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26.柏崎仁の『初めて』

 初めてのセックスは夢みたいだった。今でも頭のなかには千の星が瞬き、万の花びらが甘い芳香を放ちながら舞っている。

 女の人の身体に触れるのも……、裸を見るのさえ初めてだった。


 全部の初めてが早妃さんになった。


 意外にできるもんだな。やっぱり人間はこういうことをするようにプログラムされてるんだ。



 終わったあともずっと一緒にいたかったけど、そういうわけにもいかない。

 電車を乗り継いで家に帰った。


 本当はもっと早い時間に帰宅するつもりだった。

 だって夕飯はいつも家族と一緒に家で食べている。


 でも今日は、時間を忘れてしまった。家に着いたときにはもう、十時を少し回っていた。いつもならどんなに遅くても七時には家にいるのに。


 当然、お母さんに叱られた。

 厳しく。


 「電話くらい入れなさいよ、何時だと思ってるの、心配するでしょ」


 「ごめん、ゲームやってて時間忘れちゃって」


 「ゲームって、もう。それ小学生の言い訳でしょ」


 「ごめん、マジで時間経つの忘れてて、ハラ減って気付いたんだわ」


 努めてまじめに言い訳した。でもちょっと油断すると幸せな気持ちが声に乗りそうになる。そんな感情に気付かれたら火に油だ。

 奥歯で笑みをかみ殺していたら自然と沈黙になった。


 「しょうがないわねぇ、カレー、温める?」


 「お願い。もうムリ。ハラ減って声出ない」

 沈黙を空腹のせいにした。



 「ゲームって、誰んとこでやってたの」


 「んー、友達んち」


 「誰よ友達って」


 すぐに思いつかなかったので、いつもの名前を出した。

 「え? ああ、貴大」


 「大丈夫なの? あの子は推薦なんでしょ。あなたは受験なんだから。一緒んなって遊んでる場合じゃないでしょ、だいたいアルバイトだっていいかげんもう」

 このことばは遮った。

 「平気だって。それにゲームは勉強したあとだもん」


 「ならいいけど。遅くなるんならちゃんと電話ちょうだいね。そのための携帯よ」


 「わかった」


 念のため貴大にはあとで事情を話して口裏合わせをしておこう、と考えていたら最悪のタイミングで真鈴(まりん)が二階から降りてきた。


 正面に座り、黙ってこっちを見ている。


 不気味だ。いつもならすぐに『何かいいことあった?』て訊いてくるのに。


 ふふ、あったよ。最上級の、イイコト!

 でも言えない。

 秘密だもの。

 早妃さんとの秘密。

 誰にも言えないふたりきりの秘密。

 今日、僕は大人になったんだ。大人の男に。


 最初はもう、ただただ夢中だった。大好きな早妃さんを好きなだけ、好きなように愛する喜び。ただそれだけ。何をしたかなんて、よく覚えていない。

 ……。

 へへ。ウ、ソ。

 覚えてるよ早妃さん。

 何もかも全部。細かいとこまでくっきりと。



 いけない。真鈴は顔の表情を読む天才だった。

 仁は、表情を隠すためにスマホを頼った。まずポータルを開き、そこから何度か移動して天気予報のサイトにたどり着く。


 へぇ、台風9号が関東直撃か。ラッキー、球技大会は中止だ。

 よし、この線でいこう。

 さ、いつでもこいよ真鈴。兄ちゃん、相手んなってやるぜ。


 でも真鈴は何も言ってこなかった。

 しばらく黙って仁を見つめ、そのまま立って二階に上がってしまった。

 何だよ、変なやつ。

 ま、いいや、とにかくメシだ、と仁は目の前の大盛りカレーライスにがっついた。


 腹が減っているのは本当なので、スプーンをいつもよりガチャガチャとうるさく鳴らしてしまった。


 「落ち着いて食べなさいよ。何、あなたほんとに何にも食べてないの」


 「うん」



 二回目が終わって、早妃さんがいつも寝てるベッドのなかで余韻に浸って、そのあと長いキスをした。

 早妃さんが「パスタ茹でるね」って言ってくれたとき時計を見て焦った。だから腹に入れたのは、夕方、早妃さんと一緒に食べた餡菓子と、それとカルピス。それだけだ。


 「カレーまだある?」

 仁が食べ終わった皿を差し出すと、お母さんは「そりゃ、あるけど」、と呆れた顔で皿を受け取った。

 何か考えているように見えたので、訊かれる前に先手を打った。


 「うちのカレーってさ、マジで美味(うま)いと思う。店開けるレベルだよ」


 「そおぉ? 別に、ジャワとゴールデンを半々に混ぜてるだけよ、昔っから」


 「いやぜったい美味いって。なんか入れてるでしょ」


 幸福感に満たされているせいで『美味い』ということばにも自然と情感がこもる。


 お母さんは「そんな訳ないでしょ、箱に書いてある通りに作ってるだけなんだから」とつっけんどんに答えながらも、嬉しさは隠せないみたいだ。その証拠に、

 「ああ、でもね、ちょっとは隠し味があるのよ」


 「あ、わかった」

 お代わりの皿を受け取り、お約束の「愛情!」と唱和する。


 ああ、真鈴もこのくらい単純だといいんだけどなぁ、と仁は空っぽの肉体にスパイシーなエネルギーを補給した。


     ☆


 寝る前。

 ベッドから貴大に電話した。念のため頭から上掛けをかぶり、声は潜めた。


 「ていうわけだからさ、いちおう報告しとくな」


 ざっくりと今日の顛末を話し、アリバイに使わせてもらったことも白状した。

 ついでに『これからも度々使わしてもらうと思うから、貴大の名前』と今後のことも匂わせておいた。

 一回うちに連れてきて、うちで勉強するパターンもやっておこう。その方が怪しまれない。


 〔しっかしマジかよ、ほんとかよおい、マジでぇ? 相手大人じゃん〕


 「いやぁ、ちょっと急な流れでさ」


 〔今度聞かせろよ〕


 「何を」


 〔詳しくだよ、俺もほら、今後のために〕


 「んなの言えるわけないだろ」


 〔おいおい、俺たちマブダチだよな〕

 なんでここで友情がでてくるんだよ。まあ、気持ちは分かるけど、ダメだね。


 「貴大もさ、梨田さんって人? いい感じだったじゃん。あれからクレーンゲームやりに行ったんだろ」


 〔行ったけどさ、だめだよまるっきし。俺のこと子供扱いだもん〕


 「甘えちゃえば?」


 〔違うんだって。わかんだよ、梨田さんぜったい俺のこと男として見てないもん。

 それよっかさ、お前らどうしたらそんな急展開できんの、まだ会ってそんな経ってないじゃん〕


 思わず『赤い糸で結ばれてる』って言いそうになって踏みとどまる。

 で、せっかく踏みとどまったのに、

 「運命じゃないかな」

 ぶはっと電話の向こうで貴大が吹き出すのが聞こえた。


 〔まあいいけど、今度ケンタのチキン6ピースな〕


 「あぁ、いいよ」

 貴大はビーフ派じゃなくてカリカリチキン派なのだ。



 〔それよっかさ、おまえ人命救助とかやった?〕


 「何それ」


 〔なんかブレブレでよくわかんないんだけど、お前らしき男が女の人抱き起こしている動画がアップされててさ〕


 浮ついた気分が吹っ飛んだ。

 しどろもどろになりそうな自分を何とか立て直し、

 「居合わせたことはあるけど、別にそんな大げさなことじゃないし」と適当にごまかし、早々に会話を締めくくった。




 電話を切ったあと、仁は貴大が言った幾つかの検索ワードをフレームに入れてエンターマークをタップした。

 すぐには出てこなくて、検索ワードを何度か入れ替えたら、それらしき動画がヒットした。


 間違いない。早妃さんが過呼吸の発作を起こしたときのものだ。

 あのとき梨田さんと店の人が『撮影するな』『SNSに上げたら訴える』、と強く言っていたからレンズは正しく被写体を捉えていない。

 画面は激しくブレてるし、たまに止まってもちゃんと被写体を捉えていない。そのおかげで人物の特定は難しい。


 一番上のコメントは〈白昼のカフェで人名救助。途中まで死にそうだった女の人、まさかの医大生の登場で生き返った。マジ医学の力すごい〉となっていた。

 なぜか、仁のことは医大生になっていた。


 ま、これなら大丈夫か……ていうか別に本当に人名救助だ。やましいところは欠片もない。


 仁は微かな不安を隅に追いやり、戸田嶋のアパートで体験した甘やかで情熱的なできごとを思い返した。


 興奮や達成感、というよりも目眩く幸福感で考えがまとまらない。

 ほどなく、仁の意識は夢の世界に溶けていった。


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