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悪役令嬢の婚約破棄状を代筆しただけなのに、なぜか聖女様が青ざめています

掲載日:2026/10/14

 誰の字でも写せるのに、署名の代筆だけは断る。おかげで家賃の催促状は、机の端に積み上がる一方だ。


 うちは、手紙や書類を代わりに書く店だ。恋文、借用書、役所への願い書。字の下手な客も、言葉の出てこない客も来る。口述を聞きながら書くので、客が黙るところは、嫌でも分かる。私は、その黙った場所を、覚えておく癖がある。いちばん言いたいことは、たいていそこにあるからだ。


 今夜の依頼人は、真面目そうな書記の男性だった。恋人の話になると、急に黙る。名前を言う前にだけ、長く。


「相手のお名前は……エマと言います。自分で手紙に書くのは、どうにも照れくさくて」


「かしこまりました。では、お名前を文章の中に忍ばせておきますね」


 持参された下書きの字は定規で引いたようにまっすぐで、恋文というより納品書だった。私はその文面を整え、清書した。


  えがおを見るたび、一日の疲れが消えます。


  またあの橋で、会ってくれますか。


「出来上がりました。行の頭の文字をつなぐと、お相手のお名前になります」


「『え』と『ま』……あ、本当だ。エマになってる。これは、何という書き方ですか」


「折句という、恋文の古い作法です」


「あの、僕の字は下手で……手紙の最後も、似せて書いてもらえませんか」


「似せられますけど、似せません。字は、書いた人のものですから」


 男性は自分の震える字で署名をし、嬉しそうに真っ赤な顔で帰っていった。


 私はリゼット・オルコット。母が亡くなってから、下町のオルコット代書室を一人で回している。栗色の髪はペン軸でまとめ、指先には洗っても落ちないインクの染みがある。


 他人の恋文なら、いくらでも書ける。なのに、自分の気持ちは一行も書けない。机の引き出しには、母の最後の手紙が入っている。『リゼットへ。字は、あなたの好きなように書きなさい』。好きなように、が私には分からない。


 看板の灯りを消そうとしたところで、扉の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、目深にフードをかぶった若い男だった。影から金色の髪がのぞいている。


「手紙を頼みたい。婚約を破棄する手紙だ。明日の正午の儀に、間に合わせてほしい」


「お相手のお名前を、おっしゃってください」


「宛名は、アデ……いや。アデライード・ヴェルヌ公爵令嬢」


 公爵令嬢の婚約者といえば、この国には一人しかいない。フードで顔を隠しても、名前で台なしだ。


 王族の婚約破棄だけは、破棄状を書いた代書人が、広間で読み上げて初めて成り立つ。つまり明日の昼、私の声が婚約を切る。普通は王宮の代書人の仕事だ。


「王宮の者には、頼めない」と男は言った。


 男は、一行ずつ区切って文面を言い、言い終えるたびに「……いや、そう書いてくれ」と、自分に言い聞かせるように足した。行の頭の一字を言う前にだけ、長く黙る。言葉の途中では少しも迷わないのに。男が黙っているあいだ、ペン先を紙に当てたまま待つので、行の頭ごとに、小さなインクの溜まりができた。


  にこやかな顔を見せてくれない貴女に、私はもう耐えられない。


  せめて最後くらいは、互いに穏やかでいたい。


  もう二度と、私の隣に立とうとしないでほしい。


  のばした手を、今度だけは取らないでくれ。


「最後の『のばした』は、仮名で書いてくれ」


「仮名のほうが、やわらかく見えますものね」


「……そういうことにしておいてくれ」


 黙る場所は読めても、理由までは読めない。署名の前で、男はペン先を止めてから、「セドリック」と書いた。


 代金の金貨を置いた右手の人差し指には、指輪を外した跡が白く残っていた。


 王太子殿下の婚約破棄状を、私が書いてしまった。




 翌朝、配達の少年が、大きすぎる帽子を押さえて飛びこんできた。


「姉ちゃん、これ読んで! あと聞いた? 悪役令嬢が、聖女さまをいじめたんだって。夜会で、みんなの前で」


 字の読めない少年に、田舎のお母さんからの手紙を読んでやり、返事も書いた。「元気です」の一行で済むところを、お母さんが泣く長さまで引き延ばした。差し出された硬貨は、指で押し返した。


 悪役令嬢はアデライード様。聖女さまは、涙ながらの手紙で有名な男爵令嬢のミーナ様。殿下の新しい婚約者の最有力候補、とも噂されている。殿下が婚約を破棄したくなるのも分かる、と私は思った。


 カウンターには、試し書きの紙の束が積んである。紙の隅に、薄めたインクで「な」。母にいちばん厳しく直された字だから、ペン先の具合がよく分かる。


 そこへ、紋章つきの馬車が止まった。降りてきたのは、黒髪をきつく結い上げた令嬢だった。目尻の上がった目に、深い緑のドレス。閉じたままの扇。令嬢は表の看板を見上げた。


「先生の字ね。一画も変えていないのは、褒めてさしあげます」


 アデライード様だった。この人が、聖女さまをいじめた悪役令嬢。そう思ったら、商売人の口が勝手に動いた。


「返書の代筆でしたら、公爵家のお客様は、お代が倍になります」


 そんな決まりはない。悪役令嬢から多めにもらっても、罰は当たらないと思った。


「倍? 結構。腕のいい職人には、言い値を払うものです」


 アデライード様は眉一つ動かさずに倍の金貨を置き、一行ずつ区切って返書を言った。


  まことに残念ですが、お申し出を受け入れます。


  かつての約束は、すべてお返しいたします。


  せめて殿下の行く末に、幸多かれと祈ります。


  てを取らぬようにと仰せならば、そのとおりにいたします。


「最後の行の始めは、仮名で書きなさい」


 昨夜も、同じような注文を聞いた。アデライード様は署名をして、追伸のカードに自分の手で書き足した。


『なお、お返しする指輪は、別便にて』


「な」の結びが、くるりと右回りに巻いている。母が生徒に、きれいに巻けるまで書き直させた結びだ。


「その指、インクで荒れていますわ。この軟膏を塗りなさい。命令です」


 アデライード様は小さな陶器の入れ物を机に置いて、扉へ向かった。その扉が、外から開いた。


 淡い桃色の髪をふわりと下ろした令嬢が、白いドレスで立っていた。ベルガモットの香り。聖女さま、ミーナ・ローゼ様だった。後ろには、灰色の髭の男が立っている。胸に王宮の紋章をつけた、ミーナ様の父の侍従長だった。アデライード様の馬車を、追ってきたらしい。


 アデライード様の目が、ミーナ様の足もとで止まった。


「ミーナさん。その靴は、かかとが割れていますわ。履き替えなさい。命令です」


 ミーナ様の目に、涙がにじんだ。にじむまでの間が、測ったようにちょうどよかった。


「ほら、お父様。いつも、こうなんです。わたしの靴まで、悪いって……」


 涙を浮かべたミーナ様は、すれ違いざま、私だけに聞こえる低い声で微笑んだ。


「かわいそうな代筆屋さん。勝ったほうが本当の物語になるのよ」


 その顔に、聖女の面影は微塵もなかった。


 侍従長が、アデライード様をにらんだ。アデライード様は、閉じた扇を握り直しただけで、何も言わずに出ていった。


 侍従長は、私の机に紙を置いた。昨夜、私が書いた殿下の破棄状の写しだった。殿下の手紙は、すべてこの人が検める。


「儀で読み上げる清書は、こちらで用意する。お前は、お前の名で署名して、読むだけでいい」


「署名は、書いた本人のものです。書いていない文に、名前は貸せません」


「名前を貸すだけで、この店を王宮御用達にしてやる」


 机の端の催促状が、一斉にこちらを向いた気がした。


「代筆屋なので、名前を借りた嘘は書かないんです」


 侍従長は何も言わなかった。ミーナ様はクスリと笑った。


「おかしな人。勝ったほうが書いた手紙が、本当になるのに」


 侍従長は紙を取り上げ、娘のほうを見もせずに背を向けた。「ほかの者に書かせるまでだ。行くぞ」。ミーナ様は一瞬だけ父の冷たい背中を見つめ、試し書きの束に白い手袋の手をそっと置いて、聖女の笑顔に戻って追いかけた。


 扉の外で、かたりと、靴のかかとが外れる音がした。割れていたのは、本当だったのだ。


 悪役令嬢は、命令形で靴のことを言っただけだった。泣いて見せたのは、聖女さまのほうだった。倍の代金をふっかけた私の手は、いつのまにか軟膏の入れ物を握っていた。


 客が引いた店に、背の高い男が入ってきた。灰色の髪に、黒い手袋、文書局の銀の徽章。王宮で書類の真偽を確かめる監査官の、ユリウス・グレイ様だ。店に来るたび、私の試し書きを「資料用」と言って買っていく。


「オルコット嬢。試し書きを」


「受け取りにご署名を」


「君が書いてくれ。私は、人前で字を書かない」


「規則ですか」


「私の規則だ」


 監査官のくせに、と思いながら、受け取りに「ユリウス・グレイ」と書いた。ユリウス様は束を両手で受け取り、紙の隅を見た。


「君の字は、書き出しで一度止まる。止まる字は、嘘をつかない」


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


「今日は、束が薄いな」


「いつもどおり重ねましたけど」


「正午、王宮で婚約破棄の儀がある。君が読み上げる。呼び出し状だ。儀の終わりの鐘が鳴るまで、当事者は口を開けない。代書人の言葉は、誰にも遮れない」


「侍従長に、清書に名前を貸せと命じられました。断りましたけど、ほかの者に書かせると」


「清書の用意は、侍従長の役目だ。儀の前に、文書局はその手紙に触れられない。規則だ」


「規則、規則って。偽物が読み上げられても、ですか」


「規則に、読む前に見るなとは書いていない。よく見ろ。君の目なら分かる」


 突き放されたのか、頼られたのか、分からなかった。この人の字が読めたら、すぐ分かるのに。




 正午前、広間の扉の前で、黒い手袋の手が、私を呼び止めた。見上げると、ユリウス様がいた。


「王宮の机のペンは、癖が強い。君のペン先に合わせて、研いでおいた」


 渡されたペンは、私の手にぴたりと収まった。研ぎ口は、ところどころ不器用に欠けていた。


 広間の高い窓から、正午の光が壇に落ちていた。正面の壇に王太子殿下、少し離れて深い緑のドレスのアデライード様。壇の下手、光がいちばん当たる場所に白いドレスのミーナ様。脇にはあの侍従長。壁ぎわには、黒い手袋のユリウス様が立っていた。


 儀の始まりに、侍従長が訴えを読み上げた。


「ヴェルヌ公爵令嬢は、ローゼ男爵令嬢に、たびたび脅迫の手紙を送った。殿下はこれを知り、婚約を破棄される」


 ミーナ様が、光の中で両手で顔を覆った。「やっぱり」「あの方ならやりかねないわ」「聖女さまがかわいそうに」と貴族たちのささやきが広がる。アデライード様は扇を閉じたまま、まっすぐ前を見ていた。言い返したくても、鐘が鳴るまで口を開けない。指の関節だけが、白くなっていた。


 侍従長の従者が、盆に載せた清書を私に渡した。私の字で書かれた、殿下の破棄状だった。読み始めた。


「にこやかな顔を見せてくれない貴女に、私はもう耐えられない。せめて最後くらいは、互いに穏やかでいたい」


 その次の行で、声が止まった。


『貴女がミーナ嬢に送り続けた脅迫を、私は許さない』


 店で署名を貸せと言われた、あの清書だ。字は私の字にそっくりだが、行の頭にインクの溜まりがない。殿下が黙ったあいだ、私が止めたペンの跡がどこにもない。迷わずに書かれている。


 壇の下から、甘い香りと一緒に、小さな声が届いた。


「読んで。読めば、あなたも選ばれる側よ」


 ミーナ様が、光の中で勝ち誇って微笑んでいた。


 読めば、私は無事に帰れる。読めば、アデライード様は偽りの罪を背負って追放される。私の字で書かれた嘘のせいで。


 冗談じゃない。


「この手紙は、私の字ですが、私が書いたものではありません」


 広間が凍りついた。侍従長が立ち上がる。


「下町の代筆屋の言うことを、誰が信じる。偽ったのはお前だ。衛兵、捕らえよ」


 壁ぎわから、ユリウス様が一歩前に出た。


「規則では、代書人の字で書かれたものは、代書人の責任だ。代書人を拘束する」


 衛兵が、私の腕をつかんだ。清書の端が手の中でしわになる。……この人も、規則で私を突き放すのか?


 失望で胸が冷たくなりかけたとき、ユリウス様と目が合った。


 彼はまっすぐに私を見つめ、黒い手袋の手で、小さく「落ち着け」と合図を送ってきた。


「ただし」とユリウス様は堂々と言い放った。「拘束は、儀の終わりの鐘のあとだ。鐘が鳴るまで、代書人の言葉は誰も遮れない。衛兵は下がれ。規則だ」


 衛兵の手が離れた。侍従長は、黙って座り直した。


 アデライード様が、本物の破棄状を差し出した。


「こちらが、殿下がリゼット先生の店で口述された本物の破棄状です。並べて光にかざせば一目瞭然です。本物には、行の頭ごとに小さな『インクの溜まり』があります。殿下は、行の頭の一字を言う前にだけ、長くお黙りになりました。言いたいことを飲み込むために。盆の清書には、それがありません。迷わずに書けるのは、他人の字を機械的に写した時だけです」


 老貴族が身を乗り出す。「……確かに。片方にしか、溜まりがない」


「殿下がなぜ行頭で黙られたのか。その本音をお読みします。……行の頭の仮名をつなげてください」


「に、せ、も、の」


 広間じゅうに衝撃が走った。アデライード様が、静かに返書を重ねる。


「ま、か、せ、て」


 息が止まった。


 王太子の手紙はすべて侍従長に検められていた。だから殿下は、本当のことを書けない手紙の中に、折句で救援を呼びかけたのだ。そしてアデライード様はそれを見抜き、「任せて」と答えていた。


 当事者は口を開けない決まりの広間で、二人は、手紙の行頭だけで話していたのだ。


 ミーナ様が、脅迫状の束を高く掲げた。


「でも! 脅迫状は本物です! アデライード様がわたしを『離れろ』と脅したんです!」


「この脅迫状も、一度も筆が止まっていません。そして——」


 私は紙を光にかざした。


「この紙は、私の店の紙です。隅に、薄い『な』が透けています。私が試し書きに書いた『な』で、くるりと右回りに巻いています。ですが、脅迫状の『な』は、左回りです」


「代筆屋さんなら、いくらでも言えるわ!」ミーナ様が叫ぶ。


「では、ご覧ください」


 私はユリウス様の研いでくれたペンを握り、目の前で『殿下からはなれなさい』とアデライード様の筆跡を寸分たがわず模倣してみせた。そして最後の「な」を、綺麗に右回りに巻いて、自分の署名を添えた。


『写し リゼット・オルコット』


「私が写せば、結びまでこう書きます。この脅迫状を書いたのは、アデライード様でも私でもありません。……ミーナ様。あなたにこの偽物を提供したのは、一体誰ですか?」


「嘘よ! あの人は、公爵令嬢の字を完璧に写せるってお父様が——あっ」


 ミーナ様はハッと口を押さえた。だが、もう遅かった。


「お父様が」——その一言で、すべてが繋がった。


 貴族たちの冷ややかな視線が一斉に侍従長へ刺さる。侍従長の手からカタカタと震える杖が落ち、寂しい音を立てた。


「嫌……嫌よ! わたしが聖女よ! こんな貧乏な代筆屋の言うことなんて信じないで!」


 ミーナ様は涙でぐしゃぐしゃの顔で叫び、父にすがった。「ねえ、お父様! 何とか言ってよ!」


 しかし、侍従長は、すがりついた娘の手を、袖から振り払った。ミーナ様の指は、空をつかんだ。


「知らん! 娘が勝手にやったことだ! 私は何も関係ない!」


「お父様……!?」


 ミーナ様は、その場にへたり込んだ。顔は青を通り越して、土色になっていた。


 そこへ、ゴーン、と儀の終わりの鐘が響き渡った。


 アデライード様が、閉じていた扇を優雅に開いた。内側には、私の母の手本が書いてあった。『嘘のない字を』。


「ミーナさん。わたくしの字を真似るなら、右回りの結びから覚えていらっしゃい。……それと、その汚れた靴は、今すぐ履き替えなさい」


 殿下が壇を降り、盆の清書を手に取ると、一瞬で真っ二つに引き裂いた。


「この破棄状は無効とする。ミーナ・ローゼ男爵令嬢は候補から外し、修道院へ幽閉。侍従長は偽造と職権乱用の疑いで拘束する。私の手紙を検める役も、本日限りで剥奪する」


 泣き叫ぶミーナ様と、青ざめた侍従長が、衛兵に引っ立てられていく。


 殿下はアデライード様の前で足を止めた。


「アデル。手紙でしか言えなかった。すまなかった」


「遅いですわ」とアデライード様は扇の陰で目を濡らした。「もう二度と、手紙で言わないで。命令です」


「ああ。口で言う」


 殿下は私にも向き直った。


「リゼット・オルコット殿。あなたに頼んでよかった。オルコットの書式なら、アデルは隅々まで読むと分かっていた」


 拍手の中、壁ぎわのユリウス様と目が合った。彼は真顔のまま、規則正しく手を叩いていた。




 数日後、オルコット代書室の前には長い列ができていた。


「並んでくださーい! 恋文はこちら、借用書はあっち!」


 配達の少年が楽しそうに仕切っている。「ねえ姉ちゃん、聞いた? 聖女様、遠い修道院で毎日、泣きながら自分の字を書く稽古をさせられてるんだってさ!」


 アデライード様から返ってきた金貨には、礼状が添えられていた。


『受け取りません。結婚式の招待状の、前払いです。命令です』


 夕方、客が引いた店に、扉の鈴が鳴った。


「オルコット嬢。試し書きを」


「その前に。広間で『拘束する』と言いましたよね。本気で冷や汗をかきました」


「順序どおりに言わなければ侍従長に突かれる。先に君の責任を認めてから、遮れない規則を出した」


「……最後に頼れる人は、やっぱり規則の人だったんですね」


「すまない。規則だ」


 ユリウス様は少し照れくさそうに目をそらし、補足した。


「それと、裏通りの偽筆屋は、儀の朝のうちに文書局で押さえておいた。侍従長が名前を貸せと迫ったと、君が教えてくれたからな。規則の中でできることは、全部した」


 黒い手袋を外したユリウス様の素手には、真新しいペンだこができていた。あの不器用に研がれたペンは、この指が私のために作ってくれたものだったのだ。


 ユリウス様は上着の内側から封筒を出し、机に置いた。


「代筆は頼まない。自分で書いた」


 宛名は『リゼット・オルコット様』。字はお世辞にも上手とは言えない。線は震え、払いは迷っている。だが、どの行の頭にも、愛おしい『インクの溜まり』があった。


  すべての手紙を、君に読んでほしい。


  きみの字をお手本に、字をならった。


  できれば、返事は君の字で。


  すこしだけ、待っている。


  す、き、で、す。


「……折句、隠れてませんよ」


「隠すつもりはない。……リゼット」


 名前で呼ばれ、胸が跳ねた。


「字も、私に似てますね」


「似せた。人前で字を書かないのは、下手だからだ」


 迷った跡だらけの字なのに、今まで見たどの綺麗な恋文より、胸が熱くなった。


 私は新しい紙を出し、ペンを握った。他人のためらいなら読めるのに、自分の気持ちはずっと書けなかった。


 ペン先が紙の上で一度止まる。……止まる字は、嘘をつかない。


『ユリウス様へ。私も、です。これからの手紙は、全部読みます。だから全部、ご自分の字で書いてください。命令です』


 手紙を渡すと、ユリウス様は初めて、眩しそうに少しだけ笑った。


 その夜、私は母の最後の手紙を取り出した。『字は、あなたの好きなように書きなさい』。好きなようにの意味が、今日、やっと分かった。


 紙の一行目は、もう決まっていた。


『お母さんへ。今日、生まれて初めて、自分の気持ちを手紙に書きました』


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