21.赦せない
ずっと直視できずにいた忌まわしい記憶に、向き合うことができた。
それは、トラウマが終わった、ということだ。そのことを実感した戸田嶋は安堵してベッドから起き上がり、夕べから開けっぱなしになっていたらしいカーテンを閉めた。
さて、何をしよう。
玲夢のメモによれば、今日は会社に行かなくてもいいらしい。
ありがたい。
少なくとも時間はある。
でも頭のなかは、まだぼんやりしている。
少し前のことならはっきり思い出せるのに昨日の記憶には、まだ少し、靄がかかっている。
もちろん仁が救ってくれたあの場面は別だ。あれだけは鮮明に刻まれている。きっと一生忘れることはないだろう。
でも、そもそも何であそこにいたんだっけ。
夕べの過呼吸は、何がきっかけだったんだっけ。
思い出せない……。
きっと、ドクターに『心を落ち着かせる薬』とやらを点滴されたせいだ。そのくせ副作用なのか何なのか、どうでもいい細部を恐ろしく鮮明に覚えていたりする。
例えば、二枚掛けにしたテーブルクロスの吸いつくような生地の手触りとか、テーブルに置いてあった本日のおすすめ、鯛のディルオイルのカルパッチョの消費税が237円だったこととか。
なのに全体を俯瞰してみると、まるで竜巻が通り過ぎたあとみたいにめちゃくちゃだ。
玲夢に抱き締められた感覚は、身体が覚えている。
その輪郭は、溺れているさなかに浮き具を発見するという奇跡、その歓喜。離すまいとする執念。離したら死ぬ、という恐怖。
戸田嶋は、記憶の断片をひとつずつ、丁寧に繋ぎ合わせた。
雨の落ちてきそうな空模様。
スーツに身を包んだ親方。
ビバーチェの店内に流れるジャズはピアノトリオだった。
シャンパンの冷たさ。
音。
音。
音。
精巧な飴細工が割れていくような甘く煌びやかなな音。その残響が消えた瞬間……、気道が塞がれた。
戸田嶋は首を捻った。なんであそこに親方がいたんだっけ。しかもスーツで。
親方、現場主任、中杉さん。
いい人なのだ、あの人は。
時代劇が好きで、現場で一緒になるとよく悪代官ごっこをやった。特に玲夢が一緒だともう悪乗りもいいとこ。
悪代官役はいつも親方だ。『オヌシも悪よのぉ』といつも楽しそうにしていた。
芋焼酎が好きで納豆が嫌いで、イカのくちばし? あの気味の悪いのが好き。んで、ピーマンとトマトが嫌いって、あなたは子供ですか!
若い職人さんへの罵詈雑言は今の基準でいえば百パーセントパワハラだし、若い人がちょっとでも気を抜いた仕事をしようもんなら、それこそ本気で怒る。「このバカ」と頭をはたく。
でも不思議と、若い職人さんからはすごく慕われていたっけ。
そのくせ女性に対してはちょっと意識しすぎるところがあって、て、おいおい。
あ、そうだ。夕べはここに、スーツが似合わない人、ていうファクターが加わったんだっけ。
そうだよ、そう!
思い出した。夕べあそこにいたのは小巻主査の業務命令だ。
ほんと、専務って肩書きは曲者だ。そこに『大切な取引先』だの『機嫌を損ねないように』なんて要求されちゃっちゃあこっちだって社会人だもの、フルマックスで敬語を使わざるを得ない。それで、いつもみたいにフランクに話せなかった。
そう、夕べの自分の態度は失礼レベルで慇懃無礼だった。親方ゴメン。
にしたってよ、孫みたいな年の女に告るかねぇ普通。ベースは仕事の付き合いだってのに。
今度会ったらどうやっていじめてやろうかな。
そんなことを考えていたら、思わず「むふ」っと笑みが漏れた。
ようやく頭が平常時の働きを開始したそのとき、スマホが鳴った。
ディスプレイの表示は玲夢だ。
〔いつ起きたの〕
「ついさっき」
いけない、起きたら電話しろってメモに書いてあったっけ。
〔で、どうよ〕
「どうって」
〔生きてる?〕
「死人の声に聞こえる?」
〔めんどくさい女だね、まったく〕
「昨日はありがと、助かりました」
と今日ばかりは、スマホを持ったまま頭を下げる。
「今日も、でしょ、も」
「んも!」
くっくっという笑い声が聞こえた。
〔で何、昨日はなんで親方と一緒だったの〕
「聞いてないの?」
〔小巻のやつ言わないのよ、いっくら聞いても〕
「青木は」
〔飛島さんの手伝いで風船配り〕
「ああ、そうだった」
戸田嶋は思い出した全容を掻い摘んで説明した。
親方が見合い話を持ってくるっていうので、それを聞くのが業務命令だったこと。
青木が「パワハラだ」って小巻主査に抵抗してくれたこと。
縁談は縁談でも、実は親方自身の話で、告られてパニクったこと。
〔ちょ、ちょっと何それ!〕
「もういいよ玲夢、ハッピーエンドなんだし」
〔あんたはいいよね、特大のチューされてお姫様抱っこなんだから〕
「うえっへっへっへ」
それを言われるとどうしたって顔がゆるむ。
〔赦せない!〕
へ?
〔赦せない、小巻のやつ〕
しまった。
玲夢はどんなキツい業務命令でも、必然性があれば何でもやる。
でもそこに別の意図が含まれていたり、尊厳が踏みにじられたりする場合は別だ。今までも徹底的に反発していた。
それが今回は事故に発展したのだから……、
〔ちょっと、対策考えるわ〕
と、こうなるのは当然の帰結といえる。
「玲夢~」
ここで電話は切れた。




