9.戸田嶋と別れたあと、柏崎仁は
そのあと、柏崎仁は……。
ふたりと分かれてからずっとニヤけっぱなしだった。そのニヤけ顔のまま、仁は家に向かって自転車を漕いでいた。
心は再会の喜びでいっぱいだ。
でも、それをどう表現していいかわからない。
何ならこのまま自転車を放り出して、信号で停車中の車のボンネットで前方倒立回転跳びを決めたい。でなきゃ抱え込み宙返りで目の前のバイクを飛び越えて交差点の真んなかでびしっと着地を決めたっていい。
そのくらいに気持ちは高揚している。
だって!
ずっと会いたかったんだもの、あの人に。
戸田嶋早妃さんっていうんだ。
戸田嶋早妃。
戸田嶋早妃。
ああ、なんていい名前なんだ。なんて甘い響きだ!
山手線での出会い依頼、気になってしょうがなかった。だから、あとになって意味もなく原宿の駅の辺りをうろついたし、書類を届けた現場の周辺だってずいぶんと歩いた。探した。
でもダメだった。
あの人はいなかった。
もう会えないんだ。
そう思ったら何だか切なくなった。
で、もうダメかって諦めかけてたらいきなり現れるんだもの。しかも『出待ちしてるらしいぞ』って貴大から聞いたときはもう、嬉しくって舞い上がった。
こんなことってあるんだ!
おっとぉ! 赤信号。
気を付けなきゃ。
今日は嬉しさが全部ペダルに乗っちゃうから気を付けなきゃ。でもやっぱり、足が痺れるまで漕ぎ続けちゃう。で、「うわぉ」と叫んで足を投げ出したら、斜め後ろからフォオオオオン! とけたたましいクラクションを鳴らされた。
その直後、満艦飾のデコトラが猛スピードで追い抜いていった。吸い込まれるような風圧にひやっとしてハンドルを握り直し、直進を保つ。
しっかりしろ、と自分に言い聞かせながらも、目は、いやがうえにも前カゴに放り込んだリュックに向かう。そこには、さっきあの人とラインを交換したスマホが入っている。
ちょっと年上だろうな、とは思ってたけどがっつり大人だった。しかも超キレイ!
やばっ。
どうしようおい、デートに誘わちったぜ。なあこれ、デートってことでいいんだよな。食事って、デートの誘いってことだよな、夢じゃないよな。
仁はそこにいない、親友のエアー貴大と喜びを分かち合った。
あの日のことは前後も含めて克明に覚えている。その気になればいつだって、映画を再生するみたいに思い出せる。
あの日は夜番で、明け方までのシフトに入っていた。
グルーヴハウス新大久保店の周辺は、終電を過ぎるとがらっと雰囲気が変わる。やばいんだ。チャリなんてすぐ失くなる。
特に見た目ママチャリで十八段変速なんて改造車はいい狙い目だ。だから夜番のときだけは有料の駐輪場に停めている。
あの日もそうだった。
仕事を終えて、いつものように、駐輪場のある新宿まで山手線に乗った。
したら、まん前のシートにあの人が座ってた。
眠らないように頑張ってる顔がかわいかった。かわいいんだけど、学校のガキ共とはレベチだ。
最初は、どこかに行く途中かな? て思った。少なくとも、遊んで朝帰りって感じじゃなさそうだたんで、それは何となく。
ほとんど閉じ加減の目は、たまに開くとすごい真剣だし、ほんと何してる人だろうって考えてたら、じぃ~っと見ちゃった。
だって化粧っけのない顔がすごく生々しくって、なんていうかすっごく生々しく女で、顔ちっさくて、ああ、この人と朝までベッドで過ごしたらこの顔と至近距離で……、なんて変なこと考えてたら胸がどきどきしてきた。
目が離せなくなった。
ずっと見ていたいって……、そうしようって決めた。
自転車なんてあとで取りにくればいいんだし、それより、この人がどこで降りるか知りたい。ついでに、こっそり尾行して行先もわかったらラッキーだ。
それってなんか、ヤバい人みたいだけど……。
したら急にこっち見るんだもの。
あんなに驚いたことなんてない。
目が合った瞬間に動けなくなった。変な妄想してたから余計だ。心を見透かされたような気がして超恥ずかしかったし、尾行のことまでバレたような気がした。そんなわけないのに。
思わず立ち上がってた。
だってヤバい妄想をなかったことにするには、新宿で降りるしかないと思ったから。
正直、焦ってたんだと思う。
だからミスったんだよ。
ハンカチ落とすなんて。
妹からもらったバースデープレゼントなのに。
しかも。
そのそそっかしいミスが、あの人を大変な状況に追い込んじゃった。
僕のせいであの人が窮地に陥る。そんなの耐えられない。こうなったらもう自分の全能力を使って助けなきゃ。それしか考えられなくなった。
だから命懸けだった……、て今考えたら恐ろしい。だって後ろにはあの人が乗ってたんだもの。
でもよかったよぉ事故んなくて。
体操やっててよかった。
あんな運転、鍛えた体幹と運動神経がなかったらたぶんムリ、死んでる。
あの人が、何とか窮地を脱したのを見届けたら、あとはもう、どうしていいかわからなくなった。
あの人はなんか、仕事に必死だったし、それに僕のことなんて見えてないみたいだったし、こっちも全能力使い果たしてヘロヘロだったし……。
で。
僕は十七年生きてきたなかで最大のミスを犯したんだ。
運命の出会いだったのに連絡先も名前も聞かずに黙って消えるなんて、大マヌケだ。大マヌケのバカ。
でも、しょうがない。
こんなこともあるか。
でもダメだった……、諦められなかった。
気になってしょうがなくなった。
会いたい! もう一度会いたい。
時間が経つほどその気持ちが強くなって、頭のなかがあの人のことで一杯になってようやく、あぁ、この気持ちは普通じゃないやって……。
はぁ~、でもダメなんだ、一生会えないんだ。
そう思ったら余計に会いたくなる。で、原宿を歩き回ったけど見つけられなかったし探す方法なんて思いつかないし、しかも辛いことに記憶は薄れるどころかどんどん鮮明になっていった。
解れてうなじに張り付いた髪。
ぷっくりと膨らんだ柔らかそうな唇。そこから溢れ出す澄んだ声と、くるくる表情が変わる目。何とかユニバーシティってロゴの入った白いTシャツ。僕の肩を掴んだ指の力加減。
それに、原宿で背負ったときの背中の感触なんてもう……。
気が付くとまた、自転車を漕ぐ足に力を込めていた。
でも暴走したい気持ちは何とか押さえ込む。
赤信号でスピードを緩めたトラックを、今度はちゃんと距離を取って追い抜いた。
この前みたいに信号無視はできないから、赤信号だったら歩道に逃げたり横断歩道を走ったりして、気付いたら知らない路地に入ってた。
改めて幸運に感謝した。
会えたんだ。本当に再会できた。
ウソみたいだ。
辺りに誰もいないのを確認して、咆哮を上げた。
うおぉぉぉぉ!
☆
家に着き、玄関の三和土に自転車を入れて、直接ダイニングに入った。
シンクの前に立ち蛇口を開けた。
水流に手を添えて水を飲んでいたら、妹の真鈴が話しかけてきた。
「お兄ちゃん、なんかいいことあったぁ?」
パジャマではなく部屋着だがシャワーはもう使ったらしい。ロングボブの髪はタオル地のキャップにきれいに押し込まれている。
「別に」
無理に不機嫌な顔を作ってそう答えた。
中三とはいえ女の勘は侮れない。それにこの目。なんだか心の底まで見透かされそうだ。
「今日カレーだなって、腹へってるし」
真鈴はまだ、何か疑っている。
……やばい。
「風呂入ってくる」
足早にダイニングを出て、着替えを取りに二階の勉強部屋に上がった。
手早く下着とパジャマを取って階段に差し掛かったところで、下から、
「お母さん、お兄ちゃんなんか隠してるよ」
という声が聞こえてきた。
「いいじゃない別にご機嫌なんだから」
「だって水曜日カレーなんてずっと決まってんじゃん」
「あなた塾の課題あるんでしょ、早くやって寝てちょうだい。朝起こすこっちの身にもなってよね」
「はぁい」
まずい。今出て行ったら階段ですれ違う。
いったん部屋に戻り、真鈴の部屋のドアがガチャンと音をたてて閉まったのを確認してから部屋を出た。
が、騙された。真鈴のやつ、待ち伏せしてやがった。
今度はガン見してくる。
「やっぱし、顔ニヤけてる。久米先輩とキスでもした?」
うるさい! と返すのも癪なので猫耳の着いたタオルキャップをむしり取って廊下の奥に放り投げてやった。
「もお、何すんのよぉ!」
ばたばたと大きな音を立てて階段を降り、バスルームに入ると、キッチンから、
「もう、喧嘩しないの、子供じゃなんだから」
という母の声が聞こえてきた。
いかん、やり過ぎた。一回リセットしないと、と仁は反省した。
心を落ち着けるつもりで、ゆっくりとバスルームのドアを閉めた。