長い一日
「めずらしいね、こんなにお客さんが多いのわ」
「どうせ、すぐに分かる事だから、言っておくけど……俺の家族が来てるんだ」
「なるほど、天涯孤独てのは、家族持ちのことだったんや」
「なんやその拗ねた言いましわ。お前らしくない、勘弁してくれ。……それより、食事は済ませた」
「いいや、寂しいだろうと思って、今日は焼酎持って、……お前と二人の予定だったんでね」
「今から、食事の用意するところで忙しいんで……」「こちら、いつもお世話になっている雑誌社の編集長の鳴海芳子さん」
「噂はかねがね聞き及んでます、渡辺智也と言います。宜しく、てか」「ごめんなさいね、ごめんなさいね、鳴海さん。……ナオお前なあ、紹介すんだったら、普通家族からだろうが」
「申し遅れました、佐…いえ、朋子で、こっちが娘の奈緒です。奈緒…挨拶しなさい」
「佐藤奈緒です。宜しくお願いします」
「佐藤……?」
「奈緒、…この子は。……すいません、まぎらわしいですよね……」
「トモ、俺は食事の用意があるから、編集長から、かいつまんだ話を聞きたかったら聞いといて」
「なんじゃそれ、チェッ。面倒臭いんかい……」
「智也さんですね。鳴海芳子といいます。なんだかんだで、ややこしい話なんで、本人も戸惑ってるみたいで、分かるような気がするんで、お友達でしょ、勘弁してあげて」
「勘弁も何も、お互い一番の親友で、といってもナオが、あっそうか、お嬢ちゃんは奈緒ちゃんね、ややこしいね。アハハ……あいつが此処に移り住んでからの大親友やからね。お互い隠し事なしでという、付き合いなんでね。あいつの決まり文句の天涯孤独も聞いてあきれるよ、まったく……」
「それは誤解よ。…山ちゃん、奈緒ちゃんがいるのを知ったのは、たった今だったんですよ」
「ううん?…どういうことなんです、鳴海さん」
「実わね……」
芳子が話しかけたその時に、玄関のチャイムが鳴った。
「今日はこんなに訪問客が多く重なる日になるなんて……、朋子、文句を言ってるわけじゃないよ、一度にいろんな事が重なって」
「ううん、私達が押しかけて来たばっかりに、今日はてんてこ舞いね。……うふふ、こんな賑やかなの久しぶり」
誰も応対しないので、さらに玄関のチャイムが鳴った。
「悪い、トモ代わりに玄関出て、手が離せないんだ」
「勝手知ったる何とかだ。任しときー……、ど・ち・ら・さ・ん・ですか」
「あーら、あなた」
「幸恵、……どどっ、どうして此処へ」
「私此処へ来ちゃー駄目な訳でもあるの」
「いいえ、ありましぇん」
「あなた、ちゃんと話せてないわよ。それに、もう一度聞くけど、私来ちゃー駄目なの、どうなの……」
「そうじゃないが、……えへん、えへん。何か、いがらっぽいな。……俺としては、大親友のナオと男同士水いらずで酒酌み交わし、語り明かしたいと思ってたんで。そういう意味なら、まあ……邪魔なんだ。うん」
「男同士の付き合いに水を差すような野暮な幸恵ねえさんじゃありませんよ。男同士、……いいじゃないの。最近、とくと世間では聞けない、…こんないいお付合い出来るなんて幸せなことよね」
「分かってくれてるんなら、そういう事で、いいじゃないか」
「でもさ、語り明かしたい色んな事てそんなにあるわけ」
「何が、……」
「あんたも建築の忙しい社長さんで、山路さんとこには、多くて半月に一度、普通は月一程度のはず。最近は、二・三日に一度のペースで、そんなに話する事あるわけ。おまけに山路さんにも迷惑でしょ」
「幸恵さん、ご無沙汰です。……そんなとこにいないで、どうぞ中に入って下さい」
「直之さん、すみません、玄関でうるさくして。あら、お客さんですね、……中で話し声が聞こえるのに、開いたと思ったらうちの人が出たんで、つい……お邪魔じゃなくて」
「いいえ、どうぞ、どうぞ」
「あなた、何時からこちらに」
「ううんー……かれこれ2時間ぐらいかなあ」
「だったら、車買い替えないとね」
「何で、あれはまだ3年しか乗ってない。まだまだ乗れるって」
「そう、2時間経つのにボンネットがまだ暖かいよ」
「……2時間は……いなかったか」
「どれくらい」
「2……20分だったか」
「鳴海芳子と申します。よかったら、此処へ腰掛けられたら」
「申し遅れました、渡辺幸恵です。智也の家内ですの。鳴海さんは先客ですか」
「まあ、そうですが」
「そうしましたら、うちの人は何時からでしょうか」
「今しがたというのが、私共雑誌社ではこの場合ぴったりかと」
「もう、……そんな話はこの際どうでもいいがな……なっ、なっ」
「どうでもいい事じゃないじゃない」
「今日はそれより大事な話、……直之の隣に居るのが直之の奥さんの朋子さんで、ここのお嬢ちゃんが二人の子供で、奈緒ちゃんなんだ。なっ、俺達の事でブイブイやってる場合じゃないだろう」
「えっ、どういう事」
「申し遅れました、朋子です」
「いいえ、……渡辺幸恵です。何がなんだか……。えーっと、私はこの……」
「幸恵さん、話は全部聞こえてたから、朋子には説明はいいよ。こっちは忙しいので、ちゃんとした挨拶はまた後で」
「直之さん、いつもいつも新鮮野菜有難うございます。……ハムとお肉を少し持ってきたので。……台所の此処へ、置いときますね。」
「有難う幸恵さん、助かります。急に人数が増えたもので。とにかくそちらでゆっくりなさってて下さい」
「お言葉に甘えまして……(小声で智也に)どうなってんのよ、あなた」
「ナオが(奈緒ちゃんがいるんだった)……ややこしいな……直之が食事の用意をするので、この鳴海芳子さんが事の経緯を説明なさってくれる丁度その時にお前が来たという事なんだ」
「うちの事は後で家に帰ってからで、……芳子さん、その経緯の説明、お願い出来ますか」
「勿論ですよ。私もね、直接朋子に全てを聞けたわけじゃないんだけど、16年前に朋子が失恋して落ち込んでたの。その時に、パーティに一緒にいた山ちゃんに親身に相談に乗ってあげてと頼んだの。山ちゃんのマンションに二人で行ったまでは朋子に聞いたの。『ちゃんと相談に乗ってもらったの』と聞くと、一瞬無言になり、『その事だったら、私…思い出したくないから、それ以上聞かないで』と言うの」
「あいつまさか襲っちまっ……たか」
「馬鹿ね、山路さんそんな人じゃないわ。どちらかというと、そういう事に臆病というか、逆に迫られて、後退りするタイプじゃない」
「私も山ちゃんは、そんな事する人じゃないと確信に近いものがあったから、『何かあった』と疑問に思って朋子に聞くと、鬼の形相というのか、ひどい剣幕で『聞かないでと言ったでしょう。芳子、これ以上しつこく聞いたら絶交よ』と顔を真っ赤にして怒り出す始末。……お人形さんみたいにおとなしい朋子が初めて怒った。私もその剣幕に『わかった、わかったから機嫌直して』とこの件に関して、二度と聞けなかったの」
「うーん……理解に苦しむよね。二人が合意の下でなら……」と思案顔の智也。
「思い出したくない事じゃないですよね。……むしろ、喜ばしい出来事」とこれも思案顔の幸恵。
「そうでしょう。でも、3ヵ月後、朋子が妊娠したと報告というか、相談というか。『父親は』と聞くと、多分というかほぼ『山路さん』て言うのよ。以前付き合ってた斉藤高志という男がひどい男で、それ以降男嫌いになって、誰とも付き合いはしなかった。だから『山路さん』て言う。『だから、あの日に何があったの』と聞くと、強い口調で『芳子……』と拒否。この件は、何かのトラウマなのか聞いたらだめなんだと思い、『わかった、わかったから……それでお腹の子はどうするの』て聞くと、『私結婚は一生しない、だけどこの子だけは産んで一人で育てる積り』てそれはそれは本当にうれしそうな顔で言うの。
私、あっけにとられて『そういう訳にもいかないでしょ』というと、また怖い顔で『そう決めたの。誰にも内緒よ、当然山路さんにも、分かった芳子』とだめだし。『朋子がそう決めたなら、私が反対出来ないし、だけど心配なのよ』と言うと『大丈夫、きっと天使のようないい子が産まれる気がするわ』
『親って、みんなそんなものよ』
『こう言ったら何だけど、芳子、男性と本気で付き合った事ないのに、そんな事分かるの?』
私もここへきて、腹がたってきて、『相談に来て、私の一番気にしてる事言うんだったら、好きにしたら』とちょっと口論になりかけて、そこで朋子と別れた」
「気にしてるんだ……」とポロっと声に出す智也。
「……あなた、失礼ね。すみません、もう何を言ってんだか……」
「お前、何言ってんだ」
「おかしな事口走ったでしょう……もう、本当に……」
(声がでてしまってたんだ)「いゃー、これはこれは…すみません…あはは」
「私、奥さんとはちゃんとお付合いできそうだけど、ご主人とはちょっと無理みたいですわ」
「鳴海さん、そう怒らないで…全くこの人は……機嫌を直して、ねっ、ねっ。……まあ、そうすると直之さんが奈緒ちゃんの存在を知ったのは……今日なんですか」
「そう、それも2時間ほど前よね、奈緒ちゃん。……今日、意を決して、先に朋子が説明に来たの」
「ちょっと待って下さい。一人で育てると決めてたのに今頃どうしてですか。こんなに成長しているんだったら、もう手がかからないでしょうし、そう思わんか、幸恵」
「普通はそうなの。(奈緒の顔色をうかがいながら)朋子、……(目に涙が潤んでくる)病気で、もう長くは生きられないみたい。……意を決して奈緒ちゃんの将来をみやって、父親だって事だけ伝えに行く。本当に、本当に困った事が出来たら、父親として力を貸してあげてと。私が先触しようかと言ったら、『これは母親の大事な仕事だから自分でするって。……朋子って、やっぱり母親なんだ。母親ってすごいなと思って感心しちゃって。でも、私も心配で此処へ時間を見計らって来たわけなの』
「鳴海さんて、お優しいのですね。私も鳴海さんのお友達の端に加えて欲しいわ」
「奥さんとなら、喜んで」
「おいそんな事はさて置いて、直之はもう『俺の家族だって』既に説明してるし、もうあそこで楽しそうに一緒に食事の用意してるし、どうなってんだ」
「そこんとこ、全然飲み込めないのよねえ。奈緒ちゃん、朋子と一緒に居たんならどんな感じだったの」
「私閉め出しくっちゃって、大事な部分削げ落ちちゃって分からない事だらけ」
「どうして、同席というか、一緒に居なかったの」
「ママがどちらかというと、二人きりにしてって、と切り出されて。もう、ママの切羽詰った真剣な眼差しで言われたから逆らえなくて、長い間玄関の外で待ってたの」
「これはどうも朋子に人に言い難い何かがあったのね、きっと」と芳子。
「此処にこうして子供がいるんだから、二人でする事した結果だから、『あの時のねえ』て言えば『そうなんだ』終わりじゃないのか。……子供にも聞かせられない……何が?……分からんなあ……」
「おじさんは、最初理解出来ないとむずかしそうな顔だった」と奈緒。
「おじさんって、直之の事……」
「奈緒ちゃんね、突然の今日の今日なんで、初めて会った山ちゃんの事、パパとまだ呼べないのよ。そこんとこ、理解してあげて」
「そりゃあそうだわな。急に言われてもな、奈緒ちゃんの感覚ではそうなるわ、うんうん」
「むずかしそうな顔からどうなったの」
「暫くして外で待ってた私に『待たせたね』とおじさんが言って、……ちょっと間があいてから、『自分が父親だと。ママの説明で合点がいった。知らなかったにしろ、今迄ほっといてごめんなさい』的な感じで私に謝ったの。……でもね、なかなかママの事思い出せてなかった事に私が腹をたてて、おじさんの事、怒鳴りつけて抗議したの」
「そしたら何か、ぼーっとしてたママが、おじさんに対する私の態度が悪いと叱られて、もう一度表で待たされて、しばらくしたらの泣声が聞こえてきたから、中に飛び込んで行ったの」
「ママは泣きながら、おじさんに縋り付いてた」
「うれし涙てわけだったの。私が此処へ来たときに、朋子がはずんだ声で、山ちゃんが全てを受入れてくれたて、もうデレデレ状態。……自分自身の事より、将来の奈緒ちゃんの事が心配で心配で、いつも相談に来ては、泣き続けてた。最終的に彼女が出した結論は、自分が他界した後に、親でないと対処出来ない事態になった場合に、私が山ちゃんに報告し、山ちゃんに対処してもらう事。……その為には、彼女が山ちゃんに父親である事を承諾させる必要があった。……彼は父親である事を了解したばかりでなく、この時点から、家族として一緒に暮らそうと言ってくれたそうなの」
「やっぱり直之さんて、やさしくていい人ねえ。この亭主がいなければ、私が嫁に行きたいわ」
「そりゃーナオじゃない、直之に失礼だ。お前なんかあいつの妻が務まるか」
「何よそれ」
「お二人さん、喧嘩なら家でやって頂戴」
「すいません、もう、あなたが悪いのよ」
「もう、いいって。……それにしてもあの2人、仲いいですね。昔からあんな仲だったんですか」
「私も不思議でさあー、軽く紹介して、ー軽く挨拶した程度で、二人で世間話もした事なかったはずよ」
「きっと、肩の荷が下りたのよ。気懸かりな事が解決し、おまけに頼れる旦那さんが出現した……。朋子さんも、母娘で気を張って、生きてきたんだろうし。でも、病気じゃ可哀想ね。私達も精一杯応援しなくちゃ」
一方、直之と朋子はというと
「あっちで、どんな話になっているのかしら」
「どうせ、何がどうなっているか見当もつかないから、ほっとけば。それより、早く食事を済ませて、外野の連中には早々に引取ってもらおうよ」
「そんな言い方ないわ。みんな、色々心配してくれてるんだから。……でも、私も賛成、うふふふ」
「なあんだ。……折角肉も手に入ったわけだし、お好み焼と焼きそばと野菜サラダとか、簡単でいいか」
「あのメリケン粉と混ぜて焼く、アレね」
「俺のは広島風といって、メリケン粉をといだものを、下にひいて、その上にキャベツとか具を載せて作るやり方。この方が、おいしいんだ」
「何だか、楽しみ。それで、段取りはどうするの」
「キャベツは出来るだけ細かく切る。紅しょうがを入れると味が引き立つが、多すぎるとしょうがの辛さが出すぎるので、甘い沢庵も細切れにし、紅しょうがと同量をキャベツの上に振り載せるのがいい。そうすると、味が甘辛さが丁度いい具合になるんだ」
「そうなの、知らなかった。それで、私何したらいいかしら……」
料理の段取りをしながら、二人は将来の事に話も同時進行する。
「食事の後、どうする」
「後5日もすれば、夏休みに入るし、奈緒には色々心配もかけたし、複雑な気持ち。こんな展開を想像もしてなかったから」
「ごめんね、色々考えさせて」
「ううん、うれしい誤算だから。……奈緒は直ぐに対応出来ないだろうし、……だけど、きっと大丈夫よ、直幸さんと私の子だもの」
「そう言ってもらえると有難い。……俺としては、此処で家族として暮らしたい。君の病気にも都会より此処の方が空気もきれいだし、それに食材が有機・無農薬で作ってるし、毎日新鮮野菜を君に食べさせてあげれる。コンビニやスーパーは防腐剤を入れないと販売できない。大勢の食中毒を防止する為にね。防腐剤や添加剤は発癌物質等を含んでいるので、出来るだけ自然な食材を摂取してほしいんだ」
「……それでもやっぱり、奈緒が問題ね。小さい頃からの友達がたくさんいるから。……慣れ親しんだ町だから……」
「君が長生き出来る事が最優先で考えたい。きっと奈緒ちゃんも分かってくれるさ。医者は寿命を短めに設定する。いろんな治療方法も探らないといけないし、奈緒ちゃんには悪いが、そうしたい」
「分かったは、あなたも此処を離れられないだろうから、それしかないわね。奈緒と後で相談する、心配しないで」
食事の用意も整い、テーブルに料理が次々に運ばれた。奈緒も母親の顔を窺いながら手伝った。直之は智也の持参した焼酎を見て、何か折り行った話しがある事を察知し、かいつまんでその話も聞かなくてはと、めまぐるしい展開に気を抜けないでいた。
「男性陣と女性陣で席を定めて、食事をしましょう。その方がいいでしょう」
「朋子、支度、楽しそうだったね」
「うん。……奈緒、ちょっと不服そうね」
「別に、ママさえ楽しかったら、奈緒はそれでいいもん」
「奈緒ちゃん、複雑な心境よねえ。……朋子さん、改めまして、幸恵と言います。これから、何でもサポートさせてもらうわ、宜しくね」
「ええ、こちらこそ。ご主人と直之と仲良しなんですね」
「最初は大喧嘩したんだけど、その後大の仲良し。……兄弟以上の仲、私が羨むほどにね。困ったことが起こったら、自分で考えずに此処にいつも直行」
「それで、どんな喧嘩だったんですか」
「話せば長くなるから、また追々(おいおい)とね」
「でも、なんだかしんみりした話みたい。声も此処まで聞こえないほど小声ね」
「何かあるみたい。あの焼酎、[勝負焼酎]なの。……あの人、直之さんに重大な相談があるときは、あれを持って来るの。……でも、今回は私には一切何も言わない。いつもなら、この件で直之さんに相談に行って来るって。……でも、あの人の真剣な顔みたら、黙って見守っておこうと思う。今は私に話せない何かがあるのね、きっと」
「すごく分かり合えてるのね、私羨ましい」
「夫婦になって長い付合いだもの、毎日のように口喧嘩。まるで、ちっちゃな子のたわいのない喧嘩みたいだけど、……南だか馬鹿みたいでしょ、アハハハ」
「馴れ初めはどうだったんですか」
「馴れ初めね。……恥ずかしいわ。だって、私達の結婚は異例続きだったから」
「すごく興味深いですわ」
「初対面で、恥ずかしい……もう、人に話すような話じゃないのよ、本当に、……勘弁して」
「雑誌社の記者をしてる私、そう言われて、そうですかて、職業柄無理なのね。少しだけでもいいんで、お話伺えないかしら」と芳子が懇願する。
「……仕方ないですね。……じゃあ、少しだけ……私は高校生時代、今で言うスケ番……だから自慢出来る話じゃないのよ。……だから本当に勘弁して」
「全然そんな風に見えないのに。でも幸恵さんの芯の強さが伝わってきますわ。……これで終ったら消化不良起こしてしまう。どうか、先を聞かせて、お願いよ」と強引な芳子。
「うーんとね。……私もそんな好き好んでスケ番になったわけじゃないの。当時のスケ番張ってた人から呼び出しをくい、タイマンてやつ。タイの饅頭じゃないですよ」
「それぐらい、私も分かるわ。幸恵さんもおもしろい事いうのね」
「そうでもないわ、旦那の話しぶりがうつっちゃったかな。うふふ……それで、『あんた生意気だ、ちょっと来い』って。……私って負けず嫌いのところがあったので、普通だったら赦しを請って喧嘩を避けるのがセオリーなんだけど、受けて立ってしまった。完全に向こうのペースだったんだけど、持久力が私の方が勝っていて、最後は私の逆転勝ち。相手は『負けた以上、あんたの下につく。潔くトップの座を譲る。これからも宜しく』って、私はそんな積りは微塵もないと拒否に拒否を重ねたが、いつのまにかトップにならされてた」
「おばさん、スケ番って、喧嘩ばっかりしてたの」
「奈緒ちゃん、そんな事興味あるの」
「だって、たまに友達もそういう人達に絡まれたりしたりするんで、『ごめんなさい、ごめんなさい』って言って回避するんだけど、迷惑この上ないの」
「そうよね、逃げるのが一番賢いやり方。……おばさん、馬鹿だからそう出来なかった。それでも時代が違うから、昔の剣客が自分より強い剣客を求めて、剣の道を究めるという、そんなのが私達の時代もあって、強い者の下に結集する。お金を巻上げたりする人も居たのは居たけど、そんな人達はごく少数派。通常はグループ対グループの抗争が主流だったの。でも好きでトップになったわけではないので、威圧を加えた上で抗争を回避するようにしてた。でも威圧することで、逆に抗争になる事もあった」
「グループが強くなければ、相手が喧嘩を吹っ掛けてくると思っていたので、喧嘩するからには勝たないといけないと思い、次第に実力がついてきた。なんか、駆引きのそんなセンスもついてきた」
「おばさん、そんなスケ番って感じ全然しないよ。それで、おじさんとはどうやって出会ったの」
「それはそれは、最悪の状態。私のグループの子が他校の女生徒が眼飛ばした。と言って、因縁に近い形で文句を言ってた。私もこういう場合は、メンバーの立場も考えて、『メンバーを胡散臭い目で見るな』と言って相手を謝らせて『今度から気をつけろよ』って、それで済ます。そういうやり方が気に入らないメンバーを宥めながら事を収める。……その時もそういう予定だった。……そこへ駆けつけたのが今の旦那。『内の学校の生徒に何因縁つけとんじゃい』ときた。私も『すいません』というわけにいかない。そこへ、メンバーひとりに直美という子がいて、その子の男友達5-6人が乱入し喧嘩になった。旦那がそいつ等にボコボコにされてた。旦那はというと一人、二人に強打で抵抗したが多勢に無勢、次第に身動きが出来なくなった。……私達の出る幕がない、男同士の喧嘩にすり替わってしまってた。そこへ旦那には運よく、旦那の親父さんの会社の社員が通り掛りに見かけ、土建屋だけにあっという間にメンバーの男友達をぶっ飛ばし、そこへパトカー5台が来て大騒動に発展。大変な状況が、旦那との初対面の出来事」
「すごい大事件に発展したんですね、それから二人はどうなったんですか……」と興味がわいてきた奈緒。
「母親は学校からの知らせで、私がスケ番のトップと知って、腰を抜かす。母親はいつも、朝6時ぐらいに仕事に出かけ、夜7時ごろに帰って来て就寝。夜中の1時ごろに起きて、洗濯などの家事をこなして朝食の用意をして仕事に行く等、私達子供と話する間もなく、忙しくしてた。弟・妹の面倒をみている私を信頼しきってたのが、母親にしては不良のトップに君臨してるなど、夢にも思わず、『私はもう死にたいわ』と、悲嘆にくれてたから、それが私には堪えた。……担任の高田先生が母に、思ってるほど悪い生徒じゃないと慰め、校長先生等に寛大な措置を求めたりとして、1ヶ月の構内の清掃の罰で済ませてくれた。監視の目がきびしくなって、むしろ私には好都合で卒業まで波乱なく過ごせて、無事卒業出来た。
旦那の方はというと、女子生徒を命懸で助けたという事で、生徒達の間ではヒーローになってたが、先生方及びPTAは対応が悪すぎたという事で、1ヶ月の謹慎処分。但し、怪我でどっち道病院に入院してて、登校できる状態じゃなかった。土建屋の社員は、社長の息子を助けただけで何が悪いとすったもんだしてるうちにうやむやになった」
「今笑ってらっしゃるけど、当時は大変だったでしょ」と朋子
「今でもこんな事あればそれこそ大変よ。朋子さんの言うとおり。母には二度とこんな破廉恥な事はしてくれるなと釘を刺される。それでメンバーには、家の事情も説明して、卒業後はメンバーとしても卒業するし、思い出話をする上では問題ないが、喧嘩沙汰には一切関わらないと宣言し、了解してもらった。一番仲の良かった直美だけが少し不服そうだったけど」
「円満解決して良かったですね。その後、旦那さんとはどうなったんですか」
「卒業後、高田先生の奔走でなんとか印刷会社に就職して、一般事務として勤務したの。母もやっと安心したのか、『よかった、よかった、全て高田先生のおかげだわ。高田先生には、くれぐれもお礼を言っとくんだよ』って。入社して2年ぐらいたった頃、施工を請け負った旦那の会社が近所の挨拶回りに、私の会社にも挨拶に来た。挨拶に来たのが私の旦那で、お茶を出したのが私。旦那も私も目と目が合って、どちらも『あの時の』とすぐに分かった。もう私は、心臓がパクパクして、旦那が『あの時のスケ番やな』と切り出さないかと不安で一杯になった。そんな事知れたら、忽ち私の立場が悪くなる。また、母親を嘆かす事になるともう悲壮感で一杯。ところが旦那は、一通りの挨拶を済ませたら、何にも言わずに帰っていった。
施工現場は、通りの真向かい。目と鼻の先。何日か後に丁度旦那が一人の時に遭遇し、意を決して旦那に私から接触したの。『私の事覚えてる』と聞くと、『覚えてない訳ないやろう。あの時のスケ番やろう』
『何であの時そう言わんかった。私、内心びくびくしてた』って言うと大笑いして
『そんな可愛げな女やったんか』と腹抱えてた。ひとしき笑い終えると『すまん、すまん、余りに予想外やったんで笑ろてしもた。ごめんな』とまた笑い出す。
『私の事、じっくりいたぶる積りで、黙ってたん』と聞くと、今度は真顔になって『アホ、俺がそんな卑怯な男に見えるんか。あのあんたが、今一生懸命仕事してんねんなと関心して、あんたの邪魔したらあかんなと思って何も言わんかったんや。見損なわんといてくれ』と言った。私涙が出そうなくらい嬉しかった。この時の旦那がすごく格好良く見えた。
何となく、どちらからというわけでなく、帰り際に会ったら『家まで送ったろか』とか『時間あったらコーヒーでも飲もか』とか言ってくれて、それぞれの家庭の事情とか話するようになったら『幸恵もなかなか苦労してんねんな。その点、俺なんかまだまだ甘ちゃんや。お前の事、見習わしてもらうわ』とかどんどん話が盛り上がってた。
そんな矢先に、ふたりで一緒に施工現場の前で話ししている所で久しぶりに直美に出会った。直美の方が私達を見つけて声かけてきた。『幸姉、何でこんな男と会うてるん』と不服そうに聞いてくる。
『たまたま、会社の近所で久々に出会って、話をしているうちにいい人だなあと思い、付き合ってるまではいかないけど、ちょくちょく話をするようになった。ただ、それだけよ』というと、以前乱闘騒ぎを起こした連中が何時の間にか私達を取り囲み、旦那に殴りかかってきた。不意を食らった旦那は抵抗する間もなく、叩きのめされた。私は旦那を助けようとしたが反対に殴りかえされた。助けるどころか、私も叩きのめされた。施工現場の前だったんで、社員が一斉に集まり、あっという間に連中を叩きのめし、またパトカーが数台駆けつける有様。通りの多い所だったんで、目撃者も多く、旦那の会社が傷害罪でこの連中を訴えて、執行猶予付きだが実刑処分を受けさせた。
旦那は1週間ほどは食事も出来ないぐらい顔を腫らして、おまけにまともに話すら出来ない状態。私はというと、以前の乱闘事件まで、過去にあった事まで全部会社の知るところとなり、役員会議で解雇すべきという方針が話し合われてたみたい。私もう頸になるんだろうなと漠然と考えてた。母親はまた泣き崩れて、もう話出来る状態じゃない。私自身、もう何も考えられなくなって、ただ旦那の怪我の具合だけ気になってた。旦那の家に行っても、旦那の母親は怒って会ってくれない。それどころか、『塩撒いて追い返して』と。でも旦那の父親はやさしく『大変だったね、体のどこかに傷でも出来て菜いか。うちの息子の事だったらそのうち快方に向かうだろうからそんなに心配しないでいいから。それより、あなたに何か困った事があったら、いつでもいいから遠慮しないで私に相談においで、いいね』と。……簡単な挨拶だけして家路につく。とにかく、八方塞で私には対処法が見つけられなかった。
2週間ほどたって、上司から『明日、人事部長の方に出向くように』と告げられ、もう既に噂になってたから、解雇なんだろうなと察しがついてた。解雇が可哀想という事で、依願退職の形をとろうとしてるという噂も聞こえてきた。覚悟はしていた積りだったが、いざその事が直前に迫った時に、悲しみが込上げてきた。私、これからどうなるんだろう。もう、働き口も見つからないだろうなあ漠然と考えてた。
その日の昼頃に急に松葉杖ついた旦那が会社に来た。私吃驚して『どうしたの』と聞くと『ヨッ』とだけ言って、腫れぼった顔で笑顔を向ける。本人は一生懸命笑顔を作った積りでも引きつってそうは見えない。その仕草に私涙ぐんでしまった。
『体大丈夫』と聞くと『まあな、これぐらい……いてて』とひとしきりの会話。それなりに心配してた事もあって、会えた事がなんだか嬉かった。お義理父さんも一緒に見えられて別室を借りて、三人で中に入った。開口一番『失礼があってはいけないんで、……智也から幸恵さんと結婚の約束をしたと聞いてるんだが本当の事か確認に来ました。息子が勝手な事言ってるんだったら迷惑だろうから、私が確認に来たんだ』と聞いてこられた。
私そんな約束してなかったから、『いいえ、そんな約束は……』
『してないんだね』
『はい……』と、私は旦那の顔を覗き込んで何考えているのと目で聞いた。だって、旦那の会社そこそここの町では大きい会社だったんで、私は嫁に行くだの、考えてもいなかったから、この人は何を言い出すやらと心の中で呆れていたの。
『幸恵さんはこう言ってるぞ、智也』
『親父何言ってんだ、そんな約束する暇なんかなかったよ。お袋もギャーギャーうるさく喚くから、取りあえずそう言うただけ。今から約束する。……幸恵、俺と結婚しよう。お前を幸せに出来るのは世界中どこを探しても、俺以外にない。1ヵ月後、式場は仮に押えてる。いいよな』
私吃驚して、『えっ』と言ったきり、言葉が出なかった。
すると旦那が『親父、聞こえたやろ、[ええ]言うて承諾したやろ』と。お義理父さんが苦笑して頭を振り振り、呆れた様な顔を旦那に向けながら私に『この息子の言うように、承諾したと受取っていいのかな』と聞いてきたので、私も可笑しくなったのとこの強引さに負けて思わず『宜しくお願いします』と言った。『本当にいいんだね』とお義理父さん。『しつこいのは嫌われるぞ親父、決まり、決まり、なっ』と旦那。私も『うん』と自然に涙が出てきて、涙を拭きつつ了承した。お義理父さんは、役員の方に会い、1ヵ月後の寿退社の線で話を纏めてくれて、母も喜んで承諾してくれた。
お義理母さんの事が気掛りだったけど、旦那曰く、『内の家では親父の考え方で、元服、所謂15歳以上になったら一人前の大人として扱う。つまり、中学卒業したら、自分の人生自分で責任もって決めろという事で、この結婚に対しても俺の意思を尊重してくれる。但し、その後の軋轢は夫婦で乗り越えるしかない』という事。こんな感じで、気が付いたら結婚してた。お義理母さんともうまくやれてる。今は、旦那より私の方を可愛がってくれるぐらい」
「波乱万丈ね。幸恵さん、うちの雑誌に載せたら受ける事間違いない」
「もう、こんな田舎くさい所の話、読者が喜ばないわ、無理、無理」
「幸恵おばさん、智也おじさんて、見た目以上に格好良い。初対面の時とは、話を聞いて印象が違ってきた」
「若い娘から褒められたら、あの人喜ぶわ」
「そうよ奈緒。人は色々話し合わなければ分かり合えないものなのよ」
「良かったね、朋子、今度はよく話し合えたみたいね」
「嫌だ芳子、からかわないで」
一方、男連の方は
「ナオ、何がなんだか大変みたいだな」
「トモ、お前の方もなんか相談に来たみたいだけど」
(勝負焼酎を見やり)「これの事か。だけど、今日は飲み明かそうと思って来たが、今日のところは迷惑だろうから、一応預っといてくれ」
「かいつまんで、内容だけ聞いておこうか」
「そうだな……先ず一つは、3ヶ月前に死んだ親父の事で相談ていうか、……うーん、相談てのはこの場合違うな」
「一体どうしたんだ」
「俺は親不孝な息子だったかなと最近後悔している。親父は昔からあんまりしゃべらへん。お袋が親父の事、浮気してるとか言っても一切反論しない。反論しない、イコールしてたいう事だと、子供心にいろんな事で親父に反発し、ある種の軽蔑すらしていた。
葬式の後、友造さんから『お前は息子としておやっさんのどこを見てたんじゃい。お前の目は節穴か』と怒られた。小さい頃の母親を泣かす父親に対する反感のイメージが知らず内に身についてしまってた。今に思えば、なんであれ程反発してたのか訳が分からない。そしてそういう自分に対して、一切叱らない親父。ぐれはしなかったが、何かと突っ張って問題を起こす俺。
友造さんが『お前のおやっさんの夢なんやったか知ってるか』と聞かれた。『夢て何でした』と俺。親父に夢なんかあるんて思いもよらなかった。
『不器用な俺はいつの間にか息子と疎遠になって、必要最小限の話しかしなくなってた。女の子もいてるが、俺にとってはたった一人の息子やのに。一度でいいから、息子と何でもいいから腹割って、酒を酌み交わす事。いつもは節度をもって酒を飲んでる俺だが、その時は、正体不明になるまでぐでんぐでんに酔っぱらいたい。しょうもない夢やろう。と寂しそうに笑ってた。智也、一遍でもそんな事あったか』と言われ
『一遍もなかった』というと、
『そうやろ。俺も、[親子やさかい、そのうち夢やのう(「ない」という意)なりますわ]と言うた。こんな早ように亡くなりはると思ってもみんかったさかい。……俺は阿保や。あない言わはった時に、……俺が仲取り持ってたらおやっさんの夢かの(「かなう」という意)たんや』言うて、友造さん、そこから泣きじゃくって大変やった。
俺は『友造さん、俺ら親子の為に悲しい思いさせてすみません』と言いながら、頭の中で俺は親父の事何も知らんに等しい。今からでも遅うない、親父の生き様を俺の体の中で反芻するように、親父の一生を俺なりに辿ってみようと思った。それで、ちょくちょく友造さんに会って話を聞き、その関係先を巡って親父の一生の歩みをなぞってるところなんや」
「俺もトモの親父さんに二三度会った。最初は、店の工事で、『これは手抜き工事や』と言った時に、トモが『俺とこが手抜き工事することあるか』と言い返した。二人で揉めてる所に親父さん、『調べたら分かること。現実を確認し、その上で善後策を考えたらいい。口論の必要ない』とトモを諌めた。それもやさしい穏やかな声で」
「そんな事あったな。『俺は親父何言うとんねん』言うて反発しとったけど、調べたら孫請けの手抜き工事分かって、……親父の言う通りしてて、その後うまいこといったな。……そうや、この時も親父が居ててうまいこといったんや。うまいこといった言うて、反発してた事も忘れて……俺は有頂天になってた」
「両親を早くに亡くした俺にはいい親父さんやなあと羨ましかった。氷川のじっちゃんの為やから、あんだけ頑張れた。自分の事やったら泣き寝入りしてたと思う。あの後、親父さんと何度か会ってるうちに、目から鱗のような言葉を戴いた。『人間は、無くてはならん存在にならないといけない。家族であれ、組織であれ、その人が必要な存在であり続ける事。こんな人、居っても居らんでも一緒や、それどころか居らん方がましやというようではいけない。その為には、熟慮して物事を考える。人の努力の2-3倍ぐらいする気力で頑張る。そして、体力も必要。浅くでいいが広く知識を持ち、身の回りの日曜大工程度は自分でこなせるぐらいになってないと一人前の男とは言えない。粘り強く相手を説得する交渉術。人を思いやる優しい気持ち。その中で一番大事なのは、自分の身を挺して家族又は自分にとって大切な人を守る。氷川の養親の為に交渉した事は、褒められるべき事でした。そういう事の積み重ねが男を磨いていくのです。そういう私もその途上にありますが』と。
『いえいえ、社長さんはもうりっぱに。わたしも社長さんのようになれたらと精進します』と答えた。この言葉で、俺は自分の心身ともに改造することにした。今までの自分ではいけないと思って」
「ナオ、自分の意見も堂々と言うし、そんな謙遜する事はない」
「謙遜と違う。トモは以前の俺を知らないからそう言う。此処に来るまでは、振り返ると自分でも恥ずかしい。回りの目を気にしながら意見もおどおど言う。反発を食らったら、お茶らけでその場を誤魔化す。事なかれ主義の最たるものだった。自分自身に自信が無く、目立たないように隅の方、隅の方に隠れるようにしてた。その他大勢のひとりにすぎなかった」
「俺には今のナオから想像もつかん」
「いいや、此処へ来ていろんな人と切磋琢磨して今の自分がある。トモもその中のひとりや」
「俺もナオの成長に貢献できたわけやね」
「そんな事なら、親父さんの事で何も幸恵さんにそこまでこそこそする必要なんかないんと違うのか」
「それが直美の事もあるんや」
「直美て誰の事」
「前に話したやろ。結婚するきっかけになった幸恵のダチの直美や」
「ああその、その直美がどないした」
「実は直美が病院に入院しとって」
「何の病気」
「それがどうもエイズみたいなんや」
「何でわかった」
「親父の死亡診断書を取りに病院を行った時に、治療費払われなかったら退院してもらわないと困ると婦長と患者の母親が揉めてるとこに遭遇した。何気に『直美』て名前が耳に入ってきた。なんか気になって、幸恵から苗字とか聞いてなかったから『ちょっと失礼』言うて、高校とか年齢とか母親に聞いて、そっと病室覗いたら直美やった。治療費やったら俺が立替えると言うたら、病院は退院の手続きに入ってるとかでひと悶着して、何とかそのまま入院出来るようにした。
母親に断りを入れて、直美に面会させてもらったが、俺の顔を見るなり、やれ『何しに来た』『ほっといてくれ』『あんたらの世話なんかなりとうもない』『顔も見とうもない』あげくの果てに『こんな病気になったんもあんたらのせいや』と言われた。『どういう事や』と聞いても『ふん』言うてそっぽ向く。俺らのせいで病気なった言われたらほっとく訳にいかへん。『幸姉に言うたら承知せえへんで』と言う。
母親に聞いたら『気が付くと何十年ぶりかに家の前に居てて、今まで何してたと聞いても虚ろで、家の中に入った途端に倒れこんで、慌てて救急車呼んで病院に入院させた。何がなんだか分からず仕舞で、入院費の事やらで、私にもあんな態度でどうしたものかはたと困っています』との事。
これは合間に顔を出し、気持ちが綻ぶのを待って、入院費は俺が面倒見る事で様子を見てる状態。幸恵もたまに直美はどうしてるかなと言ってるし、今は合わせる場合やないと思うし、一番は直美に幸恵には入院の事を話するなという事を約束させられてるからそういう訳にもいかず困ってる。
気は母親が言い難そうにしてたが、あの時の連中が絡んでるのか、とにかく直美の気持ちに寄り添って、頑なな心を解す事から始めようと思う。とにかく、当分は幸恵に内緒にしとかんとあかんのがこれも問題で、ナオに智恵を借りようとして、迷惑だろうが夜通し相談に来たつもりが、そっちも中々難題が転がり込んだみたいなんで、また日を改めるわ。時間があいたら、悪いけど連絡もらえたら、頼むわ」
「悪いが、また今度で。今日のところは突然な話で、俺も混乱してるがそうも言うてられへんので今度詳しく聞く。じゃあな」
「おう、我が良き友よ」
「そちらさんも話が区切りついたみたいね」
「編集長、食事楽しめました」
「噂には聞いてたけど、おいしかった。これなら、またちょこちょこ寄せてもらうわ」
「ちょこちょこですか」
「何よ山ちゃん、気に入らないの」
手を頭に当てて「いいえ、嬉し涙が込上げてきたところです。いつでもどうぞ。」
「朋子どうする、送って行こうか」
「私、もう少し直之さんと打ち合わせと言うか話もしたくて……どうしようかしら」
「ママ、私ひとりでおばさんに送って貰って帰る」
「だけど、4-5日まだ学校あるでしょう」
「若菜ちゃんちに泊めてもらうからいい」
「じゃ、高木さんのお母さんにママから電話でことわり入れとくわ。ちょっと待ってね」と言って、高木さんの了解をとりつけた。
「じゃー、芳子宜しくね。奈緒、ひとりで気を付けてね」
「分かってるって」とちょっとほっぺをふくらましつつ奈緒が応える。
「私達もね、あなた」
「そうだな。じゃあな」
「その前に片づけを手伝ってから」
「じゃあ、俺も手伝う」
「よしてくれよふたりとも」
「朋子さんも疲れたでしょうから、直之さん、そちらは寝る支度して、後片付けしたらそっと帰るから、気をつかわないで」
「私達は先に帰るね。奈緒ちゃんを早く送らないといけないから。朋子、奥さんまたお会いしましょうね」
「編集長、ご苦労様でした。奈緒ちゃんも気をつけて。……幸恵さん、トモお言葉に甘えて、……」
慌ただしく寝室の用意を整え、玄関の戸の閉まる音が聞こえ、戸締りをすませ
「朋子さん……は、他人行儀か」
「そうね、直之さん。朋子て呼んで」
「うん。何か急にふたりになると新珠美千代になるな」
「何それ」
「改まってしまうなーって」
「また。…普通に言って」
「今夜は晩いから話は明日にし、もう眠るか」
「少しだけお話してから眠りたいわ」
「そう、ベッドは朋子がお使い。俺は横のソファーで寝る」
「もう、夫婦なんだから一緒にベッドで」
「それもそうだね、じゃーそうしよう」
「パジャマ持ってきてないんで、上着だけ脱ぐわ」
「俺はいつもパジャマなんて着ないんで、下着のままでいいか。……風呂はどうする」
「明日で。今日はそこまでの元気がないわ」
「俺は早くに風呂済ませたから、朋子は朝風呂でいいか」
「やっと落ち着いた?」
「長い一日だった。でも、あんだけ悲壮感で悩みに悩んでいたのが嘘のよう。今はもう夢心地。有難う直之さん」
「喜んでばかりいられないよ。今から色々病気の対処法を研究し、1日でも長く一緒に暮らせていけるようにお互い頑張ろう。病は気から。喜怒哀楽の怒哀を極力なくす。笑ってるだけで、より長生き出来る。薬だけに頼らないで、人に与えられた『笑いは特効薬』だから」
「奈緒は分からないけど、私はもう此処が気に入ったわ。渡辺智也さんて、最初の印象はちょいぐれの変なおじさんと思ったけど、奥さんの話を聞かせてもらったら、本当は優しい人情肌の人なんだなと感動しちゃって、奥さんは奥さんで、気さくで心細やかで、都会で感じられない自然なふれあいが楽しめそう」
「まだまだ此処には、いい人がたくさんいる。君の同級生の会計事務所の錦先生もなかなかのもんだ」
「そうだ、必死で話してたから気になる名前が出たなと頭の端にあった、…そう錦くんだ。何か直之さんに聞きたい事あったのは、これだった。……どうして、同級生て知ってたの」
「そっちの家は蕎麦屋で、氷川のじっちゃん、ばっちゃんが経営してた。今はその姪っ子の雪乃さんが引き継いでいるが、経理上、俺が経営者で彼女が使用人として給与を取る方が税金が安くつくって。俺の文豪……まだそこまでいってないけど、作家としての所得も先生に観て貰ってる。その時、編集長の話を偶々(たまたま)したら、てんこ盛り中学時代の面白い話を聞かして貰い、大笑いさせてもらった。君が編集長の同級生という事は、錦先生と朋子は同級生だろう」
「芳子喜ぶわ。芳子、錦くんに会いたがってた。急に居所が掴めなくなってたから、同窓会どうのこうのって、言ってたもん」
「何々、中学生の同窓会なんかするの。普通は、最終学年の時の同窓会なんかじゃない」
「いいの、芳子は中学時代の同窓会が好きなの。明日早速、芳子に報告しちゃお」
「まあいいけど、今は朋子自身の事のほうが大事だから、あんまり余事にかまけてる場合じゃ……」
「ああら、楽しい事考えるのは、いい事なのよねえー」
「そらそうだ。うん。……そしたら、明日事務所に電話して、朋子、先生と久しぶりに話するといい。だけど仕事の邪魔になったらいけないよ。」
「そうね、何だか楽しくなってきた」
「……いい笑顔だよ朋子」
「これも直之さんのおかげ。ねえ、考えたんだけどさあ……奈緒がお腹に出来て、……その時、直之さんに今日のように話出来てたら、違った人生だったのか、……ふと思っちゃった」
「……その時ねえ。……自信ないなあ……」
「どうしたの、自信ないって……」
「あの時の俺は、落ちこぼれていうか、自分自身に自信がなく、編集長にも何か頼まれても断る事も出来ず、引き受けても上の空というか、そういう意味でも無責任な男。今回の件でも、いくら酔ってたからって、真摯に受取ってたら忘れもしないはず。身寄りもなく、能力もなく、運もなくといつも悲観してた……負け犬、そしていつか野良犬にでもなってしまうんじゃないかと。……今の俺と、あの時の俺は、別人28号なんだ」
「何、別人28号って」
「知らないかなあ。昔、鉄人28号というアニメがあったんだ。そのひっかけ……」
「何それ、さっきからそんな言い方ばかりして」
「そうなんだ。仕事の出来ない時、行き詰った時はよくお茶らけで誤魔化した。このまま、売れない作家業を続けるのか、今に思えば相談相手のない俺は、人生の岐路に立っていたんだなあと思う。……あの時……今日のように朋子が訪ねて来ても、今日のような対応を取れたかどうか……だとすると、……『やっぱり、当てに出来ないチンケナ人。若しかして、と期待して損した』と言われる結果に……なってたかも……」
「私、直之さんに今日会った時、以前と違う感触があった。……でも、必死だったんで、そんな感触よりも私の思いを伝える事しか頭になかったわ。……人間てそんなに変わるもんなんだ……」
「此処へ取材に来て、来るなりいきなり取材の打ち切り通告。……俺もこの家業も、もう終ったなと意気消沈。それでも、此処で長居して暇だったんで、子供の相手を頼まれた。それが氷川のじっちゃんの姪御さんの子供で、その相手をしてる時に、当時4-5歳だったその子がバランスを崩し、よろけて川に落ちそうになった刹那に気が付き、飛びついて彼女を抱え抱き込んだんだが、一緒に川に転落。怪我をさせてはいけないと思って、彼女を庇ったんで浅瀬に乗り上げた時に、百々(もも)ちゃんは泣き叫んでいたが幸いかすり傷で済んだ。……俺が一瞬『これからどうしょうか』とぼっとしたばっかりに招いた不始末。俺の方は腰と背中を強打して病院に入院。退院しても、完全に回復するまで氷川のじっちゃんの世話になった。治療費も全部出して貰って。恩返しの積りで回復後も農作業の手伝いとか、生き末の定まらない俺は何となく、此処に居続けた。その間に、店の手抜き工事に際して、智也と遣り合ったのが智也との最初の出会い。彼の父親の提案もあって、現場検証し、孫請けの手抜きが判明し、当然手直しに。俺が、孫請けの手がけた現場の検証をしたらと提案し、4-5箇所の得意先を菓子折り携え、説明と検証をした結果、その得意先の1社がその誠意を高く評価してもらえて、合い見積もりもしないで、大きな現場を受注する事が出来た。智也は大成功と大喜びした。これを機会に智也と急接近し、彼とは大の仲良しになった。……俺は元々言い争いとか、自分の言い分を『まあいいか』と直ぐ引いてしまうふがいない男。けれど、じっちゃんに何かお返ししなければと思ってた俺は、店の工事の手抜きが許せなくて、かあっと頭に血が上って、智也と言い争い。自分で自分に(落ち着け、お前は何してるんだ。冷静に話し合え)と思ってるが勝手に口から言葉が迸る。じっちゃんの『この会社はそんな事するいい加減な会社やないから、もういいから』との声も聞こえつつ、智也の『うちは信用で持ってる会社じゃ。こんな工事で手抜きしてどれだけの儲けがあると思う。手抜き考えるつもりやったら、最初からこんな工事請け負うかい』と言う声も遮断して、言い分を通した。俺はこの時に、意見を率直に相手にぶつけれた自分に、違和感も感じつつ実に爽快な気分になった。言うべき主張は正々堂々としていこうと、この時から俺のスタンスが変わり始めた。時間とともにそういう自分が、回りから信頼される人間に……育ててもらったという気がする。……そう、此処へ来てから俺は生まれ変わった気がする」
「……そう、あの頃に来ても駄目だった可能性の方が……」
「高かったと思う。…ごめんね…ふがいない男で……」
「ううん。……でも、…あの時来ても同じ対応したよと言っても…誰もおかしく思わないと思うけど、どうしてそんな馬鹿正直に話すの」
「誰も思わないと思うけど、俺自身が赦せない。それに朋子には俺の本性も知っていて欲しいから。期待を裏切ってごめんね」
「ううん。…直之さんのそんなところ…もっと好きになりそう。……じゃー、このタイミングがよかった?」
「だけど、……病気じゃなければ…きっと、来なかったろう」
「それも私も思った。……でも、ふとそうだったらよかったのに……と思っちゃって、グスン」
「ごめんごめん、変な事言っちゃって」
「ううん、いいの。……ちょっと、気になる事があるんだけど」
「何かな」
「……同情心で……私が病気だから…一緒に暮らそうって……」
「そんな事ない。編集長に初めて紹介された時に『綺麗で清楚な人だなあ』と一目ぼれ状態。本当だよ。……けれどこんな俺には高嶺の花、…奈緒ちゃんに話したのは取り繕ったんじゃなく、俺の当時からの本心だった。最初は、俺を利用する為にでっち上げた話をしにきたかと警戒してしまったが、話を聞いて…これはほっとけないと思った。出来ることなら、朋子の支えになりたい、本心で思ってる。同情とかそんなんじやない。勘違いしないで欲しい」
「有難う。そんなに思っててくれたなんて、嬉しい。……私直之さんにこれから面倒ばかりかけてしまうのに。……私何も直之さんにしてあげられないのに。……本当にこんな私でいいの」
「勿論だ。それに君は僕に家族をプレゼントしてくれた。こんなすばらしいプレゼントは世界中どこを探してもない。……俺は人生の探し物を今見つけた気分だ。……俺の妻になってくれ……。正式なプロポーズだよ」
「ええ喜んで、……こんな私だけど、宜しくお願いします。うふふ」と言って、直之に抱きつく朋子であった。両の目にうれし涙の真珠をたゆらせながら、寿命の尽きるまでこの人と一緒に暮らせる喜びを胸に秘め、いつの間にか眠りについた朋子であった。
直之はそんな朋子の寝顔を見ながら、そっと額に口づけをし、責任感とこの親子を守り通すという使命感を高め、いつしか直之も眠りについた。
つづく