20.王宮からの使者
ペルカとの対決から数週間が経った。
俺の評判は、王都中に広がっていた。いや、広がりすぎていた。
「イクメン先生、見て見て!」
「おお、上手になったな」
子供たちの声が育成院に響く。朝から夕方まで、途切れることはない。
「先生、お腹すいた!」
「もうすぐお昼だからな、待っててくれ」
毎日、十人以上の子供を預かる日々。普通なら倒れてもおかしくない。
しかし、体力255のおかげで、まったく疲れない。むしろ、この賑やかさが心地いい。
「ぱぱ、あそぼ!」
アリアが俺の服を引っ張る。金色の髪が陽の光を受けてきらきらと輝いている。
「ああ、今行くからな」
「イクメン、これ見て」
リュクが庭で剣の素振りを見せてくれる。以前とは見違えるほど力強い動きだ。
「おお、いいフォームだ」
忙しい。でも、充実している。子供たちの笑顔が何よりの報酬だ。
そんなある日の午前中――。
「イクメンさん!」
育成院の前で、近所の奥さんが叫んでいた。いつもの穏やかな声ではない。何か、ただごとではない気配だ。
「どうしました?」
俺は慌てて外に出た。目の前で、固まる。
「な…なんだこれ」
立派な馬車が停まっていた。黒塗りの豪華な車体は金の装飾が太陽に反射してまぶしい。御者台には制服の馬車夫が直立不動で立っている。
そして、車体に描かれた王家の紋章が目に入った。
獅子と剣が交差した紋章。多分、王宮の馬車だ。
「なんで、こんなところに……」
近所の人たちが遠巻きに見ている。囁き声が聞こえる。すると馬車のドアがゆっくり開いた。静寂。誰もが息を呑む。
コツコツコツ…
降りてきたのは、金髪の美しい女性だった。上品なドレス、宝石の髪飾り。整った顔立ちからは高貴さが伝わる。
だがその目には深い疲労が刻まれていた。何日も眠れていないような色。奥には、必死さが宿っている。
「イクノ・メン様でいらっしゃいますか?」
女性が俺に近づいてくる。足音すら気品に満ちている。
「ああ、そうだが……」
「初めまして。私はリリアナ・フォン・エーデルと申します」
リリアナは丁寧に一礼した。背筋はピンと伸び、所作は完璧だ。
「王宮侍女長を務めております」
王宮の侍女長。王宮の女性職員を束ねる重要な地位である。そんな人物が、なぜ俺のところへ。
「はい。先日お送りした手紙の件で、参りました」
ああ、あの手紙か。確か第二王子の育児についての相談だった。まさか侍女長自らが来るとは思わなかった。近所の視線が痛い。
「お話があります。中に入ってもよろしいでしょうか?」
リリアナの声は丁寧だが、どこか切羽詰まっている。
「…どうぞ」
育成院に案内する。狭いリビング、ボロボロの家具。子供たちが遊んだ跡がそこかしこに残っている。リリアナは一瞬だけ驚いた顔を見せたが、何も言わず椅子に腰を下ろした。背筋は相変わらず伸びている。
「他の子供たちは?」
「今は、隣の部屋で遊んでます」
アリアとリュクの笑い声が、壁越しに聞こえる。
「そうですか」
リリアナは少し表情を和らげたが、ほどなく真剣な顔に戻る。
「それで、第二王子の件ですが……」
リリアナが深く息を吐き、話し始めた。
「第二王子アルフレッド様は、現在生後6ヶ月です」
「6ヶ月……」
まだ本当に小さい。寝返りを始めたばかりで、離乳食もこれからの時期だ。
「しかし、お生まれになった時から、お体が弱くて……」
リリアナの声が震える。
「よく熱を出され、よく泣かれます。推定魔力値は10。通常の赤ちゃんの半分以下しかありません。王宮の医者も何人も診ましたが、誰も原因がわからず……」
リリアナが俯き、金色の髪が頬を隠す。
「このままでは、アル様は……命を落とすかもしれません」
言葉が詰まる。隣の部屋からアリアの笑い声が聞こえるが、ここには重い空気が流れている。
俺は黙って聞いていた。リリアナの表情に、疲労と絶望、そして必死さが刻まれている。
「それで、俺に?」
「はい」
リリアナの目は赤い。泣いていたのだろう。
「私は、アル様が生まれた時からずっとお世話をしてきました…親代わりです」
なるほど、どうやら訳ありの様子だ。
「陛下は国政で毎日お忙しく、王妃様も出産後に体調を崩されていて会うことがほとんどできない。だから私が傍にいて世話をしてきましたが、私では足りなかったんです」
リリアナは拳を握りしめ、声を震わせる。自責の念がにじんでいた。
「他の育児師には、相談されなかったんですか?」
俺が尋ねると、リリアナは苦しそうに頷いた。
「はい。何人もの育児師に来ていただきました。王都で評判の育児師、五人に。しかし、誰もアル様の状態を改善できませんでした」
「評判…ってことは、ペルカにも?」
「はい、だいぶ前ですが。…ペルカ先生は2週間ほどお越しくださいました。毎日、熱心に診てくださって。ですが最後には『私にもわからない』と……」
ペルカでも解決できなかったのか…。
前回問題を起こしたが、それでも王都トップクラスの育児師で、10年のキャリアを持つベテランだ。そのペルカが匙を投げていたとなると――かなり深刻かもしれない。
「他の育児師の方々も『こんな弱い子は初めてだ』『魔力が低すぎる』『王家の血筋なのに、なぜこんなに』と口々に言い、そして皆、諦めて帰られました」
俺の胸が痛む。諦めるな。育児師なら最後まで——。
…しかし現実は厳しい。誰もが俺みたいなスキルや現代の育児知識を持っているわけではない。彼らは自分たちの知識と経験で精一杯やったのだろう。
「諦めかけてた時に、イクノ・メン様の評判を聞きました」
リリアナの瞳に、わずかな希望の光が戻る。
「2歳のアリアちゃんを天才に育て、平凡だったリュクくんを成長させ、生身で紅蓮弾を受け止めたのですよね?そんなあなたなら、もしかしたら」
リリアナは深く頭を下げた。床に触れそうなほどの深い一礼だ。
「お願いします、イクノ・メン様。アル様をお救いください」
その声が切実に胸を突く。
俺は少し考える。生後六ヶ月の赤ちゃん、病弱、魔力低下。王都トップクラスの育児師でも救えなかった。一朝一夕に解決できるものではない。
しかし、俺には育児眼がある。現代の育児知識もある。前世で三人の子を育てた経験がある。赤ちゃんの世話なら誰にも負けない自信がある。
「わかりました。1度見せてください」
「本当ですか!」
リリアナの顔に希望の涙が光る。
「ありがとうございます……! 」
「ですが、必ず治せるとは約束はできません。俺は医者ではないのでやれることは限られてます。でもできる限りのことはします。途中で投げ出したりはしません」
リリアナは深く頭を下げた。
「お願いします」
「では、明日お伺いします」
「本当ですか!」
リリアナがぱっと顔を明るくする。
「アリアちゃんとリュクくんも、ご一緒になられますか?」
「…子供たちは連れて行きません」
「え?」
リリアナはきょとんとした表情を見せる。
「生後六ヶ月の赤ちゃんは免疫が弱いです。必要以上の人数が接触すると感染リスクが高まります。最初は俺だけで行ったほうがいいでしょう」
リリアナははっとした表情で。
「そんなこと……考えもしませんでした」と呟く。
すぐに深く頭を下げると。
「わかりました。お待ちしております。明日の朝、馬車をお送りします」
「助かります」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」
◇
翌朝。俺はアリアとリュクに説明した。
「今日、王宮に行って赤ちゃんと会うんだが……」
「うん!」
「おう!」
二人は目を輝かせる。王宮という響きだけで子供たちはワクワクするものだ。
「すまない。お前たちは留守番してくれないか」
「え?」
アリアがきょとんとする。
「どうして?」
リュクが聞いてくる。
「赤ちゃんはまだ体が弱いんだ。たくさんの人が会うと、病気になりやすい。だから最初は俺だけで行く」
リュクは納得して頷いた。
「わかった。イクメン、頑張ってね」
「ぱぱ、がんばって!」
アリアも笑顔で言う。
「ありがとう。近所のおばさんの家で、いい子に待っててくれ」
俺は2人の頭を優しく撫でる。
「はーい!ぱぱ、きをつけてね」
「イクメン、俺がアリア守ってるから安心してよ」
◇
近所のおばさんの家に、2人を送り届ける。
「イクメンさん、気をつけて行ってくるのよ!」
おばさんに見送られながら、俺は来た道を戻る。
家に着いて、1人でお茶を飲みながら待っていると。
ガラガラガラ…ッ
外で馬車が到着した音が聞こえた。
服装を整えて家を出る。
「イクノ・メン様!」
リリアナが馬車から降りてくる。
「おはようございます。準備はよろしいですか?」
「大丈夫です」
俺は馬車に乗り込んだ。中は予想以上に豪華で、柔らかいクッション、高級な内装、窓にはカーテンまである。
「では、参りましょう」
リリアナが御者に声をかける。
馬車はゆっくりと動き出した。
王宮までの道のりは意外と長い。王都の中心部を抜け、丘を登っていく。途中、何度も衛兵の検問を受けたが、王家の紋章があるためすぐに通してもらえる。
「緊張されていますか?」
リリアナが尋ねる。
「少しは。王宮に行くのは初めてですから」
「でも、イクノ・メン様なら大丈夫です」
リリアナが微笑む。
「アル様を救えるのは、あなただけですから」
その言葉には深い信頼がこもっていた。
◇
馬車が王宮に到着する。リリアナがドアを開け、俺は下車する。目の前にそびえる巨大な城に息を呑む。白い壁、金の装飾、尖った塔。想像以上に圧倒的だった。
「こちらです」
リリアナに導かれ、石畳を進む。空気がピンと張り詰める。ここは育児師が来る場所ではない、とは思うが、行くしかない。
「すごいな…」
廊下は広く天井が高い。壁には高価な絵画や彫刻が飾られ、使用人たちが忙しく行き来している。俺を見て不思議そうな顔をする者もいる。
「こちらです」
リリアナがある部屋の前で止まる。
音を立てないように、ゆっくり開けた。
部屋は広く、豪華なベッドと柔らかい絨毯。窓からは王都が見渡せる。ベッドの上には小さな赤ちゃんが寝ていた。
「アル様……」
リリアナが優しく呼びかける。
赤ちゃんが目を開け、小さな声で。
「ふえ……」と泣く。とても弱々しい。
俺は近づき、息を呑む。生後六ヶ月にしては小さすぎる。痩せた頬、青白い肌、か細い呼吸。胸が締め付けられる。
「少し診させてください」
「はい」
俺は【育児眼】を発動した。
⸻
【アルフレッド・フォン・リヒテンシュタイン】
年齢:六ヶ月
状態:虚弱(栄養不足・魔力循環不全・愛情不足)
才能
•魔力:C(本来はB、栄養不足で低下中)
•知力:A
•指揮能力:S
問題点
•母乳が足りていない
•ミルクの温度・量が不適切
•魔力循環が悪い(マッサージ不足)
•ストレスが溜まっている
•愛情不足(物理的な触れ合いが少ない)
必要な処置
•適切な授乳方法の指導
•魔力循環のマッサージ
•愛情のこもった世話
•規則正しい生活リズム
成長予測
適切な育児をすれば、健康な王子に成長する。
本来の才能も開花する可能性大。
⸻
…なるほど。典型的な愛情不足と育児知識の欠如だ。前世で何度も見た光景に似ている。決して珍しい症状ではないが、この世界では誰も気づかなかったのだろう。
「リリアナさん。よく店で売ってる、育児手本書は読みましたか?」
リリアナは俯く。
「はい…何冊も。しかしどの本にも同じことしか書いていないのです」
彼女は1つずつ、まるで呪文のように繰り返す。
「『授乳は三時間おき』『泣いたら抱っこ』『清潔に保つ』――それだけで、どう授乳すればいいのか、どう抱けばいいのか、なぜ泣き止まないのか、何も書いてないのです!」
リリアナの声は震え、涙がこぼれそうになる。彼女がどれだけ必死だったかが伝わってくる。
「大丈夫です」
俺はリリアナの肩に手を置いた。
「本に書いてないことも、全部教えます」
リリアナが顔を上げ、希望の光が宿る。
「本当に……?」
「約束します」
俺はアルフレッドを優しく抱き上げた。
「ふえ……?」
弱々しくこちらを見上げるアルフレッド。
俺は父の温もり(コンフォート・オーラ)を発動する。柔らかな光が赤ちゃんを包む。温かく、安心できる光だ。
アルフレッドの表情が変わる。緊張が解け、体がリラックスする。こわばっていた手足がゆっくりと力を抜く。
「あ…あう…」
小さな笑い声が漏れた。
リリアナが息を呑む。
「アル様が……笑った!」
涙が頬を伝う。初めて見る笑顔に、声を上げて喜ぶ。
「まだ、始まったばかりです」
俺はリリアナを見て言う。
「これから、しっかり治していきましょう」
「はい!」
「まず、授乳についてですが」
俺が話し始めると、リリアナは真剣に頷きメモを取る構えを見せる。
「ミルクは使っていますか?」
「はい。王妃様は母乳が出ませんので…」
「温度は確認していますか?」
「温度……?」
俺がこの世界にきて見た育児手本書には、「温めたミルク」としか書かれていなかったのを覚えている。だがそれだけでは不十分だ。熱すぎても冷たすぎても赤ちゃんは飲まない。人肌、だいたい40度が理想だ。
「手首の内側に少し垂らして確かめてください」
俺が示すと、リリアナはそっと試す。指先に伝わるぬくもりに思わず息をのむ。
「どの本にも、そんなこと書かれていませんでした」
リリアナが涙ぐむ。現場の細かい知識が救いに直結するのだ。
授乳の姿勢、哺乳瓶の角度、空気の抜き方、ゆっくり話しかけること——俺は実演し、リリアナにやり方を教える。赤ちゃんはゴクゴクと飲み始め、リリアナの目に希望の光が戻る。
授乳後はゲップを促す。赤ちゃんを肩に乗せ背中を優しくトントン——小さなゲップが出て、リリアナは嬉しそうに笑う。その表情は、本当に子供のように輝いていた。
続けてマッサージを教える。魔力の循環を促すための全身への優しい刺激。足からお腹、胸、腕へと。力を入れすぎず、赤ちゃんの反応を見ながら行うことが大事だ。
赤ちゃんは徐々にリラックスし、表情が柔らかくなる。リリアナは感動し、涙を流す。
「赤ちゃんは、触れられることで安心するんです。それが、愛情です」
俺はそう伝える。
すべてが終わった後、赤ちゃんはすやすやと眠っていた。穏やかな寝顔を見て、リリアナは優しく微笑む。
「こんなアル様、初めて見ました……」
「良かったです」
俺は答える。
「アル様は……治りますか?」
「治せます」
俺ははっきりと言った。育児眼で見た限り、この子の問題は深刻ではない。栄養不足、愛情不足、知識不足。それだけだ。
本来の才能は確かにある。
リリアナは床に深く頭を下げると。
何度も「ありがとうございます」と繰り返す。
「ただし時間はかかります。週に3回、通わせてください」
「3回もいいんですか?」
「はい、日程はお任せします。リリアナさんにも育児を教えていきます。俺がいない時でもアル様を支えられるように」
リリアナは涙を流しながら頷く。
「私、頑張ります!」
「ええ、一緒に頑張りましょう」
「…送り迎えの馬車は毎回お送りします」
「いいんですか?」
「はい、陛下も王妃様もお望みですから。次は2日後にお願いします」
「わかりました。では、2日後に」
◇
その日の夕方。
近所のおばさんの家に行くと、アリアが飛びついてきた。
「ぱぱ、おかえり!」
「ああただいま」
「イクメン、どうだった?」
「うまくいったぞ」
「よかった!」
2人が嬉しそうに笑う。
「イクメンさん、2人ともいい子にしてたわよ!また困ったらいつでも頼ってちょうだいね」
「ありがとうございます。また家あける時お願いします」
家に帰ると、俺は2人を抱きしめる。
アルフレッドは必ず救ってみせる。あの子が、この子たちのように笑顔で育つように。俺ができることをすべてやろう。
 




