(4)
その日はクリスマスイブだった。
雪が降る氷点下の摩天楼の街は、幸せそうに頬を上気させ、腕を絡ませ合い道を行くカップル達が目立つ。
それを尻目に、買い物を済ませたヘザーはきゅっと結んだ唇までマフラーを引き上げ、家に向かい足早に歩いていた。
吐いた息が凍り付きそうなほど寒い。一刻も早く、暖かい場所に行きたい。
大通りを抜け、近道となる公園に入り、人気のあまりない細い道にさしかかった時だった。
いつもはほとんど人影すらないその道の端のベンチに、今日はうずくまる影があった。
ボロボロの格好の男だ。頭には穴の開いた黒いニット帽を被り、擦り切れた上着の襟に隠すように深く引かれた顎は真っ白いヒゲで覆われている。
見た目は、他のホームレスと何も変わらないのに、なぜかそれにしては違和感があった。
それが一体何であるかわからず、思わずヘザーは足を止めていた。
不意に、目が合う。
驚いたことに、その男――老人は、にっこりと微笑んだ。その足下には口の開いた缶が置いてある。その中は空っぽだった。
(確かポケットに五ドル札があったっけ)
いつもはホームレスを見かけてもただ通り過ぎるだけだったが、なぜかその時は勝手に手が動いた。単純に、寒い中で身を丸める老人を気の毒に感じたのもあったかもしれない。
ポケットを弄り、けれどヘザーは、ふとその手を止めた。
今日はクリスマスだ。そんな日に、クシャクシャのお金を素っ気なく缶に放り込むのも、何となく違う気がしたのだ。
代わりに彼女は、ショッピングバッグからひとつの包みを取り出した。それは父へのプレゼントのマフラーだった。
ホームレスは、差し出されたリボンの付いた綺麗な包みに目を丸くする。何となく照れくさくなり、ヘザーは早口に言う。
「今日はクリスマスでしょ。だから、プレゼント」
その言葉に、老人は更に驚いたようにヘザーを見上げる。いつもはしない行動に、自分でも急に恥ずかしくなってヘザーは視線を落とす。
「あ、あとこれ」
照れ隠しのように、ポケットに入っていたヌガーも素早く差し出した。
「お嬢ちゃん、ありがとう」
その老人は、にっこりと微笑んだ。
その笑顔で気付く。彼の目は、通常のホームレスのどこか哀しげなものと違って、驚くほど活き活き輝いているのだ。
それが先ほど感じた違和感の正体だった。
「お返しをしなくちゃあいけないね」
「……え、でも」
あなたが? と言いかけて、言葉を飲み込む。
「お嬢ちゃんに、お返しのクリスマスプレゼントだ。今日この後、次に耳に入る名前。それがお嬢ちゃんの『運命』だよ」
「あたしの、運命? どういう意味?」
「メリークリスマス」
その老人は、ただそう答えただけだった。その後は身を丸めてうずくまり、眠るように顔を伏せてしまった。
「ねぇ、こんな雪の中で眠ったら――」
言い掛けて口を噤む。
言ったってしょうがない。自分にできることは、これ以上はないのだから。
肩を竦めて、ヘザーは足を進める。
地下鉄に乗り、先ほどの老人とその言葉の意味をぼんやりと考えた。
(クリスマス……か)
何となく、気分が変わった。
家に帰る前に、もう一カ所だけ寄り道をしようと思い立った。人混みが嫌いなヘザーは、普段は敢えて避ける場所だ。
途中下車し、ロックフェラーセンターに向かう。
クリスマスでふと脳裏に浮かんだのは、その前に立つ巨大なツリーだった。着いてみれば、相変わらず観光客でごった返している。
それも当然だろう、おそらく世界一有名なクリスマスツリーかもしれないのだから、とヘザーは思う。
迷子になった男の子が、ラストにここで願って家族と再会した、なんて有名な映画もあったはずだ。
観光客に混ざり、それを見上げた。
キラキラ輝くツリーに目が惹き付けられる。
「僕、今年は良い子にしてたよ! サンタさん来てくれるかな?」
「そうね、ルーカス」
「ルーカス……?」
隣を見ると母親に手を引かれた小さな男の子がいる。にっこりと微笑んだ母親は屈んで男の子の頬にキスし、一緒にツリーを見上げた。
老人の謎めいた言葉が浮かぶ。
――お嬢ちゃんに、お返しのクリスマスプレゼントだ。今日この後、次に耳に入る名前。それがお嬢ちゃんの『運命』だよ。
「あたしの運命の人が、あの子ってこと? ……まさか!」
馬鹿げている。
苦笑して、ヘザーはその場から立ち去った。
……けれど、その言葉はずっと忘れられずにヘザーの心の片隅にあった。
そしてその二年後、今から遡ること四年前に、ハイスクールで彼に会った。
一目惚れだった。クラスの中心にいる彼はいつも笑顔で明るく、ヘザーとは対照的で、輝いて見えた。
もちろん彼は、あの時の子供ではない。
でも彼は『ルーカス』という名だった。それを知ったのは、彼に惹かれた後のことだったが、その時の衝撃はいまだに覚えている。
『ルーカス』が運命だとしたら、もしかしたら彼が――。
有り得ないことだとわかってはいたのに、心の片隅であの言葉を信じていた。ずっと、ひとり憧れていた。
なるべく周りには悟られないようにはしていたけれど、気付けば目で追っていた。だから、声を掛けられたあの瞬間は、天にも昇る気持ちだった。
ランチタイム、定位置であるカフェテリアの隅に座るヘザーの前に、その日ルーカスが立った。
「ハイ、ヘザー!」
そう言って、彼はにっこりと笑った。
「頼みがあるんだけど」
「な、なに?」
「あのさ、次の日曜、予定開いてる?」
「開いてる……けど」
「じゃあさ、俺とデートしてくれる?」
心臓が、破裂するかと思った。これは夢だ、きっとそうに違いない。
「う、うん……」
もちろん、喜んで。
そう言おうとして、口を開いた瞬間。
ルーカスが噴き出した。その背後から、彼の友人が二人揃って顔を出す。
「おもしれぇ! 本気にしやがった!」
「……え」
「お前、いつもルーカスのこと見てんじゃん? 好きなんだろ?」
ルーカスを愕然と見上げると、笑いをこらえて口に手を当て、顔を歪ませている。
「悪いな、冗談だよ」
その隣で友人は、腹を抱えて笑う。
「いやぁ、だってあまりにいつも物欲しげに見てるからさ! それも四年間も、ずっとだぜ? つか、有り得ねーだろ! オタクの女となんて!」
かっと頭に血が上り、次の瞬間には音を立ててそれが引くようだった。
この場の視線が全て自分に注がれている。クスクスという笑い声。床を蹴って立ち上がり、嘲笑を背後にその場から逃げ出した。
馬鹿だったと思う。どうして一瞬でも信じてしまったのだろう。
「ウソつき……! ルーカスが、あたしの運命だなんて……」
廊下の壁を背にずるずるとその場に座り込み、膝を抱えてヘザーは嗚咽した。
それが、ヘザーがゴーストとなり、ティアナンと会う前日の出来事だった。




