8.お互い、気を付けよう
九時を回ったころ、例のスタッフ君から『予定通り、今から交替です』という電話が玲夢のところに入ったので、会計を済ませて店の裏口に向かった。
整然と片づいた裏口には、ビニールチューブを張ったリクライニングチェアと足付きの灰皿が置いてあった。
誰もいない。
換気扇だけが、ぶぅんと唸りながら、湿った夜気に甘ったるいバターの匂いを吐き出している。
……はっきりいって暑苦しい。
「びっくりするかな」
あれからモクテルに切り替えて酔いは醒ましたし、化粧直しはもう三回やった。だからもう準備は整っているはずなのに、
「大丈夫かなぁ」
心の準備が追いつかない。
「落ち着きなってヘタ子」
「交替って、ひとりなの?」
「らしいよ」
「ねえ言ってないんだよね、うちらここにいるって」
「知らないよ、そんなの」
玲夢には『一緒にいて』、と戸田嶋から頼み込んだ。玲夢にしても、過呼吸癖のある戸田嶋をひとりで残すつもりはなかったらしく、二つ返事で了承してくれた。
でも。
何かしゃべっていないと立ったまま貧乏揺すりが始めてしまいそうだ。
そのとき、通用口のドアが開いた。
心臓が一旦喉元までせり上がり、事実を確認すると同時に元の位置まで下がっていった。
ふぅ~、違った。
彼じゃなかった。
顔は暗くてよく見えないけどあれは高校の制服だ。何してんだろう、こんな時間に……。
ネクタイの結び目を第二ボタンのところまで緩めたその子は、隣の建物との隙間に停めてあった白い自転車を片手でひょいっと持ち上げてコンクリートの上に停めた。そして、なぜか辺りをきょろきょろ……。
え!
ちょっ、
まじでぇ?
「高、校生」
思わず声に出した戸田嶋に、彼が気付いた。
「あ」
しばしの沈黙。そして、
「ごめんなさい出待ちなんてして。ていうか、君、高校生だったんだ」
わかった以上、自然と口調もお姉さん調になる。
「あ、はい」
「何、年生」
「三年です」
「え、幾つ?」
「十七です」
「ええ、はあ、ちょっとびっくりしちゃった。さっき学生って言ってたから大学生かと思っちゃって」
「ああ」
高校生とは。
何ということだ。
だがお礼をする目的が消えたわけではないし引き返す理由もない。
「あの、この間のお礼、したいの。今日はもう遅いから別の日に」
こんな時間に制服の高校生を連れ回しなんてしたら職質間違いなしだ。
戸田嶋は勇気を振り絞った。
「あの、ライン、交換してもらっても、いい? それとお名前。あの、あたしは戸田嶋早妃、といいます」
と自分の胸を押さえたのは心を静めるためでもある。
「へた、しま。ああ、それで」
そう、それでヘタ子だ。玲夢のやつめ。
「僕、柏崎仁です」
「じん、君」
「あ、はい。人偏に、数字の二で仁です。……あの、別に僕、お礼なんて」
「いいの、大人に恥かかせないで」と笑顔を見せる。
狡いのはわかってる。でも、せっかくの『年の差上下関係』を利用しない手はない。それに高校生だってわかったら心に余裕が出てきた。ほんと現金っていうか、あたしってこんな女だっけ、と呆れながら戸田嶋は、
「でも、無理にじゃなくていいのよ、したら電話番号とか……。あ、スマホ持って」
「持ってます」
そう言うと、彼は通学用リュックのポケットからスマホを取り出した。
「いいですけど、僕、あんま見れないですよ」
「うん、わかった。即レスとかぜんぜん気にしなくていいから。あ、日曜日はお休み?」
「休みです。でも金曜と土曜はバイト、土曜は夜番なんで日曜は昼過ぎまで寝てますけど」
などと会話しているあいだにラインアカウントの交換を済ませた。
「じゃあ今度、お昼ごちそうする。あ、起き抜けだと朝ご飯ってことになるのかな」
彼はしばらく何も言わず、そして小さく「はい」と言った。
この間の、ぐいぐい引っ張っていく強引さがない。
別人みたい、とはいわないが、制服が彼の行動を規定しているのかもしれない。そういえば、デザイナーのアントン北島氏も言っていた。着る服で、人は生き方を変えることができる、と。
「あの」
「なあに?」
「あの、僕がここで働いてるってことは内緒にしといてください」
……なるほど。学校に知れても、もしかすると店側にとってもレッドカード案件かもしれない。
「わかった。どんな目に遭ったって口は割らないから」
何言ってるんだ、あたしは。
「じゃあ」
「お疲れさま」
と声をかけると、彼は向こうを向いたままひょいっと左手を挙げ、自転車はゆっくりと幹線道路に向かって走り去った。
「ちょっとヘタ子。あんたすごいじゃん、ちゃんとしゃべれてるじゃん」
「だって十七歳なんて、別世界だもん」
「そういう問題?」
「そうよぉ、もしかしたら、同年代がダメなのかなぁ。年が離れるとまあ、わりと平気? たぶん上も、大丈夫だと思う」
「あんたさぁ、うんと年下かうんと年上ならオッケーって自分で言ってて異常だと思わない? それ変態だよ」
嘘言った。本当は今もしゃべってる途中で何度か息継ぎを意識している。でないと海底に引きずり込まれるようで怖かった。でも今日は、隣に玲夢がいる。その安心感で乗り切れたようなものだ。玲夢は生きた精神安定剤なのだ。
「でもちょっとショックだぁ。高校生、かあ。年下かも、とは思ったけど高校生だとは思わなかったな」
「かわいいけど、たしかに、背ぇ高いし普通のかっこしてたらわかんないよね……。それよりさ」
と玲夢が顔を寄せてきた。
「気をつけなさいよ。東京都の条例では、十八歳未満の子とみだらな行為をすると淫行だよ、淫行。条例違反で恥ずかしい前科がつくからね」
淫行?
淫行かぁ、へへへ……。
いかん何を妄想してる!
「なに言ってんの玲夢、お礼に食事ごちそうするだけだよ」
「わっかんないよぉ、だって普通のかっこしてたら大人と区別つかないし、ヘタ子も年下だってわかってたらフリーズしないんでしょ。
仁く~ん♪ おネエさんがいいこと教えてあげるぅ、とかさ、はは」
「ばか言ってんじゃないよ、なんでそういう展開になるのよ」
と狼狽えているのに、なぜかヨダレが垂れそうになる。妄想の世界なら、どこまでだって怖いもの知らずさ、へへ。
「でもさ、お友達の方も、もしかして」
同級生、という可能性があるんじゃないか。玲夢もそのことに気が付いたようだ。そして、
「お互い、気を付けようね」
ふたりとも真顔になっていた。
「うん。前科者んなったらワイズの社長にも迷惑かけるし」
「その前に馘だって」
「うん、そだね。そりゃそうだ。気を付けよう、うん」
その日はそれでお開きとなった。