騎兵戦線「散華」
千と千の騎兵が、三千に及ぶ銀色の軍馬を取り囲んでいた。
側面を削り、背面に周り、また側面を砕こうとする。だが、守りを固めた銀騎兵は手強い。犠牲を出しはしないが、打ち倒すこともできなかった。
「まだ、破れんのか」
青白い顔をした将が馬上で金切り声をあげた。若々しい顔に苛立ちが募っていた。神経質そうに眉間に皺を寄せ、装飾された剣の柄をいじっている。
「思いのほか、固いようですな」
付き従う壮年の男が冷めた返事をした。こちらは落ち着いた様子で、眼前の戦いの趨勢を見ていた。
「何か策はないのか、姜昭」
「策、でございますか」
姜昭は顎髭をしごいた。この状況では策も何もなかった。いったん干戈を交えたら、殺し合うだけだ。頭で考えた策など、何の役にも立たない。兵を率いる隊長に任せるしかないのである。それが、この指揮官にはわからない
「厄介なのは、あの厚い鎧でしょうな。異国の鉄は固いと聞き及んでおります」
「そうなのか」
戦の経験が圧倒的に少なかった。王族の連中はほとんどがそうだ。箔をつけるために、一度や二度、行軍に付き合い、それ以降は安全な城の中で過ごすのが通例である。この第二王子も、今回が二度目の出陣で、最後の戦になると思われていた。
「そのほうの言うとおりだな。苦戦している。何とか崩せないものか」
兵士の攻撃が弾かれているのが、遠目にもわかった。
「足を止め、守勢に入られると、難事ですな。それは、隊長たちもわかっているようで――動き始めましたぞ」
「おお」
駆け回っていた千が動きを止めた。そこだけが押し合いを始める。押し切れない。ただ、反撃も巧みにいなしていた。
銀騎兵が止まった千を押し包むような動きをした。両手で、千を握り潰す構えだ。すかさず、残りの千が駆ける銀騎兵に痛撃を浴びせた。激しい動きの中で、何騎かの兵を落としたが、敵もその攻撃を予想していたようだ。何割かを防御にあてていた。軍の鎧の役割をする一団がいるようだ。
「まずいですぞ」
銀騎兵は彼らの戦術を確立しつつあった。防御を主体として守りつつ、そこから攻撃を行う戦術である。機動性を犠牲にしても、着実で隙のない戦い方だ。
動きを止めていた千が、不利と見て離脱した。銀色の腕から逃れた騎兵は、すべてではなかった。追いすがる銀騎兵に何十騎かが押し包まれ、見えなくなった。
「殿下、引きますぞ」
退却の鉦を鳴らし、姜昭は本陣をまとめた。
「何? まだ始まったばかりではないか」
戦の趨勢を見ても、まだ負けと決まったわけではない。指揮官である呂賛は、背を向けるのを渋った。
「戦には機があります。今は、立て直しを図るべきであると」
「臆病風に吹かれたか」
呂賛の物言いに、姜昭は眉根をあげた。口から出かかった怒声を腹にしまう。
「まだ、戦えるではないか。犠牲もまだ少ない。一度、全軍で押してみよ」
戦は数で決まるとは限らない。だからこそ、慎重に計らなければならなかった。わずな劣勢が、大きな崩れになることもあるのだ。その見極めは、感覚的なものだ。経験と勘が頼りになる事柄である。そのどちらもが、呂賛には見あたらなかった。
「処罰は、受けましょう。ここは撤退を――」
「黙れ!」
呂賛が剣を抜いた。
「私に負け戦をしろというのか」
周囲の兵士が色めき立つ。長年、軍に属している兵たちは、姜昭の言い分がよくわかっていた。だが、王族に刃向かう愚は犯せない。呂賛の側近は、もとより王子の言いなりであった。緊迫した空気が張りつめた。
「何をしている」
撤退を始めない本隊のために、二千の騎兵隊は踏み止まっていた。異変を察知した騎兵が、呂賛と姜昭の間に割って入った。
「紫蘭か」
その騎兵は女だった。戦場に女というのは、珍しい。しかも、返り血を浴びた凄惨な姿である。前線で戦っていたことを意味していた。
「撤退を急いでいただきたい」
冷めた目で二人の男を見た。参謀長であろうと、指揮官であろうと、意に介した様子はない。
「ならぬ。紫蘭、三騎兵のお前なら、奴らを倒せるはずだ。行け」
三騎兵とは、名だたる実力を持つ騎兵の称号だった。紫蘭は、そのうちのひとりだった。
「断る」
彼女は愛馬を寄せ、呂賛に対峙した。睨み付けたともいう。
「なんだと。私に、王家に逆らうというのか」
「三騎兵は、あなたの言葉のとおり、王家というものに仕えている。あなたでは、ない」
彼女は恫喝した。話を早く終わらせたかった。今も背後で、兵士たちが死にものぐるいで戦っていた。本隊が引かない限り、前線の騎兵隊も引けない。犠牲は増えるばかりなのである。
「貴様、刃向かうのか!」
剣が紫蘭に向けられた。
「ならぬ」
姜昭は思わず口走った。王家――すなわち国そのものに仕える三騎兵に刃を向けるということは、叛逆の意思があるとも見受けられた。王族だとしても同じだ。
紫蘭が目を細めた。彼女の馬が、蹄を地面に打ちつけた。
呂賛の馬が脅えて一歩引いた。彼は剣を取り落とした。
「殿下は疲れたようだ」
無様な指揮官の姿を見下ろし、紫蘭は馬を返した。
「安全なところにお連れしろ」
すかさず姜昭が口を添える。呂賛の顔は紙のように白くなっていた。紫蘭の威圧の気に触れ、意識を失う寸前だった。
「撤退だ」
姜昭の指示に、呂賛の護衛も何も言わず従った。彼らも、本心は早く撤退したかったのだ。
紫蘭は前線にとって返し、目の前の銀騎兵に一撃を見舞った。細身の剣が正確に鎧の継ぎ目を貫いた。その騎兵が倒れるよりも先に、次の騎兵に刃を突き立てる。彼女が通り過ぎた後には、死屍累々の銀騎兵が折り重なった。
だが、数には勝てない。
彼女がいくら敵を倒そうと、銀騎兵の数は多い。味方が彼女と同等の戦いができるわけでもなかった。一騎、また一騎と、騎兵が打ち倒されていく。
追撃の手は緩まない。
ただの負けではすまなかった。大敗である。その事実により、国の戦略構想が潰される気配を感じ取った。
止めなくてはならない。少なくとも、潰走するような状況を作ってはならなかった。
紫蘭は単騎で駆けた。彼女が率いる部隊はない。そもそも、ついてこられる騎兵がいないのである。彼女に他の兵士と歩調を合わせる気もなかった。遊撃として、単騎での独立行動だった。
紫蘭は、銀色の流れを逆らって駆けた。銀騎兵はまさか突っ込んでくる騎兵がいるとは思っておらず、驚きに馬を竿立てる者もいた。
彼女の狙いは指揮官だった。あわよくば、である。劣勢を覆すには頭を潰すのが効果的だった。だが、危険な試みである。乱戦ならいざ知らず、まとまった軍には幾重もの壁があるのだ。
「潰せ!」
たちどころに周囲を囲まれてしまった。
「女だと」
「まさか」
戦っているのは、隣国の軍勢である。三騎兵の名を知らない者はない。
「三騎兵の紫蘭」
誰かが言ったその名に、恐怖の細波が伝播していった。
「いや、やれる」
紫蘭の息は上がっていた。肩が上下に動くことを隠せていない。血塗れの鎧は、返り血だけではなかったのだ。
「押し包め!」
銀騎兵の脚が止まった。紫蘭一騎に、何百もの騎兵が剣や槍を向けていた。三騎兵を討ち取れば、大きな手柄である。誰の心にも、功名心があった。
紫蘭は馬を止め、馬上で背を伸ばした。
「その程度の数で、私を仕留められると思っているのか」
甲を押し上げ、彼女は笑った。
「負け惜しみを」
誰かが言った。紫蘭はそちらに目をやった。
「惜しくはない」
これだけの兵を引きつけられれば、撤退は充分可能だろう。ひとりの命で、いったい幾つの兵士が救われるのか。
紫蘭は笑い、愛馬の背を叩いた。ずっと一緒に戦ってきた愛馬に、心の中で「すまない」と謝った。馬は鼻を震わせて応えた。
「往くか」
どこへ、とは言わない。辿り着く先などないかもしれないのだ。
紫蘭は剣を差し上げた。ただひとりの戦場が幕を上げる。
血の滾りは尋常ではなかった。
数百の男に囲まれ、その中心に自分がいる。数瞬の後に襲い来る惨劇に、魂の鼓動が激しく打ち鳴らされていた。
花の蜜が滴り、そして落ちた。