(6)
頭が重い。頭だけではない、瞼も手足も、何もかもが重く感じる。
まるで大きな闇に飲み込まれて行くような感覚だった。
意識が朦朧とし、遠のいてゆく。
『……っ!』
呼吸を止め、目を見開く。視界に飛び込んだのは、前の座席に取り付けられている小さなテレビだ。
周囲を見回し、今自分は飛行機の中にいるのだということを思い出す。
(今の、なに……)
夢、と言うにはあまりにもリアルだった。体が無重力空間に放り出されるような、生々しい感覚まであった。自身を見下ろす。
(まさか……悪霊化、してるの……?)
背筋を這い上がってきた寒気に、半透明の体が震える。
『ヘザー?』
隣の座席のヴィクトリアがヘザーの様子に首を傾げる。
『大丈夫? 目、開けたまま寝てたみたいだけど……?』
『え、あ、そうだった? 恥ずかしいな、ちょっとぼんやりしてたんだ』
ヘザーは咄嗟に嘘をつき、笑ってごまかした。
二人が勝手に乗り込んだ飛行機は、もうじき目的地であるドイツ、ドレスデン空港に到着する。
着陸態勢に入りシートベルト着用サインが点き、ヴィクトリアが律儀にベルトを締めようとしたがヘザーがそれを止めた。
『ベルトが浮いちゃうよ』
『でも危ないじゃなぁい?』
『大丈夫。だってあたし達、もう何があっても死ぬ心配だけはしないでいいから』
これにヴィクトリアは『ごもっとも』と大いに納得し、頷いたのだった。
子供の頃から憧れていたはずのヨーロッパ周遊旅行だった。
既にイタリア、フランス、スイスを周り、最後にたどり着いたのがここドイツだ。
ホリデーシーズンの今は、どこもクリスマスのイルミネーションで飾り立てられている。どの街並みも普段に増して美しく、人々の目を楽しませる時期だ。
ドレスデンのクリスマスマーケットでは、ヘザー以上にヴィクトリアが顔を輝かせてはしゃいだ声を上げた。
『きゃーっ! ヘザー、これ見て、キュートだわぁ!!』
『うん、本当! すっごくキュートだね』
所狭しと並ぶ屋台で売られているのは、ツリーに飾る木製のオーナメントや人形に、カラフルで甘い匂いを漂わせるお菓子などだ。
そこは、まるでお伽話に出てくるような場所だった。
浮かれたヴィクトリアが観光客の写真に勝手に写り込むのをヘザーは止めようとしたが、逆に引っ張り込まれてしまう始末だった。
始めはヴィクトリアの勢いに冷や冷やさせられたが、最後にはヘザー自身も一緒になって笑い転げ、心の底から楽しんでいた。
そしてすっかり疲れ切った頃に、二人はその日のホテルへと向かう。
ここでもやはりヴィクトリアにおされた形で勝手に拝借したのは、高級スイートルームだった。
まるで夢の世界のように、何もかもがとびきり最高だ。
『ファビュラス!』
部屋に入るなり、ヴィクトリアがひゅうと口笛を吹く。
『ねぇ見て、寝室が三つもあるよ! すごい! 広すぎて部屋で迷子になりそう!』
『それにこのバスルーム。この鏡、テレビになってるみたいよ~。ジャグジーに浸かりながらワイン飲んで映画! いいわねぇ、一緒に入る? 女の子同士!』
『え。女の子――いやいやいや、無理無理無理』
ヴィクトリアは、心は女性かもしれないが身体は男性だ。
そもそも本当に女性同士だったとしても、誰かと風呂に入るなど抵抗があってできるはずもない。
どこまで本気なのか、ヴィクトリアは首を傾げる。
『あらそう? 残念ねぇ』
ヴィクトリアが豪華なバスルームに夢中になっている間に、ヘザーはバルコニーへと足を向けた。
そこから一望できる眼下に広がる夜の街並みは、系統こそは違うものの、ニューヨークのそれとも勝るとも劣らない美しさだ。
『あ、雪』
ひらりと舞い落ちた一点の白に、空を見上げる。
そうしてヘザーは、知らず知らずのうちに溜め息を落としていたらしい。
ヴィクトリアが厨房から拝借して来たと言うワイン、それにチーズや生ハムを盛った皿を手にヘザーの背後に立ち、苦笑する。
『なぁに、ヘザーったら、そんな浮かない顔しちゃって。いやぁね、楽しくないの?』
バルコニーに置かれた洒落たテーブルセットの椅子を引き、ヴィクトリアはそこに腰掛けて首を傾げた。
『ううん、そんなことないよ。でも、ティアナンも一緒に来れたら良かったのに、ってやっぱり思っちゃって』
素直に白状するとヴィクトリアも頷いて、テーブルの上に両肘を付き、組んだ両手に顎を乗せた。
『そうねぇ。ずいぶんと頑固に拒否ってたものねぇ。理由が「飛行機に乗れないから」って言うのが情けないけど。いいトシした大人の男なのに、ホント残念なイケメンよねぇ。……って、もしかして寂しい?』
『う、ううん! あたし、楽しんでるよ。大丈夫。だって、生きていたら、こんな豪華な旅行なんてできなかったから』
そう言って、背後の部屋を示して見せる。
テレビで見ることはあっても、自分には一生縁のない世界だと思っていた部屋がそこにはある。
『そう? それならいいんだけど……?』
『そうだ、ヴィクトリア。良かったら先にお風呂入ってよ。あたしはここでもう少し夜景を楽しんでるから』
ヴィクトリアに気付かれないようにとできる限り明るい口調を意識し、促す。
何かを思案するようなほんの少しの間の後、ヴィクトリアは『オ~ケ~?』と意味深にゆっくり言い、立ち上がった。
その背を見送って、ヘザーは再び息を吐く。
ヴィクトリアには『楽しんでいる』と言ったものの、ヘザーの心はなぜか沈んだままだった。いや、虚しい、と言うべきか。
その理由を考えて、すぐに答えを見つけ出す。
(だって、あたしの一番のやりたいことはもう絶対に叶わない。そうだとしたら、あたし、どうなるんだろう? 未練を断ち切れなかったら? そもそもこうなった理由が未練じゃなくて、自殺したからだったら? そうしたら、どうしたらいいの? ずっとこのままゴーストとしてこの世界に居続けるの? ……永遠に?)
考えて、そして想像をして肌が粟立った。
(そんなの、嫌だ)
ヴィクトリアは自分の意思でこの世に残っている。だからいつかは満足して、去るかもしれない。
ティアナンだって、いつまでも一緒にはいられない。彼は生きているのだから。
考えたくはないし、想像すら難しいことだったが、彼もいつかは老いて死ぬ運命にある。
そうしたら、ヘザーやヴィクトリアのようにゴーストとしてこの世界には留まらずに、すぐに天国へ行ってしまうかもしれない。
(神様に仕えている神父だもん。きっと、そうなる……)
『ほらそこチャンス! ゴーゴーゴーゴーゴー!! ……って、オーマイガー!』
部屋の奥から、男性の低い声での歓声が聞こえた。
ヴィクトリアだ。叫んでいる内容からすると、どうやらジャグジー付きのバスタブに浸かりながら、テレビでスポーツの試合観戦をしているらしい。
重い思考から引き戻されて、へザーはひとりくすりと笑う。
(ヴィクトリアって、すごい。全然、人目を気にしてない)
ゴーストなのだから、他人の目に映らないのは当たり前だ。
それでもヴィクトリアは、時に人を驚かせるような、茶目っ気たっぷりの悪戯をする。
小さな女の子の買ったアイスクリームに一段こっそりと追加したり、欲しがったおもちゃを買ってもらえなかった少年の小さなリュックにそれを入れてみたり。
『クリスマスマーケットだもの。サンタがいたって、おかしくないでしょ?』
そう言って、ヴィクトリアはヘザーにウィンクして見せた。
他人にどう思われているかを必要以上に気にしてびくびくしてしまうヘザーにしてみれば、ヴィクトリアの大胆な行動は羨ましくて仕方がなかった。
それはおそらく、ヴィクトリアがゴーストになる前、他人の目に映る頃も変わらなかっただろうことは簡単に想像できる。
――対して、自分ときたら。
『……変わりたいな、あたしも。自信を持って、堂々とできるようになりたい』
呟いて、雪の勢いが増した空を再び見上げる。
子供の頃から見慣れたニューヨークの曇天の景色と眼前に広がる空が、ふいに重なる。
同時に、生きていた頃の記憶が脳裏に鮮明に蘇り、きゅっと唇を噛む。
――このままでは嫌だ。変わりたい。
何度そう思ったかわからない。
幼い頃からヘザーは、はみ出し者だった。自分が他の子と決定的に違うと気付いたのは、ジュニアハイスクールに上がったばかりの頃だ。
クラスメートが話題にするお洒落なテレビドラマや流行のファッション、それにボーイフレンドのことに、ヘザーは全くついていけなかった。
ヘザーが読む雑誌は科学誌で、テレビ画面に張り付くようにして毎週欠かさず観るのはジェンキンズ博士が番組ホストを務めるサイエンス番組だ。
彼氏どころか、男の子の友達すらできない。
それどころか女友達ができそうになっても、ヘザーが興味のある話をするとほとんどの相手は眉をしかめて、まるで妙な生き物を見たとでも言うような目をヘザーに向け、去って行った。
そして気付けばいつもヘザーは教室で一人だった。
唯一、共通の話題で盛り上がれたのは、週末に通う科学プログラムのメンバー、それも皆ヘザーの親と言ってもいい年齢の人達だけだった。
ヘザーは学校では『ルーザー(負け組)』と呼ばれるグループに属していた。
だから自分とは正反対の、いつも大勢に囲まれていて笑い声の絶えない華やかなチアリーダーのグループに憧れた。彼女達や運動部のエース達は、ヘザーにとっては別世界の人間だった。
惨めだった。変わりたい、変わらなければ、と常に焦っていた。
けれど、どうすれば変われるかもわからなかった。ドラマやファッション雑誌に目を通してみたことも何度もある。
けれど、どうしてもそれが面白いとは思えないし、洋服を変えてみたりしても自分にはとうてい似合わなかった。
それでも頑張ってそれを着て学校に行ったこともあるが、その結果は悲惨だった。
クスクスと指をさされて笑われ、その日はすぐにトイレに駆け込み、泣きながら似合わない服を脱ぎ捨て着替えたのを苦い感情と共に思い出す。
『あの時は、辛かったなぁ……』
ヘザーは一度瞼を閉じ、再び上げる。
バルコニーの手すりに置いた自分の両手に視線をやると、それは透けていて、軽く掴んだ柵の乳白色がうっすらと見えた。
それをしばし見つめ、胸のうちで決意を強く固める。
よし、と気合いを込めてぐいを顎を上げ、空を睨み付けた。
『でも、もう全部終わったんだ。だってあたしは死んだんだから。今度こそ変わらなきゃ、絶対に。ちゃんと天国に行くためにも。このまま悪霊化なんてしたくない』
――悪霊化。
自身の言葉で、飛行機の中で襲われたあの暗闇に引き込まれるような感覚を思い出し、身震いした。




