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1.ハンカチひらり

それは、山手線のシートに残された一枚のハンカチから始まった。

 「This is the ()()()() Line, bound for Shibuya and Shinagawa.The next station is ()()()()()


 はぁ~、眠い。

 寝てしまう。


 あれ、もしかして今、新宿っつった? 

 さっき池袋過ぎたばっかなのに。

 てことはあれ?


 あぁ! 寝落ちしてたー。

 ヤバい、もぉダメ、限界かも。


 よぉし、何か考えよう、何でもいい。

 ……でも考えるって、何を?

 あ、そうだ、今の車内アナウンスだよ。

『シンジュク』のとこだけ発音が日本人っぽかった。てことはあれか、帰国子女!?

 いやそれはないか、あんなの合成に決まってるし。

 ……。

 いやああああああ、どうでもいいんだよそんなこと、どうでも良すぎるんだって。

 それよっか、


 眠い。


 少しなら寝てもいいかな。

 ……。

 いやダメダメ、今寝たらこれまでの努力が水の泡だ! 


 と、戸田嶋早紀(へたしまさき)は首を振って眠気を振り払い、強い意志を込めてグイッと目を見開いた。そして左手の一部と化しているスマホを起動して時刻を確認。


 0544


 よし! と気合いも勇ましく、斜めになりかけていた身体をまっすぐに立て直し顔を上げると……。


 ん? 

 さっきまでは誰も座ってなかったのに。

 それが今、目の前のシートには若い男がいて、何でか知らないがこっちを見ている。

 しかもまっすぐ。


 どうしよう……、てか何見てんだこいつ、と強がってはみてもずっと目を合わせているのは何とも気まずい。


 しょうがないから自分から視線を外しそっと目を(つむ)った。ヤンキーじゃあるまいし、朝から睨み合ったってしょうがない……、ていうか、ただ圧に負けただけだけど。


 でも。

 まあまあの、イケメン?

 まあまあだけどね、まあまあ。と自制を働かせながら網膜に残った残像を上から下までサーチする。


 年は二十一、二。大学生か、いや、ベンチャー系の若い経営者だったりして。

 背は立ってみなければ分からないけど百八十、はないかな。でもまあ長身の部類だ。

 カーキ色のTシャツに浮き上がった筋肉は、ちら見した限りだけどちょっと鍛えてるっぽい。下は……、下は?

 どうなってたっけ。


 戸田嶋早妃(へたしまさき)はそおっと目を開き、心持ち顔を上げた。


 裸足に白いスニーカー。

 ほぉぉぉぉぉ、まぶしいじゃないか。


 にしても、まただ。何でこっち見てるんだろう。



 あ、そうだ!

 ……化粧してない。


 『やい、大人のすっぴんがそんなに珍しいか』、と頭を戦闘モードに切り替えたところで山手線内回りの列車は新宿で停まり、ドアが開いた。

 

 男の子が立ち上がってドアに向かったその瞬間、シートにタオル地のハンカチがひらりと落ちた。

 目覚めたばかりの頭がフルスピードで状況分析を開始する。


 落ちたハンカチはサイズ大きめのタオル地で、中央に一輪のバラが刺繍されている。端には筆記体でイニシャルらしき文様……、ということは特注の今治(いまばり)もの? よく分からないがまあ、百均とは次元の異なる高級品であることは明白。


 それが、


 ぽつんとシートに、


 取り残されている……。

 

 次の瞬間には動いていた。

 正面のシートに飛びついてハンカチを取り、チャイムが鳴り始めたホームに飛び出して男の子の姿を探す。


 いた。


 「あの!」


 大きめの声で男の子が振り向いた。


 「これ」


 ひらひらと振ったハンカチを見た彼が口を一瞬『あ』の形に開けて、すぐに「すみません」と言いながら駆け戻ってきた。


 ほっとしたのも束の間。

 ドアが閉まって、やらかしたことに気が付いた。

 が、もう遅い。

 戸田嶋早妃(へたしまさき)が降りるべき駅は、ふたつ先の原宿である。そして朝イチで現場に届けねばならない図面は動き出した列車のシートの上。

 

 「あぁ、あぁぁぁぁ」、と情けない声を上げながら、動き出した列車にゾンビの如く手を伸ばす戸田嶋を、彼は抱きかかえるようにして止めた。


 「どうしよう」と言ったきりホームにへたり込んでしまった戸田嶋の隣に、すぐさま彼もしゃがみ込み、そして小学生に問いかけるような優しさで「車内になにか」。


 ひと呼吸おいて戸田嶋も落ち着きを取り戻す。


 「大切な書類」


 「なら駅員に知らせないと」


 「どうしよう」


 彼がホームに向けて「すいませーん」とよく通る声を張り上げると、その場にいたほぼ全員が振り返った。


 一番近くにいた駅員が「どうされました」、と駆けつけた。しかし戸田嶋は、自分がやらかした大ポカで、既に落ち込みモードに入っている。


 「お客さん?」

 こんなとき駅員が疑うのは急病である。その見立てを、すぐさま男の子が訂正した。


 「今の列車に、この方が大切な書類を置き忘れたそうです」


 ここから先は、戸田嶋の記憶が頼りだ。

 駅員が「バッグに入ってます?」「封筒? じゃあそのの色は」「大きさは? A3?」「どこで降りるつもりでしたか?」といった子細を矢継ぎ早に訊ねるたびに、彼は戸田嶋の口元に耳を寄せ、虫の音のような返事を明瞭な日本語に変換して駅員にちゃっちゃと伝えていく。



 置き忘れたのは、午後から行われるイベント会場のディスプレイの設計図だ。

 オーナーの度重なるダメ出しにいいかげん愚図り始めた冨島(とみしま)先生に四十時間以上張り付き、ようやくラフスケッチにOKが出たのが五時間前。

 それからオートキャドで図面を引きスタッフのチェックが終わったのが一時間前だ。現場ではすぐに工事を始められるようにと、深夜から職人さんが待機している。

 一刻も早く現場に届けなければならないが、状況は絶望的だ。


 それでも戸田嶋は、何か方法はないかと気持ちを奮い立たせた。

 だってほんと、何とかしないとえらい怒られる。

 かといって肝心の図面はないし……、冨島先生はもう帰宅してしまったし、あれの印刷は専用のプリンターでないと無理だし、こうなったら残ってるスタッフさんにお願いするか……。


 あのぉ、失くしちゃったんで、も一回プリントしてくれませんかねえ?

 『んだとおら~、もういっぺん言ってみろ、置き忘れただとぉ!』

 『何やってんだこのバカ、くず! 役立たずぅ!』

 まずい。先生のお弟子さんに胸ぐらを掴まれて頭を前後にがくがく揺さぶられる感覚がリアルに想像できる。なのに出てきたことばは、 

 「あ~、もう、大丈夫です」


 その一方で『先生に張り付いて図面書かせるだけなんて、こ~んな簡単な仕事』、とこの仕事を振ってきた小巻主査にどんな言い訳ができるだろうかと考え、三秒でムリ、と見切りをつけた。


 頭はもう、どうしたら完全な逃亡が図れるだろうかと考え始めたそのときだった。


 「早く」

 戸田嶋は男の子に手を引っ張られた。


 「え、何」


 「この時間ならタクシーより早いですから」


 そういえばさっきから何かしゃべっていたような気がするが、聞いていなかった。しかしすでに自分を見失っている戸田嶋に手を振り払う気力はない。


 繋がれた手に引っ張られて転がるように階段を下り、奇異な目を向けられるのをものともせずに通路を走り、滑って転びそうになるのをすんでのところで抱えられ、息を乱しつつ駅の外に出てさらに走り、ひとつ角を曲がったそこは、駐輪場だった。


 彼はずらりと並んだ自転車のなかから、白い一台を引き出した。自転車はいわゆるママチャリで、前かごが付いているが荷台はなく、異様に逞しい変速機が異彩を放っている。


 「これ(かぶ)って。したらここの、車軸んとこにステップがありますから、そこに立ってください」と言って差し出したのは、

 え、ヘルメット?


 「それ、華(きゃしゃ)にみえますけどしっかりしてます、それ用なんで」

 それ用? て何。ていうかこれ、あなたのでは? 

 ああ、もしかして華奢ってヘルメットじゃなくてこの黒いステップのことか。などと戸惑っているくせに身体は無意識のうちに指示に従っている。


 彼はいつの間にか自転車に跨がっていた。そして、戸田嶋を振り向いてひと言。

 「ステップに立ったら僕の肩を掴んで。目は進行方向から逸らさないこと!」

 思わず「はい」と答えてしまったがおい、何をするつもりだ。


 問い(ただ)す間もなく、ゆっくりと自転車は動きだし、下り坂を利用して、じきにトップスピードに乗った。


 「ひえ~」


 目を(つむ)りそうになるのを必死に(こら)えて前方を見据える。


 信号待ちの長い車列をスノボ競技のスラロームのように縫い、信号が青に変わりきらない交差点に突っ込むと四方からクラクションが鳴らされた。

 おぉぉ、これはドップラー効果じゃないか、とどうでもいいことに感動する。

 道はやや下っているので、スピードに乗ると交通の流れより速い。なるほど、こりゃ確かにタクシーより早いかも。


 信号が赤に変わったばかりの交差点を車体を斜めにして右折すると、世界は大きく傾いた。転がり落ちるという恐怖でお尻の穴が(すぼ)まる。ひえ~。

 身体は恐怖から逃れようと本能的に修正を図るのだが掴んだ肩が一緒に斜めになるのだから自分も車体の一部にならざるを得ない。


 それに。

 慣れてくるとちょっと楽しいぞ。でも、このまま転んだらどうなるんだろう……。戸田嶋は、脳裏に浮かんだ『血塗れた膝小僧を抱える女の図』を降り払い、今の状況を受け入れてみた。

 したら何と! 恐怖の「ひえ~」はジェットコースターを楽しむ「ひぉえ~」に変わったではないか!



 しかし原宿に着き「急いで」と促されて地面に降り立ったそのとき、戸田嶋の膝は尋常じゃない勢いでがくがくと震えていた。


 そこで初めて、「ひぉえ~」は、心の防御本能が作り出した幻にすぎないことを思い知らされたのだった。


 「しっかり」


 「ごめん」


 ていうか無理、歩けない。立ってるだけでやっと。

 なので戸田嶋(へたしま)は左手で胸を押さえて鼓動を(しず)めつつ、もう一方の手の平を彼に向け、「ムリ」と宣言したのだが、彼はなぜだか、うしろを向いて腰を落とした。

 駅舎は横断歩道を渡った向こう側……。


 「え」


 「早くして」


 負ぶされってか。

 正気かこの子!

 

 躊躇(ためら)う素振りを見せながら、心はどこか踊っていた。

 弟みたいな雰囲気の見知らぬ男性の背中に! しかも湯気が立ち上る逞しい背中に、この状況で乗れってか? とへらへらしている自分が信じられない。


 だが夢見気分はそこまでだった。

 彼の背中に恐る恐る身を預けた瞬間、戸田嶋(へたしま)の膝は絡め取られ、その勢いのまま、うんしょっと腰に乗せられた。


 ベリベリタカハシのワゴンセールで買ったチノパンのお尻は蛙のように広げられ、Tシャツはまくれ上がって背中の半分が露わになった。

 何の刑罰よ! と進めに従った己の浅はかさを後悔したときにはもう遅かった。


 彼はわっしわっしと交差点に飛び込んでいった。歩行者用信号はとっくに点滅を終え、赤に変わっている。

 お願い、乱暴に走らないで、パンツ破けたらどうすんの。


 ぎりぎりで通り抜けたところで、見物していた人たちから拍手が起こった。

 この人たち、何でこんな時間からいるの?

 イヤだ、恥ずかしい。

 何人かがスマホを向けていた。

 SNSに上げられる。

 生き恥だー。

 あたしは外人さんの聖地、原宿で、借り物競争ごっこをやっている男の子に借りられた()()()()()()()()()として全世界に公開されるのだ。

 公開処刑じゃないかー。

 なんでこのわたしが!


この作品を見つけてくださりありがとうございます。

初回は、3episodeを掲載し、そのあとは週3~4回ペースで公開していく予定です。

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