生傷多し、憐れな陰陽師の巻。
今日は油断ならぬ二願戦目だというのに、一睡もできずに夜が明けてしまった。しっとりと湿り気をおびた霧がたなびく部屋の中で、無防備にも襟元を乱し妻シーナが眠っている。
いや、相手は木偶。憎き鬼を滅する為に入内させた私の操り人形。社木が穢れてしまいやしないか不安心にかられるほど、下卑で品位の欠片もない小娘だ。四十八鬼殲滅した暁には必ず別れがくる異国の娘。
情をうつしてはならぬと何度胸で唱えようと、目を離すことができない──二つの丘に。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
鬼の子よ、どこへ。
大体どのような作りになっているのだ、この女の胸は。地に垂直に肩を立てているのに胸は垂れず、まるで糸に吊られているかのように美しい曲線を描いている。所詮、社木に映る幻影。重力とは無関係ということか。鼻先にあるそれは触ればきっと岩肌のようにゴツゴツと硬いのだ。いや、だが肩に寄りかかる頬や抱き上げた時の感触は温かい血肉をまとう、女の柔肌に相違ない。
では、やはりこの円い膨らみもだな。
「なむあみ──、がはっ」
「たいこ、たいこ、ドンドーン!」
「ドンドーン」
「ドコドーン」
これ鬼の子、念仏を唱える聖職者の頭を太鼓として扱うとは神への冒涜っ──はて、鬼の子の肩に乗っているのは 私の識神ではないか。まちがいない、そこの甲虫と啄木鳥、主人を裏切り鬼に寝返ったか!
まてよ、その首にぶら下がる虎模様の仔猫というか獣は一体──なに、ライちゃんのおともだち? どうみても虎に見え──ふむ、名前はトラキチとな。虎だな、虎で決定だ、森に返してきなさい。
「ぎゃあああっ」
「ううん……もぅ、五月蝿いなぁ、何をそんなに騒いで──わお、ハルが可愛い猫たんに頭から喰われとる」
虎だ! この牙をみろ、コメカミに食い込んで離れんぞ!
何やら生温い液体が──血だな、血が噴き出しているな!
「しぃ姉、トラキチがこのお兄ちゃん美味しそうだから食べていいか、だってー」
「ちょっとだけよ?」
待て、ちょっとだけでも脳ミソ吸われたら死ぬぞ。
「ぶんぶん頭振らないでよ、血が飛び散るじゃない。残念、味見もダメだって。しぃ姉のところにおいでー」
「はぁい」「にゃぉ」「シーナたぁん」「ワイもや」
鬼も虎も識神までもがワラワラと木偶に群がり、胸に埋まる。うむ、やはり柔らかそ──ではなくてだな。
────不可解だ。
何故このモノ達は対価もなしにシーナを慕い従う。
確かに識神等はシーナに侍るよう使役したが、私が解放しても尚も帰化せず離れようとしない。
鬼の子に関していえば互いに補食関係であるのに、端から共存を望んでいるようだ。私を捕食対象にした虎など、ゴロゴロと喉を鳴らしシーナになついている。
「……不可解だ」
「何よ。キスする気」
顎引き寄せただけで剣呑な発言をするな。屏風がカタカタ揺れておるぞ。シュン殿に聞かれているな。後で鉄拳浴びるな、決定だな。先ほどの流血で、治癒符を使用する霊力はもう残っていないぞ。
「鬼の血を得ていないというのに、顔色がいい」
「そうなんだよねぇ、ライちゃんて高位の鬼の子なのかなぁ」
「確かに、一願戦目の鬼の血は七日もったが」
明らかに不自然だ。
高位だろうと、まだ幼子。シーナの話では一滴吸っただけだという。その傷痕も消えたとか。鬼に再生能力があるなど聞いたことがない、有り得るとしたら人身御供を欲する鬼。これが真実なら手強い、我々に勝ち目はあるのか。
勝ったとしても、親鬼の命を奪った我々は鬼の子の仇となってしまう。堪えられるのかシーナ、お前は。
「やっぱりキスする気でしょ」
「頼むからその戯れ言を控えろ」
ただならぬ殺気が出居にたち込めているぞ。
大体、シュン殿は私の可愛い妹に仕付いていながら、何故こうもシーナに執着する。昨夜も一晩中シーナの為に辺りの鬼を狩り、牛車の屋形には死躰の山だ。朝方には山から鬼が消えたと村民が謝礼品を献上して参った。シーナと私が二日かかった数を一晩で掃討するとはどうなっとるんだ、あの方の力は。本当に生の人間か。問題はあの死躰の山だ。一日そこらじゃ血を瓶子にしまいきれん。
「兄上は、木偶を愛したりなど、しませんわよねぇ!?」
「ぐっ──、はぁ、やめ、一の宮、息ができなっ」
出居の殺気は我が妹の分も含まれていたか。
朝から兄の酸素奪うとか、やめてほしい。
変態仕官に嫁にだすよりは、愛した男と得恋させてやろうと婚姻を許したのに、何故こうもまだ私に執着するっ。
可愛いが、妹は妹だ。
いい加減、兄離れしなさいっ。
「よりにもよって、あの局に入内させるなんて……! 兄上はシーナと義姉上様を重ねているだけよ」
「……マナ」
決して重ねてなどいない。姿形は似れど、天女のように儚げなあの人とは似ても似つかない。
ただ私は……時がとまったあの局に、息吹を吹き込んでやりたかっただけだ。
「今です、シュン様」
「ぐっジョブだ、マナちゃん。ハル、そのまま歯を食いしばれ」
何、この愛情の裏返し。
二刻もすれば死闘なのだ、力を温存させてくれないか。お願いだから少し休ませてくれ。うん、聞いてない。カブ、転移だ!
「あははー、今日も晴天なりー」
「あははー、シーナたぁんっ、待ってぇ」
境内を駆けずり回る妻と虫。
……遠い。遠すぎる、私の識神。
「ゴフッ」
*
桜紋が消えた夜の明障子。温かな色のある部屋に安堵し、暫しそのまま身体を横たえていたが乱れた敷妙にあの人はいない。心に隙間風が吹き、身体を起こし簾の狭間から広い邸内を見渡した。既にいくつもの灯篭に灯りが点り、無機質な白ばかりの邸は薄灰色の影が揺らめいている。どうやらあのまま眠り、日没を迎えてしまったようだ。
「春宮様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「サクラは何処へ?」
「今宵は十五夜でございます。回廊にて月をご鑑賞されておりますよ」
「十五夜か、忘れていたな」
まだ幼さ残る愛らしい侍女が帳の向こうへと消えていく。その姿を見届けゆっくりと御帳台の踏み板を下った。月が近く星の降り灌ぐ十五夜には主の有無なしに、やれ月見であると邸中の簾が上げられる。夜空を仰ぐなら彼処であろうと、屋根へ上がれば直ぐにその御髪はみつかった。星光で煌めく天ノ川のような絹糸の髪。
夜着の裾をめくり上げ、素足のまま瓦を躍り渡っている。
「ハル、見て……! 今年は豊漁よ、私めがけ星が幾つも流れ落ちてくるの!」
「単衣一枚では風邪をひいてしまうよ」
「相変わらず難儀な方ね。では、貴方の温もりで温めてくださいな」
小さな妻を膝に乗せ、冷えた白肌を温め直す。夜空を仰げば満天に輝きそぼ降る星。
サクラは顔を上げると耳に差していた花櫛を二つに分け、一つを私の耳へと差した。光粒を乗せた百合の頬に手を添えれば朱が染まり、紅い果実の唇は夜露に濡れている。華林の睫毛に潜む花輪の瞳に映るのは私だけ。
「このまま二人、夜空に溶けてしまえばいいのに」
「それはこの上ない歓喜の終だな」
少しでもその終着地へ辿り着こうと、小さな膝に頭を預けた。クスクスと溢れた笑みに気を良くし、目を瞑れば瞼裏にチカチカと星屑が瞬く。
髪をすくように撫でる指先。
後頭部に触れる柔らかい感触。
至極、暖かく──。
「ハル、大丈夫?」
枕にした膝は紅袴。夢から醒め起き上がろうとするが、指一本儘ならない。
「……ここは」
「牛車のなか。回廊で転んで頭打って、気を失ってたんだって。本当、よく転ぶよねぇ」
陰陽師は運動神経ないの?
と馬鹿にするが、見上げた顔は笑っていない。鬼の瘴気が牛車の中まで霧となり幕を下ろしている。
「すまない、私待ちか」
「ハル、今のままではあんたの霊力が足りない。どうすればいい?」
「……シーナ、お前は」
そうか、覚られていたか。
供儀台へ上った人柱姫は鬼に御霊を引き寄せられる。特に母体のないシーナの御霊は鬼の瘴気に取り込まれてしまう。木偶に留めておくには、より強い霊力の鎖で縛る必要がある。
私がシュン殿のように陣内で戦えぬのは、敵の見えぬ位置で詠唱を続けなければならないからだ。
故に、霊力を欠かしてはならない。
「シーナの霊力を少し分けてくれ。少しでいい」
「どうやって?」
「口、いや耳、ヘソ──どこでもいい。一息吸えば満ちる」
「吸えば? だからカブもライちゃんもヘソ吸うのか、納得」
でも悪いんだけど、ヘソ出す暇ないわ。と唇を重ねた。
待て、まだ耳という選択肢が。
勝手に息を吹き込むな。
心の準備が。
「こんなもんで、いい?」
「……充分だ」
馬鹿が。私へ割り振りすぎだ。
無駄に覇気が溢れだしてくる。
「貧血を起こしても、私のせいにするなよ」
「はいよっ、いってくる!」
揚々と牛車を飛び降りていく小さな肩。
──不可解だ。
何故あんなにも無私になれる。
利他主義の次元ではない、闘いには己を顧みず前傾で、仲間の為なら無益で命を削る。
命を削る。死を怖れず、受け入れている。
無欲だ。
人身御供の殲滅は自らの生を得るための闘いではないのか。まるで他の願いを見据え、今この時の命を繋いでいるように見えてならない。
──似ているよ、サクラ。
無私で無欲。民に慕われ、民を庇い散っていった貴女に。
皆それを悟り、命を繋ぐ為にシーナを支えているのか。ならば私も命をかけ妻を護ろう──お前とは違い、しっかり対価は頂くがな。
そうだな、一先ずはあれだ。
先ほどの口付けで消尽してやろう。
「負けるなよ──」
物見から覗く強固な鬼の肌を一瞥し、静かに霊気を言霊へのせた。




