Act.2 対峙
皆と別れてからもこの不思議な感覚は続いた。
この感覚を私は知っている気がする。この気配、匂い、空気がピリピリ痛い。
よく分からない焦燥感に包まれ、次第に早足になっていく。
いつも通学で使う見慣れた道。嫌というほど毎日見ている景色の筈が今日は何かが違う。時間帯だろうか、それとも満月だからか。じっとりとした汗が顔にまとわりついて気持ち悪い。
(早く帰らなきゃ。)
早く、早くしないと手遅れになる。アイツに追い付かれてしまう。
アイツって誰?分からない。でも何か、嫌なものが……そう、嫌なモノ。
歩みは更にスピードを上げていく。運動のせいではない冷たい汗が頬を伝う。
後少し、この角を曲がれば家の明かりが見える、そういう距離にさしかかった時だった。
『ミ……ツケ、タ』
どこからか聞こえた声。その声に思わず足を止める。
声は何十にも重なって響き、まるで機械で発声したかのようにアクセントが不自然だった。
決して人が出せるような声ではない。
一体何が……。
辺りをじっと見回すと、前方の角の陰に紛れて何かがいた。ドクンと心臓が跳ね上がる。体中が警報を鳴らす。今すぐ逃げろ、走れと。
しかし私の足は小刻みに震えていて、今はもう滝のように流れる汗で視界も狭く、どこにもまともに力を入れることは出来なかった。
「だ……れ」
乾いた口からようやく搾り出した声もか細く、その殆どは音にならなかった。
ゆっくり動く影。それは一見人影のようにも見える。しかしこの国のどこにあんな大男が存在するだろう。
その大男が一歩動くたび、地響きが轟く。私が震えているのか、それとも地面が震えているのか、それすらも分からなくなった。
地響きと共に影から現れたそれの、とうとう全貌が明らかとなった。
それはやはり人間と言うにはおぞましいモノだった。
上半身は裸で服の代わりに大量の体毛が体を埋め尽くしている。鋭く尖った爪と牙はそれが肉食であることを意味する。顔にも体毛がぎっしりと生え、その間にぽっかりと開いた2つの空間。そこはサイレンの光の様に赤く光っていた。
一時のこう着状態の後、大男の方が動いた。
『ヨコ……セ』
大男は言い終わる前に、私の視界から消えた。
そして一息も置かず、一瞬にして私の目の前に現れた。10メートルはあったはずの距離を大男はたった一歩で詰めたのだ。
「ひっ」
大男の鋭い爪が振り上げられた。
(殺される!!)
そう思って目を硬く閉じた。
これから走る激痛に恐怖しながら、短かった生涯が走馬灯のように駆け抜ける。最後まで記憶戻らなかったな……。
しかしいつまで経っても痛みどころか衝撃一つない。
恐る恐る目を開くと、さっき見たポーズのまま大男は止まっていた。
『グォッ……ギィ』
そう大男が唸ると同時に頭から股まで一閃の光が走り、大男を引き裂いた。
大男は血を噴出しながら更に粉々に散っていき、最後は塵となって消えた。
そしてその向こう側に現れた人影。
それは先ほどの大男とは違い、平均的な人間のシルエット。
一瞬女性かと思うほど長い髪を後ろで結んでおり、月明かりに照らされて淡く青みを帯びて光っている。
腰には長刀が収まっており、恰好はまさに中世の騎士のようだ。
全身が黒で統一されており、そのまま闇に溶け込んでしまいそうだった。
状況からしてこの男があの大男を倒したんだろう。
塵が晴れて、男の顔がハッキリ見えた。
全身が黒いせいで青白い肌が際立って見えた。表情は凛々しいが女性かと一瞬見紛う美貌。表情はどこか悲しげに見える。
男と目線が合う。
その瞳もまた、先ほどの大男と同じように赤かった。
しかし大男の瞳がぽっかりと開いた空洞のように思えたのに対して、こちらは鮮血とも宝石とも思える美しい紅。
獣じみた鋭い眼光に捕えられ、目が逸らせない。
男の口が開いた。
「ミカゲ……」
何故私の名前を知っているの?
そう、聞こうと思った。
しかし急に瞼が重くなって、立っていられなくなった。そのまま全身の力が抜けて、時を同じくして意識も手放した。
倒れて地面に激突するはずだったが、男に優しく抱き止められた。
意識を失ったミカゲに顔を寄せ、男は囁いた。
「さぁ帰ろう、俺達の世界へ」
そう言うのが早いか、ミカゲ諸共男は闇に溶けた。
導入が続きますが、次あたりで本筋が見えてくる予定です。