4.めんどくさい女
戸田嶋早妃はハンバーガーショップQで意識を失った。といっても、その時間はほんの数秒のことだったのだが、戸田嶋は、心配した玲夢に、無理やり、梅木クリニックに連れてこられた。
梅木クリニックはふたりが勤めるワイズデザイン株式会社が産業医代わりに使っているクリニックである。いわば社員の掛かり付け医で、インフルエンザのワクチン摂取なんかは、ほぼ強制だ。
「めんどくさい女だね」
「悪かったよ、めんどくさくって」
不貞腐れたあとで後悔する。
我ながらかわいくないな、と。
助けてもらっておいてちゃんとお礼も言えないなんて大人として失格だ、と。
そもそも処置用ベッドで点滴打たれながらほざくセリフじゃないし。
しかもだ。
こうやって迷惑かけるの、今回が初めてじゃない。
……。
そうだ。だからだよ、だから素直になれないんじゃない! と戸田嶋は真一文字に口を結んだ。
「もうあたし行くからね。救助義務は果たしたんだし」
「うん」
その返事に、一旦ドアを向きかけた玲夢が固まった。そしてゆっくりと振り返り、
「うんだと、こら。ありがとう、とかいつもごめんね、とか今度ご馳走するね、とか、そういうことばは、ないわけ」
「うん」
「うんじゃないでしょ」
「うん」
玲夢は、はぁ~、と軽いため息を吐いて、再びベッドの脇に戻ってきた。そして腕を組み、
「今日と、あと明日もいいってさ」
「へ?」
「二日間特別休暇で、仕事は明後日からでいいって、小巻主査が」
「そのウソほんと?」
「……めんどっくさい女だねほんと!」
過呼吸、ではなかった。
ドクターによれば『過労』だそうだ。要するに『寝てりゃあ直る』そうで、診察のあとに出された処方箋は『休養と栄養』。それが特別休暇になったのだろう。
考えてみたら、ここ二日、あのヲタクデザイナーに張り付いていたおかげで寝てないし、食事もまともに摂っていなかった。
そこにきて爆走自転車。じゃなくて出会いのカウンターパンチだ。
まるでマンガみたいな出会いだったぁな。
徹夜明けの出会い頭にあれを食ったらノックアウトされたってしょうがないでしょ。それにしても……。
玲夢も同じことを考えていたらしい。
「なんかさ、手掛かりくらいはないわけ?」
「何が」
「何がって、わかってるくせに。白い自転車に跨がった王子様よ。あんたさ、さっきからぼけぇ~っと天井見てるけど、目んなかで星が煌めいてるよ」
言われたてすぐに閉じたのだが、遅かった。
「ばぁか」
そうなのだ。
運命の王子様だと今ごろ気付いたって、どこの誰だかさっぱりわからないんじゃ始まらない。
それなのにあの子ってば、こんなの残してくれちゃって。
戸田嶋の手のひらには、四時間ほど前に別れた彼の、ボディーコロンらしき匂いが、まだしっかりと残っている。
さっきからその手を鼻に押し当ててすぅはぁすぅはぁやっているのだが、そんなことをしたところで……。
「やめなさいってそれ」
過呼吸が心配なんだろうけど、鼻と口を手で覆っているわけだから、何の心配もいらない。
「この匂いが、ふんっふんっ、手掛かり、ふぅ~ん、なんだよ」
玲夢が手をひとつ叩いて笑った。
「匂いってあんた、犬じゃないんだから道ばたクンクンしてその人んとこにたどり着けるわけないでしょ」
玲夢は腕を組んだままニヤニヤしている。
こいつめ、犬ヴァージョンでクンクンしてるあたしを想像してるな?
戸田嶋は片方だけ口角を上げて卑屈笑いを作って見せたのだが、効果はなかった。
少しして、ようやく素に戻った玲夢が戸田嶋に問いかけた。
「それでさ、いくつくらいの子なの」
「んっと、弟、くらいかも」
「へ~初耳、幾つなのあんたの弟って」
「いないよ弟なんて」
「はぁ?」
「いないんだけど、感じがほら、生意気で憎ったらしかったのがいつのまにか頼もしくなってたっていう、ね、ふぅ~ん、はぁ。わかるでしょ、弟キャラよ、キャラ」
「なんか同人誌のコミックにありそうな設定ね。じゃあヘタ子はあれ? 好きって言えないから、年下の彼に告らせようとがんばっちゃうお姉さん、みたいな?」
「違ぁう。こっちから好きって言いたいのに、彼が照れて逃げ回ってるっていう方」
「方って、こういう問題って二択だっけ。ていうかあんたの趣味はどうでもいいのよ!」
「あ」
「何」
「新宿」
「うん」
「新宿で降りた。彼、新宿で降りて競輪場、じゃなかった駐輪場に自転車停めてあった」
「んじゃぁ、クンクンしてる場合じゃないじゃん」
「うん、今から行ってみようかな。どうせ休みだし」
早速ベッドから起き上がろうとしたら「落ち着きなってヘタ子」、と肩をベッドに押さえ込まれた。
「この色ぼけ女が」
色ぼけだとぉ?
「彼が降りたのは早朝なんでしょ、今から行ったっているわけないじゃない。
……夜勤明けなんじゃないの? もしくは朝早い仕事か。あとさ、徹夜で遊んだ帰りっていう線もありだよ、週末だしさ」
戸田嶋は、すっぴんの目をめ一杯開いて考えた。
だが、手は相変わらず鼻と口を覆っているので、端から見るとお化けに出会った瞬間のようだ。
「あれは遊びの帰りじゃないね。お酒は感じなかったし、だってあのスピードよ」
「知らないよ、そんなん」
「すごかったんだから。あの運転って、徹夜明けじゃ無理。夜勤明けでハイんなってたらまあ、ギリあるかもだけど」
「でもわかんないよ、若い子って体力あるからさ。特に男の子は」
「うぅん、でもやっぱり。この匂いは」
「お前は犬か」
これは夜遊びの匂いとは違う。
どこが、と訊かれても根拠はないし、男性恐怖症の恋愛偏差値なんて著しく低い。そのくせ恋はする、というめんどくさすぎる身の上にこの事態。
……神様のいたずらにしたって、趣味が悪すぎる。
「まあ、捜索はヘタ子の好きにすればいいけど、今日は家帰ってゆっくり寝な。あとちゃんとしたご飯も食べて。無理が祟ったんだよ」
玲夢はそう言ってふぅ~っと息を吐いた。
顔がまじめになってる。
きっと仕事のことを思い出したのだ。
なにせ、うちの会社ときたら……。