人に見えるように伸ばした。そこにあるのは、細い一インチほどの赤い線だ。
「いつかヘザーが訊ねたこの傷。これはあの忌まわしい日、悪魔に会った際に付いたものです」
ヘザーはその傷をはっきりと覚えている。初めてティアナンの仕事を見た、あの時のことを。
「わたしの体は、ずっとあの特定の一日を繰り返しています。だから時が止まっているとは言っても、普通の人間のように心臓は動き、血は巡っている。空腹にもなるし、眠くもなる。見た目も機能も何も変わりません。けれど、毎日一定の時間が経つと、時間は巻き戻される。だから夕方に現れる傷が、翌日の朝には消えているのです。そしてその夕方にまた現れる、その繰り返しです」
ヴィクトリアが傷とティアナンの顔を見比べ、訊ねる。
『そんな――。もし、もしもよ、死んだら、どうなるの?』
「何度か試したことはあります。ですが、それすらもリセットされるのです。気が付けばまた、わたしはこの世に生きている」
『試したって……まさか』
へザーが囁くように言うと、ティアナンは彼女に目を向け、そっと微笑んだ。悲しみの満ちた笑みだ。
「このいつまで続くのかわからない人生に、それに悪魔を祓えない無力な自分に何度も絶望しました。キリストの教えでは、自殺者は神の元には行けないとわかっていても、それでも――。けれどわたしは、逃げることも許されなかった」
『……ッ、ティアナン……』
ヘザーはティアナンの苦悩を思い、胸が締め付けられる。
「わたしが外国へ行けないと言ったのも、これが本当の理由です。わたしには、身分を証明する書類がない。それに、長くは一定の場所には留まれません。いつまでも歳を取らないわたしを、人々は奇異な目で見るようになりますしね。でもそれは当然です、仕方がない」
『アンタも、随分と大変だったのねぇ……』
ヴィクトリアがいつもの様子でしみじみと呟くと、その場の重い空気が微かに払われたような気がして、ヘザーはやっとで全身の力を微かに抜くことができた。
『もし悪魔を倒すことができて、また時が動き出したら、ティアナンはどうなるの?』
彼は自身の手首の傷からヘザーへと視線を上げ、堅い声音で答える。
「おそらくですが、その場で消滅するでしょう。あれから六百年が過ぎた。その不自然な負荷に、人間の肉体が耐えられるとは思えませんから」
当然のことを言うように告げられたことに、ヘザーは何とも言えない感情が沸き上がって来るのを感じた。
誰にぶつければ良いのかわからない怒りに悲しみ、そして切なさ。
様々なものが混ざり合い、ヘザーを襲い、いきり立たせる。
『そんな――そんなの、やだよ、悲しいよ! だって、消滅って、死ぬってことでしょう? そのために悪魔を祓うなんて』
叫ぶように言うと、ふいに涙がこぼれた。慌てて顔を隠すように俯き、ごしごしと顔を擦ると、そっと頭に手を置かれる。
「泣かないで。わたしはね、ヘザー。ずっと、死にたいと願っていたんです。果てることのない身を持つからこそ、長く生きてきたからこそ、今では有限の時の有り難みがわかる気がします。人間は、どうしてこうも愚かなんでしょうね。失くしてみないと、自分の持っているものの本当の価値に気付かない」
それは自分も同じだとヘザーは思う。いつも足りないものばかりを見て、羨み、それを持てないことに不満を並べていた。卑屈だったと思う。
きっと自分だって、たくさんのものを両腕に抱えているはずなのに。
「けれど……」
顔を上げると、ティアナンのいつもの穏やかな笑みがヘザーに向けられていた。
「今はもう少し、悪魔を祓うのが先になれば、と思います。あなたと……あなた達といると、孤独を感じないで済むから。普通の人間として生きた、あの時以来です。こんなに毎日、生きていることが楽しいと思うのは」
彼を助けたい、とヘザーは思った。これまで何かをここまで強く望んだことなどなかった。その願いに比べれば、自分の書いたリストの願いなど、些細なことに感じるほどに。
しかし彼にとって、一体どうなれば助かったということになるのだろう?
必死に考えて、やっとで言葉を見つける。
『ティアナン……、一緒に天国へ行こう?』
「一緒に?」
ヘザーの言葉に、ティアナンは微笑んだまま首を傾げる。驚くほど穏やかで優しい笑みだ。
『うん。――あ、いや、あたしがちゃんと行けるかなんてわからないけど。だって宿題さぼったことも何度もあるし、両親を困らせたりもしたし』
「あなたはとても良い子ですよ、ヘザー。絶対に神はあなたを受け入れて下さる。わたしが保証します」
『子供扱いしないで』
「六百歳の年寄りからしたら、あなたは、生まれたての赤ん坊みたいなものです」
言って、ティアナンはくすくすと笑う。
『いい雰囲気のとこおじゃましちゃって悪いけど。そんな話なら、アタシも混ぜて~! ズルいわよ、仲間はずれなんて』
「けれど、あなたは自身の意志でこの世に残っているのでしょう? それも踏ん張って」
『まぁ、そうなんだけど……。ね、天国に、ツアー会社とかそういうシステムってないの? たまに下界に、旅行で行けるような』
「さぁ、わたしもまだ天国に行った経験がありませんから……。何でしたら、あなたが立ち上げたらどうです?」
『あら、それいいわねぇ! 天国で社長目指すのも悪くないわぁ。そうしたらティア、ガイドに雇ってあげてもいいわよ? もしくは受付ね、アンタ無駄に見た目モデル並だし』
「あ~……いえ、そういうのはわたしにはちょっと……」
すっかりいつもの調子が戻った二人に、ヘザーは頬を緩めた。
『そうと決まったら、何としてもあの悪魔を祓おう! ティアナン、ルーカス、それに、これまで犠牲になった人達の敵討ちのためにも』




