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「……ザー? ヘザー!」


 呼び掛けに、ヘザーの思考は苦い思い出から今に返る。

 気付くとティアナンが隣に立ち、ヘザーの顔をのぞき込んでいる。


『え? あ、なに?』


 驚いて瞬くと、彼はヘザーの手元を指さした。


「ふきこぼれてました、鍋が」

『あ!』


 鍋から溢れた水がコンロを濡らしている。火は既にティアナンが消し止めたらしかった。


『ご、ごめん、ちょっとぼんやりしてた! すぐできるから、ヴィクトリアも呼んできて』

「ええ、わかりました」


 あとはマカロニに、具材とチーズを絡ませるだけだ。

 いつものように食前の祈りをし、楽しい会話と共に和やかな食事をする。ここでの毎日でヘザーが一番好きな時間だった。

 ヴィクトリアが食後のコーヒーをそれぞれに配り終えたところで、ティアナンがヘザーに提案した。


「そろそろリストを実行に移してもいいと思うのですが」

『リスト? なぁに、それ?』


 何も知らないヴィクトリアが首を傾げる。

 ヘザーが説明すると、ヴィクトリアは神妙な表情で頷いた。


『なるほどねぇ……。未練のせいで、この世にねぇ……』

『ヴィクトリアは? 未練があるから、ここに残ってるんじゃないの?』

「彼――いや、彼女は特殊と言いますか……」

『アタシは、本当は行こうと思えばすぐに天国に逝けるのよ。何せ生前は、生きたいように生きてきたしね。そりゃあ死にたくはなかったと思うけど……。だから油断してると逝っちゃいそうになるのよねぇ。そんなわけだから、昇天してたまるかクソが! って、気合い入れて踏ん張ってるのよ』


 ヴィクトリアの物言いに、ティアナンは渋い表情で十字を切る。


「神のお決めになったことに反する行いなんですけどね、それ」


 けれどヴィクトリアはにやっと口角を上げる。不適な笑みだ。


『少しくらいお呼ばれに遅れたからって怒ったりするほど、神様って狭量じゃないでしょ? ね、アタシのことよりも。旅行、行きましょうよ!』

『で、でも、ルーカス、じゃなくて悪魔が――!』

「悪魔のことは、わたしに任せて下さい。ヘザーは心配しないで、あなた自身のことに集中したほうがいい。あまりに長い間このままだと、その、悪影響があるかもしれませんし」

『悪霊化するってこと……?』


 これにヘザーは、血の気が引くのを感じた。敢えて考えないようにしていたことだ。


『で、でも、ヴィクトリアだって、自分の意志でとは言っても、残っていても問題ないんでしょう?』


 ヘザーがヴィクトリアに縋るような視線を向けると、ティアナンが「彼女は、特殊ですから」と神妙な顔で再び繰り返す。


『アタシはもしそういった兆しが少しでも出たら、その時は潔くすぐに天国へ逝こうって決めてるのよ』

「――ということなんです。ですからヘザー、あなたはリストを」

『そう……そう、だよね……』


 墓場で見たゴーストのようになってしまうのは嫌だ。恐ろしくてたまらない。悪霊となった後に地獄へ堕ちることも。

 ここはティアナンの言葉に従うのが賢明だろうと、ヘザーは大人しく頷いた。


『じゃあ早速、色々決めなきゃね! ティアナンも行くでしょ?』


 一瞬その場に満ちた重い空気を払うように、ヴィクトリアが一際明るい声音で訊ねる。

 しかしティアナンは、これには首を縦には振らなかった。


「いえ、わたしは遠慮します。旅行は、二人で楽しんで来て下さい」

『ええ~なんでよぉ?』

『一緒に行けないの?』

「ええ、その、わたしは、だめなんです。海外には、その――」


 そこで彼は、言葉を濁す。


『あ、わかった! わかっちゃった!』 

「――え」

『飛行機。ダメなんでしょ』

「……ばれましたか」

『まったくもう、情けないわね!』


 ヴィクトリアが呆れてなじるが、ティアナンの意志は変わることはない。


「生きた人間のわたしがいるほうが何かと面倒が多いと思います。ゴーストのお二人の方が、気軽に動けるでしょう。ですから、ね?」


 ルーカスにとりついた悪魔のことなどに気を取られ、ヘザーは自分の目的を忘れかけていた。

 それに旅行も当たり前のように、ティアナンも一緒に行けるのだと思いこんでいた。

 だから彼が行けないと言ったことに、かなりがっかりしてしまう。

 しかし、ただでさえ居候している身なのだ。

 これ以上、わがままを言って彼に面倒をかけるわけにはいかない。

 だから彼女は、素直に頷いた。


『……うん、わかった。ヴィクトリアと楽しんで来るよ。お土産話、楽しみにしててね』


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