27.しねば
甘ったるく湿った空気。
タオルケットにくるまったまま身体を横向きにすると、目に前に仁の顔があった。
仁はヒゲが薄い。
ていうかないぞ。
もしかして脱毛してるのかな。お人形みたいにつるっつるで、でも潤いがある。そうそう、だから頬と頬を合わせるとぴとっと吹い付く。あれがとっても気持ちいい。
上半身の筋肉は、小さいころから体操をやってるだけあって逞しいっていうよりきれいだ。
大胸筋の膨らみにそっと手を乗せたら、仁がぴくっと上半身を震わせた。
ごめん、びっくりした?
仁の身体って、とても精巧にできている。とこかが動くと関係する筋肉が次々に動いて美しいハーモニーを奏でる。
指先をつつっと横にずらして仁の腋に差し入れた。するとなぜか自分が触れられている感覚がしてビクッと驚いた拍子に……、
夢から覚めた。
何のことはない。
仁の脇だと思って差し入れた指は自分の脇の下に差し込まれていた。
どうやら、飛島先輩が運転するプリウスの助手席で、腕を組んだまま眠っていたらしい。
前方を見ると、まだ高速だった。
仁とは、週に何度か、アパートで会っている。基本的には、夕飯までに家に帰らせないといけないので一緒にいられる時間は少ない。でも遅くなっても大丈夫な日を、仁は工夫して作ってくれた。
そんな日は、必ず抱き合った。
求め合う気持ちが、お互いに強い。
なのにふたりで過ごせる日が、そう多くは作れない。それが何とももどかしい。
でもね、空腹は最上のスパイスっていうし……、などと甘い考えごとに浸っていたのに、
「先生、お目覚めですか」
強引に現実に戻された。
「止めてくださいよ、先生っていうの」
飛島先輩は、小巻主査が今度のコンペの重要性を語って以来、主任に任命された戸田嶋のことを先生と呼ぶようになった。
もちろんからかい半分だろうが戸田嶋の仕事如何で会社は消滅するわけだから、半分は鼓舞する気持ちも込められているのかもしれない。
それがわかるから重圧なのだ。
……、逃げ出したくなる。
「先生って呼んだらもう、答えないですから」
「しおらしいこと言うわりには大物じゃないの。先輩が運転する横でイビキかいてるなんてさ、えぇ? 先生」
「イビキなんてかいてません」
「ばれたか。でもなんかニヤニヤ笑ってたぞ。余裕じゃんか」
「笑ってなんか……」
いませんとは言い切れない。夢の喜怒哀楽が顔に出るのは小さいころからの癖だ。でも、
「笑ってなんかいません」
戸田嶋はそう言い放って、不機嫌に見えるように顎を上げて飛島を睨みつけた。
ワイズデザインの先輩、飛島裕樹はM美術大学の美術学部建築学課を出ている。
在学中はひたすら作品創りに励んでいたが、いつか大型の立体構造物による表現を目指したいということで、二級建築士の資格も取得している。
作品の専門は三次元アート。といってもいわゆるトリックアートではなくリアルの立体造形で、巨大水槽のようなアクリルケースのなかに彫刻やフィギア、3Dプリンターも駆使して、ひとつの世界を作り上げる。
それは、百年前の人が千年後の未来を想像したような、レトロ未来な独特の世界観だ。飛島が想像した未来と伝統的な美の融合は『過去に取り残された未来』と評されたこともある。
東京都主催の近代アート祭では奨励賞を受賞した。インスタにはそのときのトロフィーが掲載されている。
最優秀賞ではなく奨励賞、というところが飛島先輩を象徴している。作風にSFっぽい雰囲気やアニメっぽい部分があるためか本賞であるグランプリや最優秀賞に縁がないのだ。
個展は二度やっている。
でもひとつも売れなかったらしい。
理由は何となくわかる……。
でか過ぎるのだ。ひとつひとつの作品が。
得てしてアーティストのパーソナリティーはビジネスに必要な要素をわかっていて排除する傾向にある。
とはいえ個展の開催に援助の手を差し伸べるパトロンもいたわけだし、実際、御子柴社長もスカウトしたのだから、何かを持っているのは間違いない。
だが御子柴ワイズでその才能が花開くことはなく、入社五年目で社長に見限られ、子会社に転籍させられた。最近は、持て余した体力を生かす現場仕事ばかりだ。
そんな飛島先輩は、近ごろ少し変わった。
鑑賞するだけの立体構造物から、実際に使われる建築物の芸術性に目覚めたらしい。
それなら、今からでも一級建築士を狙ったらいいと思うのだが、ウチで働いても一級建築士の資格取得の要件となる実務経験にはならない。つまり、ワイズデザインにいる限り永遠に二級建築士のままだ。
「建築はなぁ戸田嶋」
はい、といちおう運転席を向く。
「建築は芸術なんだよ」
「だったらなんでそっちの道に進まないんですか」
ウチなんかそのうちなくなるし、ということばは飲み込んだ。
「才能が邪魔をしたからだ」
ここまで抜け抜けと言われると反論ができない。
「天が俺に創造を貫けと命じたから、俺は天啓に従った。それは後悔していない。だが、今は建築は芸術だと思っている。制約があるなかでの表現にこそ、本当の美が現れる。そう思わんか」
「じゃあ建築会社に転職したらいいんじゃないですか。どうせ、ワイズなんて半年後にはなくなる会社なんだし」
言っちゃった……。
「そういう考え方はよせ。俺の話を聞いてなかったか。制約があるなかでの表現に全力を尽くしたときに、美は現れる」
無駄だ、この問答。
この人、本当は御子柴社長の誘いに乗ったことを後悔している。でも沈みかけた船をさっさと降りることを潔しとしない、そういう無駄な俠気みないなものが飛島先輩にはある。それがなんとも、うざ!
「戸田嶋、これから行くとこはな、私設図書館なんだが、本の閲覧や貸し出しだけじゃなくて地域の交流の場になることを意図してデザインされている。設計は橋爪健太郎。自然光をうまく使っていて天候や時刻によって表情が……」
飛島先輩の説明は右の耳からから左の耳へと抜けていった。
芸術性の高い建築物に実際に入ってみる。手で触れてみる。先週から始まった、飛島道場と自称する名建築巡りは、横浜、白金台、青山、浅草と続き、今日は西荻窪から八王子、そして最後はなぜか秩父だという。
もう日も傾いているというのに、帰れるのは何時になることか。
うんざりした気分になりかけていたところでスマホが小さく振動した。
ラインかな?
トーク画面を開いたものの未読はひとつもない。改めてメッセージ一覧を確認したら、もう何ヶ月も更新していないインスタにDMが入っていた。しかも見たことのないアカウント。誰だこれ……。
〈しねば〉
意味がわからない。
無視したい文言だが既読になってしまった。
飛島先輩はまだ語っている。
「聞いてるか先生? 木ってのはな、光の加減だけで表情ががらっと変わるんだ。……それも全部木じゃなくって鉄とか石とか……、逆に個性が引き立つっていうか……」
耳に入っても言語処理されない飛島先輩のことばは、ついに鼓膜にも反応しなくなった。
だって。
だって間髪を入れず入ってきた次のメッセージがDMじゃなくてメールだったから。
しかもその文面は、
〈かしわざき仁とあうな〉