38.偏見との戦い
翌朝。
ケイが目を覚ました時、俺はすでにリビングで朝食の準備をしていた。
「おはよう、ケイ」
声をかけると、ケイは少し戸惑った様子でベッドから出てきた。
「…おはよう」
小さな声で答える。
「お腹空いてるだろ?ご飯できてるぞ」
俺が微笑むと、ケイは少し安心した様子で頷いた。
リビングのテーブルには、温かいスープとパンが並んでいる。
アリアとリュクも既に席についていた。
「ケイくん、おはよー!」
アリアが元気に手を振る。
「おはよう」
リュクも笑顔で言う。
ケイは少し緊張しながら、席に座った。
「さあ、食べよう」
俺が言うと、四人で食事を始めた。
温かい朝食。
穏やかな時間。
でも、俺の心の中には、不安があった。
今日も預かりの子供たちが来る。
子供たちは、ケイをどう受け入れるだろうか。
そして、その親たちは――。
◇
午前8時すぎ。
玄関のベルが鳴った。
最初に来たのは、マルコとソフィアだった。
「おはようございます、イクノ・メンさん」
マルコの母親が丁寧に頭を下げる。
「おはようございます」
俺が応える。
その時、母親の視線がケイに向いた。
瞬間、母親の表情が変わった。
明らかに、嫌悪の色が浮かぶ。
「あの子が、獣人の…」
小さく呟く声に、拒絶感が滲んでいる。
俺は、その瞬間を見逃さなかった。
この体の前任者の記憶で、この世界にも差別があることは知っていた。でも、実際にこの目で見るのは、初めてだった。
知識と現実は、全く違う。
この嫌悪感。
この拒絶。
それが、今ケイに向けられている。
「…大丈夫なんですか?」
母親が不安そうに、嫌悪感を隠しきれない様子で聞いてきた。
「何が?」
「病気とか…あの子、獣人でしょう?」
母親の声には、明確な恐怖があった。
「大丈夫です。獣人が病気を運ぶというのは、デマです」
俺がきっぱりと答えると、母親は少し考え込んだ。
「…イクノ・メンさんがそう言うなら、信じますけど…」
母親が渋々頷いた。
でも、その目は、まだケイを警戒していた。
マルコとソフィアは、ケイを興味深そうに見ていた。
「ケイくん、だっけ?」
マルコが真面目な顔で聞く。
「…うん」
ケイが小さく頷く。
「よろしくね」
ソフィアがおっとりと微笑んだ。
子供たちは、偏見を持っていなかった。
ただ、純粋にケイを受け入れようとしていた。
でも、親たちは違った。
次に来たレオの母親は、さらに露骨だった。
「ちょっと、イクノ・メンさん…」
ケイを見て、明らかに顔をしかめる。
「あの子、獣人でしょう?なぜここに…?」
声には、強い拒絶感があった。
「俺が預かっている子です」
「でも、獣人ですよね?大丈夫なんですか?うちの子に何かあったら…」
母親の声が震えている。
恐怖と嫌悪が混ざった、複雑な感情だ。
「大丈夫です。あの子…ケイは何も悪いことはしません」
俺が言うと、母親は渋々頷いた。
「…イクノ・メンさんを信じますけど、何かあったら責任取ってくださいね」
そう言い残して、母親は急いで去っていった。
まるで、ケイから逃げるように。
一人、また一人と、子供たちが集まってくる。
子供たちは皆、ケイを受け入れていた。
でも、親たちの反応は様々だった。
信じてくれる人。
不安そうな人。
明らかに嫌悪感を示す人。
そして――
「獣人なんて、預かるんですか?」
あからさまに批判する人。
俺はその度に説明し、頭を下げた。
でも、心の中ではショックを受けていた。
憎悪や拒絶。
それが、こんなにも激しいものだとは。
◇
午後。
子供たちが昼寝をしている間、玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると、そこには近所のおばさんが立っていた。
「イクノ・メンさん…」
おばさんが心配そうな顔をしている。
「どうしました?」
「あの…街で、噂が広がっているんです」
おばさんが小さく言う。
「噂?」
「イクノ・メンさんが、獣人の子供を預かっているって…」
おばさんが続ける。
「それで、街の人たちが…怒っているんです」
「…そうですか」
俺は予想していた。
「私たち近所の人間は、イクノ・メンさんを信じています」
おばさんが真剣な顔で言う。
「でも、街の人たちは違います。獣人に対する偏見が、とても強いんです」
おばさんが俺の手を握る。
「どうか、気をつけてください」
「ありがとうございます」
俺が微笑むと、おばさんは心配そうに去っていった。
◇
その日の夕方。
子供たちのお迎えが終わった後、俺はリビングで考え込んでいた。
親たちの反応。
街の噂。
近所のおばさんの警告。
全てが、俺に危機感を抱かせていた。
「イクメン、大丈夫?」
リュクが心配そうに聞く。
「…ああ」
俺は頷いた。
でも、心の中では、現実の重さを感じていた。
50年前の疫病。
「獣人が病気を運んだ」というデマが広がり、獣人は隔離された。
後に無関係だと判明したが、偏見は消えなかった。
隔離された獣人は貧困に陥り、衛生状態が悪化した。
それを見た人々は、「やはり獣人は不潔だ」と偏見を強化した。
知識としては、知っている。
でも、実際にこの目で見た差別の激しさは、知識をはるかに超えていた。
「…大変なことになるかもな」
リュクが小さく呟く。
「ああ」
俺も頷いた。
「でも、俺は諦めない」
俺がきっぱりと答えると、リュクは頷いた。
「俺も手伝うよ」
「ありがとう、リュク」
俺はリュクの頭を撫でた。
◇
翌日。
朝から、育成院の前に人が集まり始めた。
街の人々だった。
「獣人の子供がいるんだって?」
「とんでもない!」
「病気がうつったらどうするんだ!」
怒号が飛び交う。
俺は玄関の前に立ち、群衆を見つめた。
実際に目の前で、群衆が憎悪を向けてくる。
その迫力、その恐怖。
それは、想像をはるかに超えていた。
「皆さん、落ち着いてください」
俺が言うと、群衆は一斉に俺を見た。
「落ち着いてなんていられるか!」
「獣人なんて、この街にいらない!」
「追い出せ!」
声は次第に大きくなっていく。
近隣住民のおばさんが前に出た。
「やめてください!イクノ・メンさんは悪くない!」
「そうだ!この人を信じてください!」
他の近隣住民も声を上げる。
でも、群衆の声はそれを上回った。
「黙れ!」
「お前らも獣人の味方か!」
「裏切り者!」
近隣住民たちが怯む。
俺はその光景を見て、胸が痛んだ。
近隣住民は、俺を信じてくれている。
でも彼らだけでは、この群衆を止められない。
その時、群衆の中から、一人の男が前に出てきた。
商人風の男だった。
「イクノ・メンとやら。あんたがこの育成院の主か」
男が高圧的に言う。
「ああ、そうだ」
「獣人の子供を預かってるってのは本当か」
「本当だ」
「ふざけるな!」
男が怒鳴る。
「獣人なんて、病気の塊だ!この街に獣人を連れてくるなんて、とんでもない!」
「それは偏見だ。獣人が病気を運ぶというのは、50年前のデマだ」
俺がきっぱりと答えると、男は鼻で笑った。
「デマ?そんなもん知るか!俺たちは、昔から言い伝えられてきたことを信じてるんだ!」
男が群衆を振り返る。
「みんな!こいつは、俺たちの子供を危険にさらしてるんだぞ!」
群衆が一斉に声を上げる。
「そうだ!」
「追い出せ!」
「獣人を連れて、どこか行け!」
怒号が飛び交う。
俺は、冷静に考えた。
このままでは、収拾がつかない。
そして、預かりの子供たちが危険にさらされる。
俺は瞬時に決断した。
「わかった」
静かに言うと、群衆が一瞬静まった。
「しばらく、育成院を閉めます」
「…何?」
商人が驚く。
「預かりの子供たちの安全が、第一だ。このままでは、子供たちが危険にさらされる」
俺がきっぱりと言う。
「だから、しばらく育成院を閉めて、状況を整理する」
群衆がざわめいた。
「当然だ!」
「獣人なんて、追い出せ!」
満足そうな声が聞こえる。
俺は、それを聞きながら、育成院の中へ戻った。
その日の午後。
俺は預かりの子供たちを集めた。
「みんな、大事な話がある」
俺が言うと、子供たちは真剣な顔で聞いていた。
「しばらく、育成院をお休みする」
「え…?」
マルコが驚く。
「どうして?」
ソフィアが不安そうに聞く。
「色々あってね。でも心配しなくていい。また必ず、再開する」
俺が微笑むと、子供たちは泣きそうな顔をしていた。
「せんせい…」
レオが小さく呟く。
「また、会えるよね?」
オリバーが聞く。
「ああ、もちろんだ」
俺が頷くと、子供たちは少し安心した様子だった。
その日の夕方。
お迎えに来た親たちに、俺は事情を説明した。
「しばらく、育成院を閉めます」
親たちは驚いたが、事情を聞いて理解してくれた。
「大変でしたね…」
「無理しないでください」
「また再開したら、お願いします」
温かい言葉をかけてくれる人もいた。
でも、中には冷たい目で見る人もいた。
「獣人なんて預かるから…」
小さく呟く声が聞こえた。
俺は、それを聞かなかったふりをした。




