3.進化した?
「もう、朝から大迷惑よぉ」
何とか親方に図面を届けた戸田嶋早妃は、出勤前に玲夢と待ち合わせて、渋谷のハンバーガーショップQに寄った。
オープン記念とかでクーポンがばら撒かれていたせいか、Qは夜遊び帰りのガキ共と早朝出勤のサラリーマンでカオスと化していた。
「それ、別にその人が悪いわけじゃないじゃん、ていうかさ、あんた感謝してもいいくらいよ」
同期入社の梨田玲夢は『ダイエット中だから』と言って、朝バーガーセットの代わりに注文したミニ餡バターサンドを片手に、せっせと戸田嶋のポテトフライを口に選んでいる。
戸田嶋は視界の隅にその光景を捉えながら、
「やぁ、だってあのタイミングでハンカチひらりは反則よぉ。だからあのヒラヒラがいけないの、ヒラヒラが」
と実際に手をヒラヒラして見せた。
「ハンカチひらりってあんた大正ロマンじゃないんだから。てか逆じゃないっけか、男と女」
「ジェンダー平等~」
「あのさ。ヘタ子って、もし魚に生まれてたら三秒で釣られるよね。あんた今、餌付いてなくたってパクっていっちゃうでしょ」
戸田嶋のことをヘタ子と呼ぶのは、今、世界で梨田玲夢ただひとりである。
「失礼な、あれは人の本能に訴える動きだったのよ。あれに反応しなかったら逆に生存競争に勝てません」
「でもあれね、シャイ通り越して男性恐怖症のヘタ子が随分と思い切った行動に出たもんね」
「んなメンヘラみたくいわないでよ、あんたと違って節度をわきまえてるだけじゃない」
「よく言うよ、オキニの男子目の前にして氷が溶けきるまで指でカクテルかき回してた女はどこのどいつよ」
本当の話だけに否定はできない。だが、
「あたしはじっくり観察して、心を読み切ってから動くの。玲夢みたいに全部省略してすぐに仲良くってわけにはいかないのよ」
と苦しいいいわけ。
「いやいや、ヘタ子は特別だって。気ぃ利かせてふたりっきりにしてやったら過呼吸で倒れちゃうんだもん、信じられない」
これも専門学校時代にやらかした合コンでのエピソードだ。
つまり事実なので戸田嶋には何の反論もできない。
そう、あのとき……。
互いに意識し合ってるくせに一向に話を始めないふたりを、玲夢たちがおもしろがって個室に置き去りにした。
そこまではいいのだが、そのチャンスに、戸田嶋は過呼吸の発作を起こしたのだ。
「あたし苦手なんだよ、男の人とふたりっきりってさ」
「ていうの昨日までなら信じてやったけど、新宿から原宿まで二ケツ爆走の顛末聞かされたあとじゃねぇ、オヌシ、もしかして進化した?」
玲夢はそう言ってポテトの油でぬらぬらと光る人差し指を戸田嶋の鼻先に向けた。
「違うんだってば。ほんと、なんか勢いのある子でさ、気が付いたら」
「乗ってましたって? なるかな、そんなことに」
「いやなるんだって。だってもう頭真っ白だったもん、小巻主査もだし、あの、冨島? 暗いくせにすぐキレるデザイナーの顔思い浮かべたらもう……、ていうか玲夢、いいかげんポテト買ってきなよ」
朝バーガーセットに付いてきたポテトフライは、すでにあと三本しかない。
「でもそれってあれじゃん? 典型的な運命の出会いだよね、白馬に跨った王子様っていうあれ。あぁ、でもそっか、跨ってたのは白い自転車か、はは」
戸田嶋はここで、はぁ~っと息を吐いた。
そうなのだ。
あの男の子にまた会いたい、という気持ちは弥増すばかりだというのに連絡先を聞いてない。
名前も。
それどころかちゃんとお礼すら言ってない。その辻褄合わせが、冒頭の「朝から大迷惑よぉ」のひと言だ。迷惑をかけたのが自分だということくらい戸田嶋だってわかっている。
「まあ、そういうとこはオヌシらしいよね。哀れよのぉ。いい出会いだったのにねぇ」
そう言って玲夢は最後のポテトを口に放り込んで指ごとしゃぶった。
哀れかぁ。
そう言われると余計に逃がした出会いが惜しくなる。
でもあれだな、ほんと、嘘みたいな出来事だったな。もしかしたら……、夢?
いや現実だ。
この手で彼の肩を掴んで新宿から原宿まで走り抜けたんだ。この手で、この手で彼の肩を。しかも負んぶされたときは恥ずかしくてしがみついちゃったし。
そういえば……、とあることを思い出し、戸田嶋は両手のひらの匂いを嗅いだ。
……する、するじゃん!
間違いない。
この匂い。
彼の匂いだ。
たぶんボディーコロン。草みたいで朝露みたいで、なのにちょっとココナッツっぽい? いや、なんていうのかな、涼しい風が吹く日向の匂い? みたいな、なんかよくわかんないけど、いいな、これ。
肺一杯に吸い込んだら脳がとろんとした。
もう一度、と深く吸い込む。そして息を吐くのももどかしく、また吸う。
吸う。
そして吸う、吸う、吸う。
「ちょっとヘタ子! あんた何してんの」
洗えないなぁ、この手。
恍惚とした気分になったら思わず『むふっ』と笑みが漏れた。
「ヘタ子! あんた、また過呼吸」
なぜか鬼の形相と化した玲夢に強引に手首を握られた。引き離そうとする力に思い切り抵抗するのも虚しく、強い力で手は口元から離された。
ああ、やだぁ、やめてぇ~、彼を連れてかないで~。
意識が少し怪しくなった次の瞬間、戸田嶋は地球の重力から解放された。