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第1章 第1話:オンボーディング ―― 新しい職場と、最初の同僚

聖務局に初めて足を踏み入れた日のことを、僕はしばらく忘れないと思う。

建物自体は大聖堂の北翼に接した、石造りの無骨な棟だ。飾り気がない。窓は小さく、廊下は薄暗い。大聖堂の荘厳さとは正反対の、仕事場の空気がある。

バルナバスに連れられて中に入ると、廊下を行き来する術式士たちが、一斉にこちらを見た。

視線の意味は、だいたい分かった。

誰だ、この子供は。

僕は十五歳だ。聖務局の術式士たちは、最も若くても二十代に見える。孤児院育ちで、正式な術式教育を受けていない。それがバルナバスに連れられて現れた。不審に思うのは当然だ。

「諸君、紹介する。今日からここで働くテル君だ」

バルナバスが廊下の術式士たちに向けて言った。

返ってきたのは、沈黙と、いくつかの視線だった。歓迎の言葉は、なかった。


最初に通されたのは、記録室だった。

棚が天井まで並び、羊皮紙の束が隙間なく詰め込まれている。年代順に整理されているらしく、一番奥の棚には百年以上前の記録もある。

バルナバスが棚の一角を指した。

「当面の仕事はこれだ。古い記録が劣化しているものを、新しい羊皮紙に写してほしい。急ぎではないが、丁寧に頼む」

写し作業。要するに、書き写すだけだ。

術式の修復でも、システムの解析でも、現場への出動でもない。

バルナバスの表情に悪意はなかった。ただ、これが適切な仕事だと判断している顔だった。どこの馬の骨とも知れない少年を、いきなり重要な任務には就かせられない。当たり前だ。

「分かりました」と答えた。言葉通りの意味で。


バルナバスが出て行くと、記録室は静かになった。

僕は椅子を引いて、羊皮紙の束を手に取った。インクが薄れて読みにくいものから始めるよう、付箋が貼られていた。バルナバスが事前に整理してくれたらしい。

写し始めて、すぐに気づいた。

これはただの記録じゃない。

各地の中継塔の不具合報告、術式の異常を記した監査書、魔道具の故障と復旧の記録。日付と場所と症状が、淡々と並んでいる。前世の言葉で言えば、インシデントログだ。

ペンを動かしながら、内容を読んだ。写すだけでなく、読んだ。

七十三年前、大陸北部の三つの中継塔が同時期に停止している。復旧に二週間かかった。百二十年前にも似た事例がある。その前は、百八十年前。

発生の間隔が、縮まっていた。

(……システムの劣化が加速している。経年だけじゃなく、何か別の要因がある)

窓の外で、誰かが早足で廊下を通り過ぎた。術式士が何人か、書類を抱えて行き来している。僕のいる記録室には、誰も入ってこない。

昼になっても、誰も声をかけてこなかった。

食事の場所も、休憩の場所も、聞いていなかった。聞ける相手も、いなかった。

仕方なく、午後もペンを動かし続けた。


夕方近く、記録室に人が入ってきた。

棚の配置を確認しながら歩いてくる。僕には目を向けていない。

銀灰色の髪を後ろでまとめ、聖務局の白い外套を着ている。手には羊皮紙の束。年は僕より少し上に見えた。

棚の前に立ち、書類を一枚取り出した。それから、ふと視線が僕の手元に止まった。

羊皮紙ではなく、黒板だ。記録を読みながら、気になった箇所を黒板にメモしていた。その緑色のチョーク書きが、目に入ったらしい。

「……何を読んでいるの」

声は低く、平坦だった。

「写し作業をしています。ついでに内容も」

「ついでに」

繰り返した。感情が読めない言い方だった。

「七十三年前の記録、何か気になることでもあった?」

「……不具合の発生頻度が上がっていると思って」

「正しい観察ね」

それだけ言って、彼女は書類を持って出て行った。

名前も聞かなかった。聞く間がなかった。


翌朝、廊下で再び顔が合った。

彼女が先に気づいて、足を止めた。

「イレーネ・ヴァルス。術式解析担当よ。昨日は名乗らなかったわね」

「テルです。よろしくお願いします」

「……その黒板、常に持ち歩いているの?」

「はい」

「なぜ?」

「慣れているので」

イレーネはしばらく僕を見た。答えに納得したわけではない顔だった。でもそれ以上は聞かなかった。

「そう」と言って、廊下を歩いて行った。


三日目の朝、バルナバスに呼ばれた。

執務室に入ると、バルナバスと、もう一人がいた。

聖騎士アルリックだ。孤児院に来た時と同じ重鎧を着て、腕を組んで立っている。僕を見た目が、孤児院の時と変わっていなかった。「この少年が何をできるのか、まだ分からない」という目だ。

「テル君、実はな」とバルナバスが口を開いた。「各地で中継塔の不具合が続いている。昨夜も二件、報告が入った。君に現場に出てもらうことを考えている」

アルリックが、静かに口を開いた。

「バルナバス。本当にこの少年が役に立つのか」

「アルリック」

「責めているわけではない。ただ確認したい。現場は危険になる場合もある。腕の立つ術式士が一人いれば済む話を、新入りを連れて行くリスクを取る理由があるか」

僕は何も言わなかった。言える立場ではなかった。

バルナバスが僕を見た。

「テル君、何か言えることはあるか」

「……昨日まで写していた記録の中に、七十三年前と百二十年前に似た事例があります。どちらも単独の故障ではなく、複数拠点が短期間に連続して止まっています。今回も同じパターンに見えます」

アルリックが、わずかに眉を動かした。

「記録を読んだのか。写していただけではなく」

「写すだけでは意味がないと思ったので」

沈黙があった。

アルリックは何も言わなかった。賛同でも否定でもなかった。ただ、少しだけ、僕を見る目の角度が変わった気がした。

バルナバスが言った。

「では、次に現場が発生した時、君も同行させる。ただし、イレーネの指示に従うこと。勝手な行動は禁止だ」

「分かりました」

「アルリック、護衛を頼む」

「……承知した」

アルリックは僕に視線を向けたまま、一言だけ付け加えた。

「足を引っ張るな」


その夜、召集の鐘が三回鳴った。


作戦室では、バルナバスが地図を広げていた。赤い印が五つ、大陸の各地に打たれている。

「五箇所、同時だ」

部屋にいる術式士たちが、顔を見合わせた。僕は部屋の端に立っていた。前に出る場所ではない。

バルナバスが続ける。「最も深刻なのは南の村セルダだ。暖房術式が完全に止まっている。今夜中に対応しなければ、老人と子供に被害が出る」

イレーネが静かに言った。「セルダに向かいます。新入りを連れて行ってもいいですか」

バルナバスが少し目を細めた。「理由は」

「現場で使えるか確認したいので」

バルナバスがうなずいた。「アルリック、護衛を」

アルリックが僕を一瞥した。何も言わなかった。


馬車の中、三人は無言だった。

イレーネは膝の上の羊皮紙に何かを書いていた。アルリックは目を閉じて腕を組んでいた。

僕は窓の外を見ていた。

五箇所同時。言いたいことがあった。事前に何かを仕込んでおいて、一斉に発火させた可能性があると。でも言えなかった。馬車の中の空気は、新入りが口を挟む空気ではなかった。

暗い街道を馬車が走る。蹄の音だけが聞こえる。

言えなかった言葉を、頭の中だけで整理しながら、村まで揺られていった。

インシデント:セキュリティ上の問題や事故が発生した状態のこと。召集の鐘が鳴り、五拠点同時停止の報告が入った場面がこれにあたる

ログ:システムで起きた出来事を時系列で記録したもの。テルが写し作業をしながら読んでいた羊皮紙の記録がこれにあたる。いつ・どこで・何が起きたかを後から追うために使う

パターン:複数の事例に共通する規則性や傾向のこと。テルが七十三年前・百二十年前の記録を並べて「発生頻度が縮まっている」と気づいた行為がこれにあたる。セキュリティの現場では過去の攻撃パターンに似ていると気づくことが防御の第一歩になる

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