7.第二形態獲得
目の前にいる黒エプロンに赤いキャップの男性。それは紛う方なく、あの日に出会った、白い自転車の王子様だった。
玲夢は目を丸くして男性スタッフと戸田嶋を見比べているが「え、なに、なに」と言うばかりで、当然のことながら事態は把握できていない。
戸田嶋の体温は急上昇。
今さら手で顔の下半分を隠したところで、たぶん耳は真っ赤だ。
それでも何とか平静を取り繕い、つっかえつっかえ話し始めた。
「あの、こないだはどうも、ありがとうございました。あたし、あの、ちゃんとお礼も言えてなくってほんと、すみません。でも助かりました」
「あぁいえ、僕の方こそ」
彼は戸田嶋の全身を見て、
「すみません、気が付きませんでした。見違えちゃって」という言い方がなんかちょっと、かわいい。
それに気付かなくて当然だ。あの日は普段着のドすっぴんだったんだもの。
「社会人でらしたんですね」
当然、今日はメイクしてるし、服はネイビーのパンツスーツだ。インナーはボートネックの白いカットソーで鎖骨を見せ、フェミニンレベルをアップさせている。
一方の玲夢はワイドデニムのパンツにゆったりした黒のロンTで、都会の野性って感じ。
「はい。でも、わたしもあなたのこと、てっきり学生さんかと」
「あぁ僕はまだ、学生なんですけど」
やっぱり大学生だったか、と納得していたら、ようやく、ことの次第を察した玲夢が割り込んできた。
「ねえヘタ子、もしかしてこちらのイケメン君って」
おいおい、面と向かってイケメン君って。大阪のオバハンちゃうねんぞ、とひと睨みしてから、
「友田商事さんの件でお世話になった方」
とちょっと気取って紹介した。すると、ニヤついた玲夢はこともあろうに彼に向かって、
「ああどうも、うちのヘタ子がお世話んなりまして」
ておい! それじゃ保護者だろ。
「ちょっとぉ」と戸田嶋。
「ヘタ、子?」と彼。
「違うんです。ちょっと玲夢。……あの、ちゃんとお礼がしたいんで、連絡先とか」
訊きかけたところで、彼は、耳に引っかけていたイヤホンを押さえた。そのあと、首元のマイクに向かって小声で何かしゃべり、
「すみません、ちょっと今……、呼ばれちゃったんで」
彼は、一端テーブルから離れかけたが、すぐに振り向いて、
「あの、お飲ものは」
「あ、ごめんなさい、同じので」
彼は、戸田嶋のオーダーを取ると、今度こそ下がっていった。
「ちょっとヘタ子ぉ、かわいいじゃん王子様」
「やめてよ玲夢、あの子の前でヘタ子って言うの」
「何カッコつけてんのよ。それよりさっきの目ぇ見た? あれ、あんたのこと意識してるよ。見違えたって言ってたし」
「でもヘタ子だなんてさぁ、何かと思うよきっと」
「でもあれよね、あんた、ぜったい進化したよね、さっきちゃんとしゃべってたじゃん。前だったらぜったい、口ぱくぱくの過呼吸でばったんだよ」
「やぁめて! それじゃ死にかけの金魚」
と言いながらも『あのまま話し続けていたらヤバかったかも』、と戸田嶋は思っていた。
「やっぱあれだよ、二ケツ自転車で爆走してさ、そのあと密着借り物競走でしょ、あれできっと突き抜けたのね」
しばらく待ったものの次のタイミングは訪れなかった。カウンターの男性と持ち場を交代してしまったのだ。
うん、バーテンダーの所作もなかなかイケてるな……。
見ている分にはいい目の保養なのだが、忙しそうなので声をかけるのはちょっと憚られる。
「……ねえ」
「何よ」
「頼まれてよ」
「何を」
「さっき来たもうひとりのホールの子にさ、彼、何時に上がるか」
玲夢がこっちを向いた。
これは、何を頼まれたのかを考えている顔だ。
そして、
「え~~~! それあたしが聞いてくんの? やだよー、そんなの自分でやんなよ」
「ねえお願いだから玲夢。ここ奢るからさ」
「やだよ。ぜったいヤ」
「一生のお願い、この通り」
「進化したんじゃん、第二形態の威力見せなさいよ」
「あたし苦手なのよ、こういうの」
戸田嶋は揉み手拝みを始めた。まるで蠅だ。
「やめてよ、恥ずかしいから……」
そう言いながらも、そのもうひとりを眺めて何か考えている。そして、
「じゃあさ、明日のランチも、いい?」
「う、ん。わかっっっ、た!」
交渉成立。飲み代とランチ代で済むなら安いものだ。
「ほんっと、めんどくさい女だね。じゃあ、ちょっと待ってな」
戻ってきた玲夢が言うには、
「良かったねヘタ子、王子様、今日は九時上がりだって。着替えに入ったら電話くれるってさ」
「くれるって誰が」
「誰って、あんたが言ったんじゃない、もうひとりのスタッフに聞いてこいって」
「えぇ、教えたの? 電話番号」
「うん、どうしようかと思ったんだけどさ、だって、親友のためじゃなぁい」
と肘で突っついてくるが、違う。改めて見たらいい男だったんだ。つまみ食いする気だな、こいつ。
「海斗君が知ったら泣くよぉ」
「泣かないよ、あいつ自分の身分わかってるもん、仮採用だって」
あきれてものもいえないが、今、そんなことはどうでもいい。
奇跡の再開に『次』はない。今度こそ、逃してなるものか。
今日のところは名前教えてもらってライン交換して、そのあと日を改めて『ちゃんとお礼がしたいので』と食事に誘う。
何にしようか。
やっぱもりもり食べてるとこが見てみたいな。大人のハンバーガーショップとかどうだろう。そうだ! ルイーズダイナーのパウンドチーズバーガー。あのでっかいのにかぶり付く彼を見てみたい。……やば、想像しただけでヨダレ垂れそう。
でもその前にエステ行って女磨いて、服はどうしようか。露出少なめでそれとなくボディーラインが浮き出る大人カジュアルを、よし! いっちょ新調するか。
……あれ?
あたしって、やっぱり進化したんだろうか。これって脱皮、じゃないや、もしかしてこれが第二形態への進化ってことかぁ、と戸田嶋早妃の妄想はフル回転だが、本当のショックはこのあとに訪れるのだった。