(5)
「……ザー? ヘザー!」
呼び掛けに、ヘザーの思考は苦い思い出から今に返る。
気付くとティアナンが隣に立ち、ヘザーの顔をのぞき込んでいる。
『え? あ、なに?』
驚いて瞬くと、彼はヘザーの手元を指さした。
「ふきこぼれてました、鍋が」
『あ!』
鍋から溢れた水がコンロを濡らしている。火は既にティアナンが消し止めたらしかった。
『ご、ごめん、ちょっとぼんやりしてた! すぐできるから、ヴィクトリアも呼んできて』
「ええ、わかりました」
あとはマカロニに、具材とチーズを絡ませるだけだ。
いつものように食前の祈りをし、楽しい会話と共に和やかな食事をする。ここでの毎日でヘザーが一番好きな時間だった。
ヴィクトリアが食後のコーヒーをそれぞれに配り終えたところで、ティアナンがヘザーに提案した。
「そろそろリストを実行に移してもいいと思うのですが」
『リスト? なぁに、それ?』
何も知らないヴィクトリアが首を傾げる。
ヘザーが説明すると、ヴィクトリアは神妙な表情で頷いた。
『なるほどねぇ……。未練のせいで、この世にねぇ……』
『ヴィクトリアは? 未練があるから、ここに残ってるんじゃないの?』
「彼――いや、彼女は特殊と言いますか……」
『アタシは、本当は行こうと思えばすぐに天国に逝けるのよ。何せ生前は、生きたいように生きてきたしね。そりゃあ死にたくはなかったと思うけど……。だから油断してると逝っちゃいそうになるのよねぇ。そんなわけだから、昇天してたまるかクソが! って、気合い入れて踏ん張ってるのよ』
ヴィクトリアの物言いに、ティアナンは渋い表情で十字を切る。
「神のお決めになったことに反する行いなんですけどね、それ」
けれどヴィクトリアはにやっと口角を上げる。不適な笑みだ。
『少しくらいお呼ばれに遅れたからって怒ったりするほど、神様って狭量じゃないでしょ? ね、アタシのことよりも。旅行、行きましょうよ!』
『で、でも、ルーカス、じゃなくて悪魔が――!』
「悪魔のことは、わたしに任せて下さい。ヘザーは心配しないで、あなた自身のことに集中したほうがいい。あまりに長い間このままだと、その、悪影響があるかもしれませんし」
『悪霊化するってこと……?』
これにヘザーは、血の気が引くのを感じた。敢えて考えないようにしていたことだ。
『で、でも、ヴィクトリアだって、自分の意志でとは言っても、残っていても問題ないんでしょう?』
ヘザーがヴィクトリアに縋るような視線を向けると、ティアナンが「彼女は、特殊ですから」と神妙な顔で再び繰り返す。
『アタシはもしそういった兆しが少しでも出たら、その時は潔くすぐに天国へ逝こうって決めてるのよ』
「――ということなんです。ですからヘザー、あなたはリストを」
『そう……そう、だよね……』
墓場で見たゴーストのようになってしまうのは嫌だ。恐ろしくてたまらない。悪霊となった後に地獄へ堕ちることも。
ここはティアナンの言葉に従うのが賢明だろうと、ヘザーは大人しく頷いた。
『じゃあ早速、色々決めなきゃね! ティアナンも行くでしょ?』
一瞬その場に満ちた重い空気を払うように、ヴィクトリアが一際明るい声音で訊ねる。
しかしティアナンは、これには首を縦には振らなかった。
「いえ、わたしは遠慮します。旅行は、二人で楽しんで来て下さい」
『ええ~なんでよぉ?』
『一緒に行けないの?』
「ええ、その、わたしは、だめなんです。海外には、その――」
そこで彼は、言葉を濁す。
『あ、わかった! わかっちゃった!』
「――え」
『飛行機。ダメなんでしょ』
「……ばれましたか」
『まったくもう、情けないわね!』
ヴィクトリアが呆れてなじるが、ティアナンの意志は変わることはない。
「生きた人間のわたしがいるほうが何かと面倒が多いと思います。ゴーストのお二人の方が、気軽に動けるでしょう。ですから、ね?」
ルーカスにとりついた悪魔のことなどに気を取られ、ヘザーは自分の目的を忘れかけていた。
それに旅行も当たり前のように、ティアナンも一緒に行けるのだと思いこんでいた。
だから彼が行けないと言ったことに、かなりがっかりしてしまう。
しかし、ただでさえ居候している身なのだ。
これ以上、わがままを言って彼に面倒をかけるわけにはいかない。
だから彼女は、素直に頷いた。
『……うん、わかった。ヴィクトリアと楽しんで来るよ。お土産話、楽しみにしててね』




