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『あたしは、死んだ』


 ヘザーがそのことに気付くには、さほど時間はかからなかった。

 目が覚めた時には、ここに立っていた。

 大都会にある廃墟ビルの一室だ。

 壁にスプレーでの落書きが散りばめられているところから見て、誰かが足を踏み入れることもあるらしい。

 しかし今は誰もいない。一人きりだ。

 ヘザーは窓辺に寄り、外を覗く。時は深夜だ。

 生まれ育った街、大都会ニューヨークの、見慣れた夜景が眼下に広がっている。華やかなネオンが、いつもと変わりなく色鮮やかに瞬いている。


『……光。白の』 


 最後の記憶は、目も開けられないほど眩しい白い光だった。

 それに鼓膜を裂くようなけたたましいクラクションの音と、タイヤがアスファルトを擦る急ブレーキの音、強ばった運転手の顔――。

 遠くから響いたクラクションに今に引き戻され、ぶるりと身を震わせて慌てて窓から離れた。

 ふと、足下で何かが煌めく。それは砕けた鏡の破片だった。

 壁にかかったままの割れた鏡に写るのは、野暮ったい黒縁眼鏡に、そばかすの少女――つまりはいつもと変わらない、冴えない自分の姿だった。

 適当に一つに纏めた痛んだブロンドヘアに、ダボダボのフランネルのシャツと色の褪せたジーンズも変わらない。

 ただし生前と違うのは、背後の景色が薄く透けて見えるということだった。


『あたしは、死んだんだ』


 こういう時、もっとパニックになるものだと思っていた。けれど実際は、そうはならなかった。血の気が引き、目眩がする。

 と、不意に靴が床を蹴る音が響いて、反射的に振り返る。

 荒れ放題の部屋に足を踏み入れた男は、ここニューヨークで最も治安が悪いと言われているこの地域で見る男達とは、明らかに雰囲気が違っていた。

 身に着けているのは、レザージャケットでも裾の擦り切れたデニムでもない。その男は、真っ黒い服に身を包んでいた。

 羽織ったコートの下の衣服も揃えたように黒だ。

 その胸元で鈍色の光が揺れ、眩しさにヘザーは目を細める。

 首から下げたロザリオ――それは、聖職者を示すものだった。


『神父……さん?』


 あまりにも意外な人物の登場に思わず呟くと、彼がこちらを振り返る。

 ヘザーは無意識に息を詰める。目が合った彼は、ほんの少し考え込むように首を傾げた。


「……あなたは、ゴーストですね?」

『あ、あたしが見えるの?』


 唖然とするヘザーに、彼は顎を引いて頷く。


「ええ、もちろん。わたしは、悪霊と悪魔祓いを専門にしているエクソシストです。ここにいる悪霊を祓って欲しいという依頼を受けて来たのですが」


 じっとヘザーを見て、透明感のあるブルーの目を瞬かせる。


『な、なに?』

「……違いますね、あなたじゃない。あなたは悪霊ではない」

『あ、悪霊って……当たり前よ、あたしは違う!』

「ここにあなた以外のゴーストは……どうやら今は、気配がないようですね」


 大きなため息を落とし、神父はボロボロの椅子に身を落とし、同じく朽ちかけたテーブルを傍に引き寄せた。

 そして、かなり使い込まれた様子のレザー製の肩掛け鞄からある物を取り出す。

 それはヘザーもよく見慣れたバーガーショップ、「クックスバーガー」の紙袋だった。

 わけがわからずぽかんとするヘザーの前で神父は手を組み、食前の祈りを律儀に唱える。

 最後に軽く十字を切り、バーガーの包みを取り出し、かぶりついた。

 ヘザーは、その一連の流れを呆然と眺めるのでいっぱいいっぱいだ。


「あ、あなたも食べたいのですか?」


 視線を感じたらしい神父は、袋から新しい包みを出してヘザーに差し出す。


『い、いや、そうじゃなくて!』

「はい?」

『神父……なのよね?』

「ええ、はい、そうですね」


 言って、彼はにっこり笑う。


『なのに、ファーストフードって……』

「郊外からここまで、何時間もずっと走って来たもので。張り込みになる可能性もありましたし」


 「現にこうして、そうなってます」と彼は肩を竦める。


『何時間も走って来た?』

「わたしじゃないですけどね。ビリーです」

『ビリー? 誰?』

「外で待っています。今、彼もエネルギー補給中です」


 彼が指し示したのは、窓だった。

 言われるままに下を見ると、何やら動物らしい影があった。

 目を凝らして、驚いた。

 そこにいるのは犬でも猫でもない、馬だ。草をはんでいる。

 ニューヨークの街中を、車ではなく馬を走らせて来たと言うのか。

 ヘザーは言葉をなくし、エクソシストと名乗る男を改めてまじまじと見つめた。

 さらりと流れる黒髪は若干乱れてはいるが、その様子がまた不思議なほど彼の魅力を引き立たせている。

 高い鼻に、程良い大きさの目。

 映画俳優と言われても違和感のないほどの甘い面差しだ。

 年の頃はおそらく二十を少し過ぎたあたりだろう。彼がもし自分と同じ年齢、つまりハイスクールの学生であれば、学校で一番モテるだろうと思う。の、だが――。

 それが今、神父の服装で、ハンバーガーをがっついている。


(何これ、超違和感、超然違和感……ッ!)


 瞬く間に食事を終えると、彼は改めてヘザーに目を向け微笑んだ。


「あなたの名は?」

『ヘザー。ヘザー・パーカー。あ、あの、神父……さん?』

「わたしはティアナンです。ティアナン・オフラハーティ」

『ティアナン。あの、あたし、気付いたらここにこうしてて……どうしたら、いいのかな』


 真剣な眼差しで訊ねると、ティアナンと名乗った彼は顎に手をあて、ヘザーをブルーの瞳でじっと見つめる。ややあって、軽く首を傾けた。


「……さぁ?」

『さ、さぁって! あなた、神父でしょう? そういうことに詳しいんじゃないの?』

「わたしができるのは、悪霊と化した魂や悪魔を祓うことです。しかしあなたは、先ほども言ったように、そのどちらでもない」

『だったら、どうなるの? ずっとこのまま?』


 眉を寄せ問うと、彼も再び考え込むように間を置いた。そして今度は何かに思い当たったらしい、小さく顎を引く。


「あなたは何か、この世に未練があるのでは?」

『未練?』

「ええ、そうです。だからあなたは、未だつなぎ止められている。おそらく、そんなところでしょう」

『もし、そうだったら?』

「その未練をなくすことです。そうすればおそらく、神の元へ行ける」

『未練を、なくす……?』

「ところで。あなたはここで、他のゴーストを見ませんでしたか?」

『他のゴースト?』

「ええ。厳密に言えば、悪霊です」

『悪霊……ううん、それっぽいのは見てないけど。あたし、もう何日もここにいるけど全然』

「そう、ですか。だとすると、拠点を変えた可能性もありますね」


 ヘザーの答えに、残念そうに彼は溜め息をつく。


「では、わたしはこれで」


 言って、椅子を引き立ち上がった。


『ちょ、待って! か、帰っちゃうの?』

「ええ」


 行ってしまう。

 唯一、自分を見ることができた相手が。

 ヘザーはどうにか彼を引き留めようと、急いで言葉を探す。


『助けて!』


 そして咄嗟に出たのが、その短い一言だった。

 叫ぶような声に神父は足を止め、肩越しに振り返る。


「は? 助けて……ですか?」


 そう求められる意味がわからないと言いたげに、彼は瞬く。


『そう、助けて! あたしを、どうにかして!』

「どうにかって……」

『だ、だから、その――とにかくこのままここで一人でいるのは嫌なの! だって怖いもん! 夜とか特に! だってほら、こんな真っ暗だし!』

「暗闇を怖がるゴーストも珍しいですね。しかし、わたしにできることは何も……困りましたねぇ」


 苦笑するが、本当に言葉の通りに困っているようだった。

 眉を寄せて困惑した表情で、首を傾けてヘザーを見る。

 その様子はさながら、どこまでも付いてくる捨て犬か何かを前にしているかのようだった。


『わ、わかった! じゃあ、あたしも一緒に連れて行って!』


 咄嗟に、その科白が口を突いて出ていた。それほど必死だった。

 ヘザーとて、もう幼い子供ではない。知らない人について行ってはいけないことくらい常識として知っている。

 けれど今は緊急事態だ。

 もし目の前のこの人物が、見た目に反して凶悪な性格の持ち主だったとしても、ことは今以上に悪くなることはないだろう。

 何せ自分はもう、失うものなど何もない状態なのだから。


「あなたを一緒に?」


 ティアナンも予想すらしていなかったらしい、目を丸くする。


『だ、だって、本当に、本ッ当~に! どうしていいかわからないの。昼間外を出歩いてみたけど、誰もあたしに気付きもしてくれなかった! お金だってないし、このままじゃあたし生きていけない!』

「――生きて」

『あ、や、もう死んでるんだけど! と、とにかく、困ってるの、緊急事態なの!』


 彼はしばらく考え込んだのち、やがて苦笑混じりに頷いた。


「まぁ、いいでしょう」

『ほんと!?』

「ですが、何のおもてなしもできませんが、構いませんか?」

『もちろん!』


 自分を見ることができ、こうやって話すことができる相手がいるだけでどんなに有り難いか、言葉では表現できない。

 ぱっと顔を輝かせたヘザーに、ティアナンはにっこりと微笑んだ。


「では、一緒に帰りましょう」


(神様だ、この人、きっとあたしにとっては神様だ)

 その神々しさに、ヘザーの目が眩んだ。


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