(8)
翌日からさっそくヴィクトリアの猛レッスンが始まった。
前夜の言葉通り、マンハッタンのブティックを何軒もはしごした。
どの店もハイセンスなものばかりだ。
いつもであれば、ヘザーは萎縮してしまい、足を踏み入れるどころか足早にその前を通り過ぎてしまうだろう。
けれど、今日は違う。自分から変わりたいと言った以上、逃げるわけにはいかない。
人目をうまく避けて試着室で試してみるが、やはりどれも自分とはちぐはぐな感じがして、どうしても違和感を覚えて不安になる。
しかしそれでもヘザーはそれを口にはしなかった。
今は似合わないけれど、自分を磨けばきっと大丈夫、似合うようになる。
そう何度も自身に言い聞かせた。
その日の締めくくりに、閉店後のヘアサロンに、ヴィクトリアはヘザーを連れて忍び込んだ。
『オーケー、誰もいない』
全スタッフが去った後の店内は真っ暗だったが、ヴィクトリアは必要最低限の明かりを点け、ヘザーを大きな鏡の前に座らせた。
そこでへザーはヴィクトリアに教わりながら、自身の艶のないくせっ毛と奮闘する。
ヴィクトリアはその隣の席で自身の足にペディキュアを施し、リラックスした姿勢でファッションカタログをパラパラと眺めている。
彼女はヘザーの希望通り、進んで手を出すことはしなかった。
ただ言葉でアドバイスをし、時折、どうしてもできない時に手を貸すだけに止めていた。
ヘザーはひとり、二時間以上は鏡と向かい合った。
何度も何度もやり直すものの、なかなか思うようなヘアスタイルは作れない。鼻に皺を寄せて溜め息を吐いた頃、ヴィクトリアの声が遮った。
『休憩にしましょ。はい、これ』
いつの間にやらヴィクトリアが、スタッフ用のコーヒーメーカーを見つけて拝借していたらしい。気付けば、フロア全体にコーヒーの香ばしい匂いが満ちている。
紙のカップを受け取り、ヘザーは深々と溜め息を落とした。
『やっぱりあたしには色々なこと全部が難しい。クールな人って皆、こんなに頑張ってセンスを磨いてお洒落してるんだね。あたし、その頑張りには気付かないで、ただ皆はキレイで羨ましいって思ってた』
自分のつま先に情けない表情を向けたヘザーに、ヴィクトリアが思い出したかのように訊ねた。
『あのね、ヘザー。クールって、何だと思う?』
ヘザーは予想もしていなかった問いに顔を上げ瞬く。
『え? えっと、お洒落で、自信に溢れてて、友達も多くて、皆の憧れで。絶対に、誰からも笑われない』
答えながら頭に浮かんでいたのは、ヘザーの通うスクールで一番クールだと言われている少女だった。
彼女はチアリーダーのトップの座に君臨している、誰もが憧れる華やかな美人だ。自分とは正反対の位置にいるといつも思い、ただとにかく羨ましくて仕方がなかった。
ヴィクトリアは納得したように大きく顎を引く。
『そう。ヘザーはそう思うのね。でもね、それきっと間違ってる』
『ええ……!』
きっぱりと言い切られ、ヘザーは困惑する。
しかし今のヴィクトリアは、どこまでも真面目な表情だった。
『確かにお洒落で自信に溢れてる人はステキよね。けどその自信は、周囲にちやほやされてとか、スクールカーストのトップにいるからって身に付くものじゃないのよ』
『違うの?』
頷いて、ヴィクトリアは自分の胸に手を当てる。
『大切なのは、外側からの要因じゃない、内側よ。そういう人は誰よりも自分で自分を愛してるし、大切にしてるの』
ヴィクトリアの言葉をよく理解しようと、ヘザーはその言葉を胸の内で反芻する。しかし、いまいちその意味をしっかりとは掴めない。
『ナルシストになれってこと?』
『ちょっと違うけど……何と言うか、何があっても自分だけは自分の味方でいるってことかしら? ヘザーは、自分を敵だと思ってるんじゃない? このままじゃいけない、どうにかして変えてやらなくちゃいけない憎い相手だ、って』
言われてしばし考えてみて、そのことに初めて気付いた。
『そう言えば、あたし……自分が好きじゃなかった。いつも自分で自分を責めてるかも。クールじゃなきゃいけない、オタクなのは恥ずかしい、隠さなきゃいけない、皆と同じものを好きにならなきゃいけない。それができない自分はダメ人間だ、って』
言っていて、胸が苦しくなる。
『でしょう? それがヘザーがクールになれない理由だと思うわよ』
『それが?』
自分を大切にできないこととクールになれないことが繋がらず、ヘザーは首を捻る。ヴィクトリアは、神妙に頷いた。
『自分を愛せるようになるとね、他人の目なんて気にならなくなるわ。自然と自分を大切にしたくなるから、お洒落だって『しなきゃいけない』んじゃなくて、ワクワクした気持ちでしたくなる。外見だけじゃない、マナーだとか知識だって身に付けたくなる。もし誰かに傷付けられるような出来事があっても、凹むばかりじゃなくて言い返したり、その人からは離れたりして、自分をちゃんと守ってあげられるようになる。そうやっているうちに、どんどん自信が付いて、気付いたらクールになって、人から一目置かれるようになってるもんなのよ。他人にどう思われても、笑われたとしてもそんなのは跳ね返して堂々と胸を張って立っていられる、それが本当にクールな人間ってもんだわ』
ヴィクトリアの言葉に、ヘザーはぽかんとその顔を見つめる。
今まで考えすらしなかったことだ。
『……だからね。ヘザーが一番最初にしなきゃいけないのは、自分をうんと褒めて認めて、愛してあげることよ。それを忘れないでいて。ほら、こんなに素直で可愛い子じゃないの!』
ぐりぐりと遠慮なく頭を撫でられて、油断していたヘザーは『ひゃっ!』と声を上げた。
それでもまだいまいちピンと来ない、という表情をしているヘザーに、ヴィクトリアは苦笑する。
『こんな話したついでだから言っちゃうけど。ヘザーを見てるとね、昔のアタシを見てる気になるの』
『え、まさか……だってヴィクトリアはあたしとは全然違う。ポジティブだし』
『そんなことない。アタシね、自分にずっとウソをついてた。いつも自分以外の何者かになりたがってた。ヘザーと同じくらいの年齢の頃は、一番キツかったわぁ。本当は男らしくなんてしたくないのに、そう振る舞ってた。親だとか、友達だとか、周りの目を気にしてね。クールな男にならなきゃ! ってアタシも必死だったわ。だから、アメフト部に入って、頑張ったりもした』
『アメフト部だったの? ヴィクトリアが?』
『ええ。でもね。やっぱり、ムリだったの。自分の気持ちを無視し続けてたら、ある日いきなり、体が動かなくなった。なーんもする気が起きなくて、生きてるので精一杯で。食事だって面倒で、そのまま死ぬのかと思ったほどよ』
『そんな――』
ヘザーが眉根を寄せ悲しそうな顔をするが、ヴィクトリアは『や、もう今、こうして死んじゃってるわけだけど』と明るく笑い飛ばす。
それからひとつ、ふ、と溜め息を落とし、遠い昔を懐かしむような眼差しで続ける。
『それがきっかけだったわ。鏡を見て、げっそりした自分と目が合って。何してるんだろう、って思ったの』
『なんか、想像できない……。でも、大変だったんだね』
『ええ、そうね。あの時のムキムキマッチョからこのパーフェクトなスリムバディに変えるの、ほんっと! 苦労したのよぉ?』
腰に手を当てモデルのようなポーズを取り、うふ、とおどけて笑うヴィクトリアに、ヘザーもつられて吹き出す。
『ヘザーも、せっかく女の子に産まれたんだからね。オシャレは目一杯楽しまなきゃ損ってものよ』
ヴィクトリアは得意気にウィンクして見せる。
『うん、そうだよね。あたし、もっと自分を大切にする。お洒落も、もっと楽しむよ』
そう言って再び鏡に向かう。
すると鏡の中の自分と目が合い、ヘザーはにっこりと微笑んだ。




