2.何かのスイッチ
「着きました」
へ?
見れば原宿駅の改札前広場だ。さて、どうすれば、
「あの、すいません、とりあえず降りてもらっていいですか」
「あ、ごめんさない、あたしったら」
と慌てて彼の背中を降り、自分の姿を見下ろすと、Tシャツの前面がじっとりと湿っていてブラが透けぎみだ……、というか何だこの匂いは。明らかに自分ではないフレグランスの香り。
それが、たぶん男性用のボディコロンだと思い至ったとき、意志とは関係なく、耳が熱くなった。
そんな戸田嶋の胸中など予想だにしない彼は、近くにいた駅員を呼び止めると、ごく簡単に顛末を説明した。すると、すぐに別の駅員がやってきて「さっきので間違いないと思います」と駅の事務所に案内された。
どうやら、置き忘れた図面はこの駅で回収されたらしい。
原宿駅の事務所には初めて入った。
駅といえばラッシュ時の顔しか知らない戸田嶋にとって、駅はごった返しているのが常態だ。まるでバスケ部の部室みたいに、という比喩はどうかと思うが、現実は内見用の作りものかと思うほど整然としていた。
壁には列車の運行状況を示すディスプレイがあって赤や緑の光が点滅している。そのようすをぽかんと口を開けて見ていたら、
「どうぞ、こちらに」。
案内されたのは、簡単なパーテーションで区切られた小さな打ち合わせスペースだった。促されるままベンチのような椅子に掛け、ほぉ、こういうところで落とし物の受け渡しをするのか、と辺りを見回した。
係員が「保管庫に入っちゃうと手続きが面倒なんで」と言って件のブツを出してきたので思わず手を伸ばしたら、
「いちおうルールですので」
とお預けを喰わされた。
「えっとこれは、どういうものですか」
「どういうってその、大切なお客さんのイベント会場の設計図で」
「その大切なお客さんのお名前は」
「友田……、確か伸也」
思い出すだに腹立たしい。人の仕事にダメ出しすることでしか自分の存在を確認できないクソ男だ。
「ん~、ないですね」
「は」
「こちらの書類にそのお名前がないので、ちょっと確認には……」
そりゃ、あるわけがない。
「発注者のお名前は」
それならウチの会社だ。
「ワイズデザインです」
「ああ、ありました、はい。じゃあ設計者のお名前は」
「えっと、冨島なんとかって、ちょっとヲタクっぽい感じの」
「はい。で、置き忘れたのは」
「新宿のですねぇ、まんなから辺の車両の進行方向右側に、その」
「ごくろうさまでした。落とし主様で間違いないと確認できましたので、身分証の提示と、こちらに受け取りのサインをお願いします」
☆
現場には、事前に連絡してあった時刻より、大幅に遅れて到着した。
急がないと! ……でもその前にお礼しなくちゃ、と後ろを振り返ったら、彼は「じゃあ、僕はこれで」、と早くも退く構えだ。ただ、身体が半分うしろを向いているのに、顔だけがこっちを見ている。
どうしよう、動けない。
彼の視線に絡めとられそうだ……。
戸田嶋が、抱きしめたいのか抱きしめられたいのかわからない、官能的ともいえる衝動に面食らっていた時間は、たぶん数秒だ。その間に、『なんかいいな、この子』に過ぎなかった感情が『ぽー』っという、のぼせに似た感覚に変わった。
その瞬間、心のなかでカチッと何かのスイッチが入った。
それは恋のスイッチだったのだが、このときの戸田嶋には知る由もない。
そんな戸田嶋をよそに、彼は背を向けてその場を去っていった。
ああ、追いかけたい。
いや追いかけなきゃダメでしょ。
でも今はそれどころじゃない。
そうよ、早くこの図面を届けないと。
もし間に合わなかったら損害賠償もんだ!
戸田嶋は追いかけたい気持ちを懸命に抑え込み、半開きになったシャッターをくぐり抜けて現場に駆け込んだ。
案の定、親方は待ちかねていた。
そして腕を組んだまま戸田嶋の全身をさっとサーチして開口一番、「何があった」と言ってきた。
今、戸田嶋早妃の風体を見た人なら、誰もが口にする疑問である。だが仕方がない。これは小巻主査からの指示なのだ。
『いい? 期限はとっくに過ぎてんだからね。あんたは徹夜で冨島先生に張り付く。して何度NGが出ても誉めておだてて励まして、とにかく図面を完成させるの。
でき上がったら、いい? それを一刻も早く、ていう熱い思いと一緒に現場に届ける。
当然、化粧なんかしてる暇はないわよね。服はこれでもかってくらいテキトー、髪はぼさぼさ、ネイルなんてとんでもない。シャワー浴びる暇すら惜しんでデザイナーを急っついた、ていうその思いを! 図面と一緒に現場に届けるのがあんたの仕事、いいねっ』
その前提に加えてあの自転車だ。
結わえた髪は途中で解けて首筋に張り付き、すっぴんの額と鼻は脂でテカテカ、よれよれのTシャツは、それこそ汗を吸っては乾き、乾いては吸ってを何度繰り返したことか。
ベージュのチノパンは敢えて準備した安物だし、彼に負ぶさったときにお尻が破けたような気も……。かといって手で触って確かめる勇気は、ちょっとない。
そういう風体で、
「お待たせしました。冨島公一、渾身の作品でございます」と時代がかった口上を述べて工事の図面を差し出したのだが、親方はまだ、戸田嶋の顔と服装を見て首を捻っている。
「走ってくれたんか」
うぅむ、まあ常識で考えたらJR原宿駅からここまで全力疾走。そう思われたであろうことがちょっと癪だったので、
「この時間だと電車より早いので」
「ん?」
「新宿で降りて、走ってまいりました」
「いやいや、いくらねぇちゃん若いからって、スパイダーマンじゃねえんだから」
後ろに控えていた若い職人が小さく吹き出したが、戸田嶋は微塵の笑みも浮かべずに続けた。
「自転車便で」
「自転車便だぁ?」
「はい、わたくしごと」
「設計図だけ届けてくれりゃよかったじゃないか」
「いえ、冨島公一渾身の作品を他人に託すわけにはまいりません」
「そいでねぇちゃんも一緒に運ばれてきたんか」
「作用です。道中、危険な場所もございましたが、工事に間に合わせねばという一心にて、何とか」、無事辿り付きましてござりまする~、と平服する寸前でブレーキが間に合った。
芝居っけたっぷりの口上に、親方の目がきらりと光ったのが見えた。
彼は戸田嶋に向かって「わかった」と口だけ動かしてゆっくりと頷くと身体ごと後ろを向いた。
そこには鳶の装束を身に纏った年齢もばらばらの男が四人、親方のことばを待っている。
親方は腕を組み、その面々を左から右へ、ゆっくりと睥睨したのち、腹の底から声を出した。
「いいかお前ら! このねぇちゃんの心意気、無駄にすんじゃねえぞ!」
ほとんど「へい」に近い「はい!」という野太い大音声を聞き、しめしめ、これで馘は免れそうだ、ていうかお褒めをいただいてもおかしくないぞ、と一瞬でもイケメンにのぼせた自分を棚に上げ、戸田嶋早妃はほくそ笑んだ。