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(9)

 日々は瞬く間に過ぎてゆく。

 ヘザーは今ではルーカスの元に通うのは週に一度、それも僅かな時間になっていた。

 誰にも気付かれないことを諦めたはずだった。

 けれど、ハイスクールに行くと、どうしてもそのことを再認識せざるを得ない。

 いつもはティアナン達といるために忘れがちだが、普通の、生きて当たり前の日常を送っている人々の間に行くと、どうしても自分の置かれた異常な状況を思い起こしてしまう。

 だからその日もルーカスの様子だけをこっそりと確認し、逃げ去るようにすぐにその場を離れた。


 今日はヴィクトリアにノリータ地区に呼び出されている。

 あれからもヴィクトリアは毎日のように、ヘザーにファッションやメイクのことを教えていた。

 慣れないことばかりの連続で、つたない手付きながらも、徐々にヘザーはそれらを習得していった。

 ティアナンに言われ、初めてメイクをしてみた時のことを思い出して苦笑する。あれはまるでピエロだった。

 ヴィクトリアは、実際にメイクの仕方や服のアドバイスをするだけではなく、トップモデルが集うファッションショーや仕事の現場にもヘザーを連れて行った。

 それは、それまでのヘザーからしたら想像もしていなかった華やかな世界だった。


『感性を磨くの。ファッションだけじゃない、美術だとか食だとか。その世界の一流って呼ばれているものに触れるのって大事よ。外見だけ変わっても中身がそれに伴わなきゃ、そんなの単なるハリボテだわ。それにね、色んな知識があると人間的魅力がぐっと増すわ。ファッションとか芸術だけじゃない、政治とか経済とか。だから色んな本を読むのも大事ね』


 そういうわけで、その日は書店にも寄り、これまで読んだことのない本にも手を伸ばした。

 買い込んだ物を持って街中を行動するには、どう頑張っても目立ち過ぎる。大きな紙袋が宙に浮き、移動していれば大騒ぎになるのは避けられない。

 例によって人目を避けて移動し、荷物を全てティアナンの家宛てにし、郵便局の宅配物に紛れ込ませる。これがヴィクトリアの考え出した方法だった。

 今日もその作業を済ませ、ヴィクトリアは満足気ににっこり微笑んだ。


『あともう一カ所、寄るところがあるの』

『うん、わかっ、た――』


 と、不意に、くらりと眩暈がした。

 まただ。あの気が遠くなる感覚。視界が霞んで、体がどこかに引っ張られてゆく。

 ぞっとして、頭を小刻みに何度も振り、意識をどうにか繋ぎ止める。


(だめ、しっかりしなきゃ……!)


 自分に残された時間が短いのかもしれないと思うと、どうしようもなく焦燥に苛まれる。


『ヘザー? どうかしたの?』


 付いてこない彼女に気付いたヴィクトリアが、道の先で振り返った。


『な、何でもない、ちょっと靴紐を直してたの』


 慌てて言い繕い、ヴィクトリアの元へと駆け寄る。

 ヴィクトリアがヘザーを連れて行ったのは、セントラルパークだった。

 前にバーガーを食べたあのベンチで、見慣れた人影が二人を待っていた。ティアナンだ。


『あれ、ティアナンも一緒に行くの?』

「はい。ヴィクトリアに、三時にここに来るよう言われてまして。わたしもつい先ほど用事が済んだところです」


 一体どこへ向かうつもりなのだろう、とヴィクトリアを見やる。


『せっかくだし、たまには三人でカフェでお茶もいいでしょ? 空いてて、人目のあまりない穴場があるのよ~』

「カフェ――あの、そういった場所はわたしは場違いかと」


 これにティアナンが一瞬、渋い顔になる。


『何よ、たまにはそれくらい付き合いなさいったら!』


 確かに、カフェで一人でお茶を楽しむ神父の姿は相当浮くだろうとヘザーも思う。

 しかし、相変わらずのマイペース振りでヴィクトリアが先陣を切って進もうとした、その時――。


「――ッ!?」


 ティアナンが何かの気配を感じ取ったらしい、鋭く息を飲んで背後を振り返った。

 両側に木が覆い茂った細い道の先に、人影が見えた。一瞬誰かが通りかかったのかと思ったが違う。それは、若い女性だった。

 しかし、その身に着けている衣服が妙だ。古い時代の映画やドラマで見るような、足下までを覆うドレスを纏っている。


『なぁに、あのコ、お姫様か何かのコスプレ?』

『何かの撮影……とか』


 ヴィクトリアに答えるように呟いて、ヘザーは、ティアナンの顔色が真っ青であることに気付いた。


「そんな、まさか、アルバ――」


 その唇から、女性の名がこぼれる。


『アルバ? もしかして、ティアナンの知り合い?』

『――の、ゴースト?』


 二人が問いかけ、ティアナンがそれに答える前に、アルバと呼ばれた女性が近付き、彼の前で足を止めた。

 俯いていた顔を上げ、真っ直ぐに彼を見上げる。

 それはまだほんの微かに幼さを残した少女のような、しかしながら、どこか大人びた雰囲気も併せ持つ、不思議な魅力のある女性だった。

 腰まで届く栗色の豊かな髪が、陽光に煌めく。


『ティアナン。私を、覚えているでしょう?』

「……アルバ」


 絞り出すように呟かれた名に、彼女は微笑む。


『やっぱり覚えてくれたのね。嬉しい。私もあれからずっと、あなたのことを忘れたことなどなかった』

「……嘘だ、どうして、貴女は――死んだはずだ! 有り得ない!」


 これほどまでに取り乱した様子のティアナンを見るのは初めてだった。得体の知れない不安がヘザーを襲う。

 アルバはティアナンの言葉など聞いていない様子で、一方的に続ける。


『私は、私達は皆、地獄に堕ちた。悪魔憑きと呼ばれて、死後にも教会から存在を否定され、キリスト教徒として埋葬されなかったから。私は、あなたをあれからずっと恨んでいるわ。なぜ悪魔から救ってくれなかったの? 信じていたのに』


 辛辣な言葉がアルバの口から飛び出す。

 言葉とは裏腹に、表情が穏やかな微笑みのままであるのがまた異様で、ヘザーはその不気味な恐ろしさに肌が粟立った。

 ティアナンはもはや顔色を失っている。


『あなたは、私を永遠に苦しめてるのよ』

「……ッ! わたしだって、助けたかった……!」


 ティアナンが苦しげに呻き、首を振って一歩身を引く。


『――ちょっと、なんなの、』

『やめて!』


 ヴィクトリアが最後まで言い終わる前に、ヘザーが叫んでいた。

 ティアナンとアルバの間に腕を広げ、割って入る。


『あなたが何者か知らないけど、ティアナンは何も悪くない! 悪いことができるような人じゃない!』


 刹那、アルバの瞳が暗い怨念の色を帯び、ヘザーに向けられる。

 低く冷たい声音でヘザーに告げる。


『騙されないで。彼は、私を殺したの』

『信じない! そんなことを言うなんて、許さない!』


 怒りが、腹の底から沸き上がるのを感じた。

 アルバの言葉を全力で否定して、肩越しにティアナンを見上げる。


『ティアナン、しっかりして! 何があったか知らないけど、あたしはティアナンを信じてる!』


 彼の瞳が動揺したかのように揺れて、ヘザーを捉える。


「ヘザー……」


 するとアルバが、再びティアナンの意識を自分に引くように囁いた。


『愛していたわ』

「……な?」

『私もあなたを信じていた。そして愛していた。なのにあなたは、私を見殺しにした』

「――ッ……!」


 一瞬、呼吸を止めたティアナンの顔は蒼白だ。


 ――愛して、いた……?


 ヘザーの胸が、チクリと痛む。


「アルバ、あなたが、わたしを……?」

『ちょ、ちょっと、ティア!』

『そうよ。私は、本当はフィンではなく、あなたと結婚をしたかった』


 唐突に、ティアナンが笑い出した。


『……ティア?』


 その様子に、ヴィクトリアも眉を寄せる。狂ったように笑った後に、その声に、嗚咽のようなものが混じる。


「違う、貴女……いや、お前は違う、アルバじゃない! 本物のアルバなら、そんなことは絶対に言わない! アルバは、わたしではなくフィンを選び、そして心から愛していたのだから!」

『ティアナン……信じて。私は……』

「アルバの魂を冒涜するなど、悪ふざけが過ぎる。消え失せろ、悪霊め」


 構えた銃が、咆哮する。

 聖水の弾丸は、アルバの胸元に大きな風穴を開けた。その細い肢体が、地に崩れ落ちる。


『どうして、どうして、どうして……私は、あなたを、あいして、アイし、て』


 機械のように感情の籠もらない声が繰り返す。

 やがて言葉が途切れ、その姿も空気に溶けるかのようにかき消えた。

 唖然として瞬くと、ふいに拍手の音が響いた。

 三人は揃ってそちらを振り返る。そこにいたのは、ルーカス――否、悪魔だ。


『やるね、愛した女に手をかけるなんて。もっと軟弱かと思ってたけど見直したよ』


 相変わらずの耳に障る声にヴィクトリアは小さく唸り、ティアナンは顔を大きく歪めた。


「貴様――! やはりお前が……!」


 ぎり、と歯を噛みしめる。

 しかし悪魔は全く気にする様子もなく、むしろさも愉快だとでも言うように唇の両端を引き上げる。


『今日はオレは機嫌ががいい。だから特別サービスだ。お前が助けられなかった他の人間達にも会わせてやろう』

「な……に、を」


 ふいに、周囲が真っ暗闇になる。

 三人の周りを取り囲むように現れたのは、複数の人影だ。


『何よコレ、ゴースト……?』

『ううん、なんか、様子が違う』


 全ての人物が真っ白い生気のない顔をしていて、皆一様に、恐ろしいほどに表情がない。

 彼らの服装は、まるで時代を順番に遡るように古めかしいものばかりだった。

 中世風のドレスから始まり、近世に流行ったスカートの後ろを大きく膨らませるバッスルスタイルのドレス、男性ではシルクハットに燕尾服、そして現代のTシャツにデニムまで、まるで時代を遡る博物館だ。

 そしてそれを身に着けている者達も、よくできた人形のようだった。

 その中の一人は、先ほどティアナンが銃を向け倒れたはずのアルバだ。しかし今はその視点は定まらず虚ろで、微動だにしない。まるで死体のようだった。


『懐かしいだろう? 級友達に会えて』

『級友? 懐かしい? どういうこと?』


 ヘザーの問いに、しかしティアナンは答えない。ただ真っ直ぐに悪魔を見据えた。


「消えろ、永遠に!」


 噛みしめた歯の隙間から唸るような声を絞り出し、銃口を向け、引き金を引く。銃声が轟くと同時に、高笑いが響いた。

 そして次の瞬間には周囲の人影は消え去り、まるで何事もなかったかのように日常の景色が広がっていた。

 小鳥の平和なさえずりに、ヘザーとヴィクトリアは瞬き、周囲を見回す。


『あ……、あの、悪魔……は?』


 目まぐるしく変わった光景についてゆけず、ヘザーはその姿を探す。


「祓えてはいません、消えただけです。……行きましょう。奴とはすぐにまた、どこかで会う」

『ね、ねぇ……?』


 ヴィクトリアも珍しく遠慮がちに声をかけるが、ティアナンは振り返りもせずに足早に去って行く。

 その後を慌てて追うヘザーの心は複雑だった。

 あのアルバという女性のことだけではない。

 あんなに険しい表情のティアナンは知らなかった。

 そこでヘザーはあることに気付き、愕然とした。

 自分がこれまで、彼のことをほとんど知らなかったということに――。


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