恋愛小説は王太子の教材になる
王都では今、一冊の恋愛小説が大流行していた。
題名は、『悪女は王子様にだけ嘘をつく』。
悪女と噂される令嬢が、完璧な王子様に恋をしているくせに、素直になれず、つい意地悪な言葉ばかり口にしてしまう物語である。
重い悲恋ではない。
むしろ、読んでいるこちらが「もう少し素直になればいいのに」と笑ってしまうような、甘くてじれったい恋物語だった。
貴族令嬢たちは茶会のたびに続きを語り合い、侍女たちは仕事の合間に回し読みし、王宮の文官たちまで、昼休みにこっそり読んでいるという。
「今週の悪女様、また王子様にひどいことを言っていましたわね」
「でも、そのあと一人で落ち込んでいたでしょう。あれが可愛いのですわ」
「王子様も王子様ですわ。あんなに分かりやすく好かれているのに、全然気づかないんですもの」
そんな会話が、王都のあちこちで交わされていた。
そして、王太子レオンハルトもまた、その本を読んでいた。
王宮の執務室で、彼は書類の山の隙間に本を置き、真剣な顔でページをめくっている。
側近のアーノルドが、呆れたように言った。
「殿下。またその本ですか」
「民の流行を知ることも、王族の務めだ」
「恋愛小説が、ですか」
「人心を知る教材だ」
「しおりが七本も挟まっていますが」
「重要箇所が多い」
レオンハルトは平然と言った。
けれど、その耳が少し赤いことを、アーノルドは見なかったことにした。
「しかし、この王子は少し鈍すぎないか」
レオンハルトは本を閉じて、真面目な顔でつぶやいた。
「ここまで悪女令嬢が分かりやすく態度に出しているのに、なぜ気づかない」
アーノルドはしばらく沈黙した。
「殿下」
「何だ」
「その言葉、ぜひ胸に刻んでおいてください」
「どういう意味だ」
「いえ、何でもありません」
王太子レオンハルトには、二つの顔があった。
一つは、誰もが知る完璧な王太子としての顔である。
礼儀正しく、聡明で、公平で、誰に対しても穏やか。会議では冷静に意見をまとめ、舞踏会では令嬢たちに優しく微笑む。
国王も大臣も彼を信頼し、民もまた、次の王は安泰だと噂していた。
そしてもう一つは、夜になると粗末な外套をまとい、城下へ降りる青年リオとしての顔だった。
王宮にいては、本当の民の声は聞こえない。
そう考えたレオンハルトは、身分を隠して市場を歩き、酒場で噂を聞き、下町の食堂で安い煮込み料理を食べた。
時には情報屋と会い、貴族や商人の不正について調べることもある。
もちろん、そのことを婚約者には話していなかった。
その婚約者、侯爵令嬢ヴィオレッタ・ローゼンベルクにも、二つの顔があった。
一つは、社交界で恐れられる薔薇の悪女としての顔。
美しく、気高く、隙がない。
彼女が扇を一振りすれば、噂好きの令嬢たちは口をつぐむ。彼女が冷ややかに微笑めば、若い貴族たちは背筋を伸ばす。
高慢な物言い、鋭い視線、華やかなドレス。
誰もが彼女を、王太子の婚約者にふさわしいが、少し恐ろしい令嬢だと思っていた。
もう一つは、誰にも名乗らず、孤児院や施療院に寄付を続ける支援者としての顔である。
彼女は貧しい子どもたちに教師を手配し、病に苦しむ者に薬を届け、困窮した未亡人に働き口を紹介していた。
だが、そのことを知られるのをひどく嫌った。
「善行を見せびらかすなど、趣味が悪いですわ」
ヴィオレッタはいつも、そう言って済ませてしまう。
だから、二人の誤解は起こるべくして起こった。
ある夜、レオンハルトは城下の裏通りで、深いフードをかぶった女を見かけた。
女は粗野な男たちと向かい合い、小さな包みを受け取っている。
顔は見えない。
けれど、フードの隙間から、淡い菫色のリボン飾りがちらりと揺れた。
レオンハルトは息をのんだ。
それは、彼がまだ幼い頃、初めてヴィオレッタに贈ったものだった。
王宮の庭園で、幼いヴィオレッタが一人で泣きそうな顔をしていた日がある。
彼女は母を亡くしたばかりで、それでも侯爵令嬢らしく振る舞おうとして、涙をこらえていた。
幼いレオンハルトには、何と声をかければいいのか分からなかった。
だから彼は、自分の上着についていた菫色のリボン飾りを外して、彼女に差し出した。
「泣くな、とは言わない。だが、これを持っていれば、少しは寂しくないだろう」
今思えば、ひどく不器用な慰めだった。
ヴィオレッタは小さな手でそのリボンを受け取り、涙目のまま言った。
「……安っぽいですわね」
けれど翌日から、彼女はそのリボンを髪に結んでいた。
忘れるはずがなかった。
レオンハルトは、裏通りの陰で足を止めた。
なぜ、あれを身につけた者が、こんな場所にいる。
なぜ、あのような男たちと会っている。
そして、あの包みの中身は何だ。
声をかけようとして、できなかった。
今の自分もまた、王太子ではなく、城下の青年リオとしてここにいるのだから。
数日後、レオンハルトは執務室で、『悪女は王子様にだけ嘘をつく』の最新話を読んでいた。
今週の話では、悪女令嬢が、王子様と見知らぬ女性が親しげに話しているところを見てしまう。
悪女令嬢は平気な顔で笑い、いつものように意地悪な言葉を返す。
だが、一人になったあと、小さくつぶやく。
――わたくしには、あんなふうに笑ってくださらないのに。
レオンハルトは、そこでページをめくる手を止めた。
胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。
「……説明しなければ、伝わらない」
彼は小さくつぶやいた。
王子様には事情があった。
だが、悪女令嬢には分からない。
それは、物語の中だけの話だろうか。
自分はどうだ。
夜ごと城下に降りて、情報屋と会っている。
王宮では見せない顔で、見知らぬ女性と話している。
もしヴィオレッタがそれを見たら。
レオンハルトは本を閉じた。
「アーノルド」
「はい、殿下」
「ヴィオレッタに会う」
「今からですか?」
「ああ」
レオンハルトは立ち上がった。
「言わなければいけないことがある」
その日の午後。
王宮の庭園で、レオンハルトとヴィオレッタは向かい合っていた。
白い薔薇の咲く東屋には、人払いがされている。
ヴィオレッタはいつものように美しかった。
淡い薔薇色のドレスに、白い手袋。髪には、菫色のリボン飾りが結ばれている。
あの夜、裏通りで見たものと同じだった。
レオンハルトは、静かに口を開いた。
「ヴィオレッタ。君に話していなかったことがある」
ヴィオレッタは扇を開いたまま、静かに彼を見た。
「まあ。改まって、何ですの」
「私は夜、城下へ降りている」
ヴィオレッタの指が、ぴたりと止まった。
「身分を隠して、リオという名で民の声を聞いている。市場を歩き、酒場で噂を集め、時には情報屋と会って、不正を調べることもある」
「……そうでしたの」
「黙っていてすまなかった。君を信用していなかったわけではない。ただ、危険なことに巻き込みたくなかった」
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
「殿下は、本当に不器用ですわね」
「返す言葉もない」
「けれど、わたくしも人のことは言えませんわ」
ヴィオレッタは扇を閉じた。
「わたくしも、話していなかったことがあります」
彼女は、孤児院や施療院を匿名で支援していることを話した。
寄付金が途中で抜き取られていたこと。
表向きは慈善家を装う商会が、孤児院へ届くはずの金を横領していたこと。
そしてその証拠を集めるために、城下で男たちと会っていたこと。
レオンハルトは静かに聞いていた。
「やはり、あれは君だったのか」
「見ていらしたの?」
「ああ。菫色のリボン飾りが見えた。昔、私が君に渡したものだ」
ヴィオレッタは、ほんの少しだけ目を泳がせた。
「……よく覚えていらっしゃいますのね」
「忘れるはずがない。私が君に贈った、初めてのものだから」
ヴィオレッタは扇を開いた。
けれど、隠しきれない耳の赤さが、リボンと同じくらい愛らしかった。
レオンハルトは、少しだけ声を和らげた。
「なぜ、あれを身につけていた?」
ヴィオレッタは、少しだけ黙った。
「……お守りですわ」
「お守り?」
「危ない場所へ行くときに、少しだけ勇気が出ますの」
レオンハルトは、何も言えなくなった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
彼女はずっと、自分が忘れかけていたような小さな贈り物を、大切にしてくれていたのだ。
「ヴィオレッタ」
「何ですの」
「疑ってすまなかった」
ヴィオレッタは目を伏せた。
「わたくしも、殿下を疑いましたわ」
「私を?」
「酒場で、見知らぬ女性と親しげに話していらっしゃるところを見ました」
レオンハルトは、はっとした。
「やはり、見ていたのか」
「ええ」
「彼女は情報屋だ。色恋ではない」
「……分かりましたわ」
「本当に?」
「ええ。殿下がそうおっしゃるなら」
その声には、まだ少しだけすねた響きがあった。
レオンハルトは思わず笑いそうになったが、必死にこらえた。
ここで笑えば、また機嫌を損ねる。
『悪女は王子様にだけ嘘をつく』の王子様なら、きっとここで失敗する。
レオンハルトは、失敗したくなかった。
「私は、君に誤解されたままでいたくない」
ヴィオレッタの目が、ゆっくりと彼を見る。
「だから、これからはちゃんと話す。城下へ行く時も、誰かと会う時も、必要なら君に伝える」
「危険ではありませんの?」
「危険だ。だが、隠すことのほうが、もっと危険だと分かった」
レオンハルトは少し笑った。
「だが、悪くない教訓だった」
ヴィオレッタは扇の陰で、ほんの少し口元を緩めた。
「では、わたくしも話しますわ。孤児院や施療院のこと。商会の不正のこと。殿下に全部任せるつもりはありませんけれど、黙って一人で動くのは、少しだけ控えます」
「少しだけ?」
「少しだけです」
「君らしい」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
二人は顔を見合わせた。
数日前まで、二人の間には見えない壁があった。
けれど今、その壁は少しずつ崩れていた。
「婚約解消の噂が出ている」
レオンハルトが言うと、ヴィオレッタはそっと眉を上げた。
「ご存じでしたの」
「ああ」
「では、どうなさるおつもり?」
「もちろん、婚約解消はしない」
ヴィオレッタは扇を止めた。
レオンハルトは、まっすぐ彼女を見た。
「私は、君を失いたくない」
その言葉に、ヴィオレッタの頬がみるみる赤くなった。
「殿下」
「嫌だったか?」
「……嫌ではありませんわ」
「では?」
「急すぎます」
「心の準備が必要だったな」
「分かっているなら、少しは加減なさいませ」
レオンハルトは笑った。
「では、返事は?」
ヴィオレッタは、つんと顔を背けた。
「婚約者の座は、もう少しだけ続けて差し上げますわ」
「それは承諾と受け取っていいのか?」
「ご自分でお考えくださいませ」
その声は高慢だった。
けれど、耳は赤かった。
その赤さのすぐ近くで、菫色のリボンが揺れていた。
数日後、噂を考慮して、王宮から正式な発表があった。
王太子レオンハルトと侯爵令嬢ヴィオレッタの婚約は、予定通り継続される。
社交界は騒ぎになった。
破談ではなかったのか。
むしろ前より仲が良くなっていないか。
薔薇の悪女が、殿下の隣で少しだけ柔らかく笑っていなかったか。
噂は噂を呼び、王都はしばらくその話題で持ちきりになった。
そんな中、『悪女は王子様にだけ嘘をつく』の新刊が発売された。
王都の書店には、朝から長い列ができた。
貴族令嬢も、侍女も、文官も、商人の娘も、皆が本を求めて押し寄せた。
王宮書庫にも、もちろん一冊が届けられた。
その後も、『悪女は王子様にだけ嘘をつく』の人気は衰えなかった。
むしろ、新刊が出るたびに読者は増えていった。
王子様は少しずつ悪女令嬢の嘘に気づき始める。
悪女令嬢は相変わらず素直ではない。
けれど、前より少しだけ笑うようになった。
そして、読者たちは口々に噂した。
「この作者、どうして悪女様の心がこんなに分かるのかしら」
「王子様の不器用さも妙に本物らしいですわ」
「きっと恋をしたことがある方ですわね」
王宮の執務室でその本を読んでいたレオンハルトは、しばらく黙っていた。
机の向こうでは、アーノルドが書類を整理している。
「殿下」
「何だ」
「また本ですか」
「重要箇所だ」
「今回はどのあたりが?」
レオンハルトは、開いていたページに目を落とした。
そこには、悪女令嬢が王子様からもらった星の飾りを指先で撫でながら、こう呟く場面があった。
――あなたはきっと覚えていないでしょうけれど、わたくしは、ずっと忘れられませんでしたわ。
レオンハルトは静かに本を閉じた。
「……この作者は、人の心をよく分かっている」
その日の午後。
庭園では、ヴィオレッタがいつもより少しだけ眠たげな顔で紅茶を飲んでいた。
髪には、淡い菫色のリボン飾りが揺れている。
「ヴィオレッタ、昨夜は眠れなかったのか?」
「少しだけですわ」
「何か心配ごとでも?」
「いいえ」
ヴィオレッタは優雅に微笑んだ。
「ただ、夜更かしをしてしまいましたの」
「本でも読んでいたのか」
「……そんなところですわ」
レオンハルトは不思議そうに首を傾げた。
ヴィオレッタは紅茶を飲み、何食わぬ顔で視線を逸らす。
王太子には、二つの顔がある。
完璧な王太子としての顔と、城下を歩く青年リオとしての顔。
悪役令嬢にも、二つの顔がある。
社交界で恐れられる薔薇の悪女としての顔。
誰にも名乗らず人を助ける支援者としての顔。
そして、彼女には三つ目の顔がある。
けれど、それはまだ誰にも明かされていない。
王太子も知らない。
王宮の誰も知らない。
ただ、王都で大流行している恋愛小説の新刊が出る少し前、ヴィオレッタは決まってほんの少しだけ寝不足になる。
それだけの話である。今のところは。




