32.お願い、力を貸して
ツムギとの電話を終えた戸田嶋は、三十分遅刻して出社した。
今のところ待つしか策はないし、アパートにこもっていても答えは出ないし、ひとりでいたら気が狂いそうだ。
オフィスのドアを開けると、待ちかねたように小巻主査が声を掛けてきた。
「戸田嶋。どう、調子は?」
声音からすると、どうやら遅刻を咎める気はなさそうだ。
小巻主査はサングラスのフレームを摘んで額に乗せた。
ここ一週間で少し窪んだように見える目が、粘っこく絡みついてくる。
ああイヤだ。これなら、ねちねちと嫌みを言われる方がまし。
「どうなの」
コンペの準備のことに違いない。
「進んでます」
嘘を言った。
「でもまだ、青木には指示出してないよね」
「ええ、構想の段階なんで」
ごまかせばごまかすだけ後がキツくなる。
わかってる。
でもいい。
キツくなったっていい。そうなれば、もう無理! ごめんなさい、辞めます。そう開き直れる。ていうか今はそれどころじゃないんだよ、と戸惑っていたら、
「ヘタ子、ちょっといい?」
絶妙のタイミングで玲夢が流れを変えてくれた。透かさず小巻主査に外出を申し出る。
「外で作戦会議してきます」
玲夢はリビングの奥を覗き込み「青木君、君も来て」と声をかけた。
青木が「はい」とソファーから立ち上がったのを見て「え、あ、俺も」とあわてる飛島先輩の申し出を、玲夢は「いえ、大丈夫です、今んとこ」と手で制しつつ「青木君、パソコン持ってきて」と付け足した。
マンションを出て、そのままビバーチェに入ろうとした玲夢に、戸田嶋は「別んとこにしない?」と提案した。
あそこがいい。ランチ後にならないと混まないあそこ、純喫茶シャルム。大量の漫画本で書棚が撓みかけている古い店だけど、落ち着けるし、コーヒーは意外においしい。
歩道に面した階段で地下一階に降り、シャルムに入ると、戸田嶋は人目を避けられる奥のテーブルにふたりを案内した。そして、メニューを見ることもなくブレンドコーヒーを三つ頼んだ。
「ヘタ子なに、ここ、あんたの隠れ家?」
「うん、頭をクールダウンするとき専用」
「ああ、そだねー、あたしが一緒だとむしろ沸いちゃうもんねー」
ミルが回る乾いた音がしたと思ったら、じきに甘く芳ばしいコーヒー豆の香りがテーブルにまで漂ってきた。
青木がWiFiの接続情報を見つけて設定を完了させたころ、コーヒーが満たされたサイホンのフラスコ部分と人数分の温かいカップが運ばれてきた。
玲夢が「サイホンのコーヒーなんて初めてだわ」と言いながらコーヒーを注ぎ分けている途中で、青木が話を切り出した。
「戸田嶋さん、アイディアまだ出てないんだったら、叩き台っていうか、そういうの作ったんです。もちろん素人の作なんでめっちゃ貶してくれてオッケーなんすけど」
そう言ってパソコンをこっちに向けた。
「今度の応募要項って、目先の具体策じゃなくって、肝はぶっちゃけ次のムーヴメントを予見するってことですよね。それで」
説明を始めたのを、玲夢は「青木君」と優しい声をかけて止めた。そして、
「君エラいね。先輩を助けるためにこんな準備してたんだ。でもね、今日はちょっと、別のことで手を借りたいの」
「別の、こと?」
「ヘタ子、どうなの。あれから仁君とは連絡ついた?」
戸田嶋はうぅん、と首を振ってから状況説明を始めた。
「連絡はつかないんだけど、少しわかったこともあるの」
「何」
「仁は誰かに連れ去られてる、たぶん」
「何それ、拉致られてるってこと?」
「うん」
「誰に」
「彼の親衛隊ってのがあるのね」
「親衛隊?」
「そう、その親衛隊なんだけど統制がとれてなくて、そのなかの何人かが、仁をさらった可能性が高いの」
「何それ、めっちゃヤバいじゃん。じゃあ手始めはまず親衛隊のボスね。ねえ青木君」
「玲夢ちがうの。脅迫メールの発信者は親衛隊長で間違いないってわかったんだけど、それはもう、本人と話したんだ。名前は半場ツムギっていうの。メアドも電話番号ももうわかった」
「そう……。わかったんだ。じゃあ青木君、君、オフィスに戻っていいよ」
「ちょ、ちょっと、それは。ちょっと待ってくださいよ、なんなんですかこの話。ここまで聞いて戻れませんよ」
玲夢が青木に声をかけた理由は、彼のネットワーク技術で悪意のあるメールの送信者を特定することだったのだろう。でも、それがもう判明しているとわかった以上、青木の協力は不要。玲夢はそう判断したに違いない。
「無理だよ玲夢。中途半端に聞かして戻れっていったって。もう半分は話しちゃったんだし」
でも、とまずは口ごもる玲夢を宥め、
「青木、いい? ここで聞いたこと、これから聞くこと、一切他言無用だからね。今日のことを小巻主査に聞かれたら、グルーヴさんのコンペ対応の打ち合わせってことにして」
「はい」
青木の目を見た。
まあ、たぶん大丈夫だ。
ここで『僕は口は堅いです』なんて変に自信を見せつけるようだと心配だが、青木は余計なことは一切言わない。ただ黙って見つめ返すだけだ。
何を考えてるのか、或いは何も考えてないのか。
例えは悪いけど、まるで指示を待つ犬だな。
……。
そうだった。青木は、この愚直さゆえに無限連鎖講の片棒を担ぐはめになり、恐喝の濡れ衣を着せられたんだった。
もう少し世渡りが巧かったら、今ごろ六本木か丸の内のオフィスで涼しげなカジュアルジャケットを羽織って颯爽と仕事をしていただろうに。
でも、根はいいヤツなのだ。多少抜けてるところはあるけど頭脳はハイスペックだし。
よし、力を借りよう。
でもそうと決まったらこっちも中途半端な気持ちではだめだ。
戸田嶋は覚悟を決めた。
「最初っから話すから、お願い、力を貸して」
青木はゆっくりと頷いた。