最終話 冬晴れ
「やあ、幻神、土地の贄、“巫女”、ご機嫌いかが? ちなみにわたしは最悪だ」
暁神はふわふわとその場に浮かびながら額を押さえた。
この地は幻神の地。十二柱を統べる神といえど、地に足をつけることはできず。顕現できるのも初日の出が上がりきるまでだと言った。それまでに納得いく答えを得られねばこの地を忌地にすると。
「幻神、君はわたしが見つけたわたしのお気に入りだよ。わたしの気持ちを無下にして勝手に人間になるなんてひどいなあ。せっかく蝕神を遣わしたのに、けちょんけちょんにされて帰ってくるし」
「……蝕神をよこしたのは嫌がらせではなかったのか」
千影が眉を顰める。暁神は切れ長な瞳を丸くした。
暁色の美しい髪を簪でくくり、暁色の大袖を身にまとい、肩掛けの領巾がふんわり揺れる。さながら天女のような風体。
外見は麗しい女だったが、立ち振る舞いや口調は男性的に見えた。
「なんで? ああ、君と蝕神は仲が悪かったっけ? 地に落ちた幻神が帰ってこないなら、地上の穢れが溜まっているに決まっている。穢れを喰うなら蝕神が適任でしょ? わたしはただ、幻神が困っているなら手を貸してあげてくれと言いつけただけさ」
長い指で千影の顎を捕らえ、「あーあこんなに実体を持ってしまって」と残念そうにしていた。
「それで? 鏡といったか。君が『幻神』を継ぐっていうわけ? 君の答え次第で考えてあげてもいいよ。ものすごーく不本意だけど、十二の輪が欠けているのはよくないからね」
暁神は鏡のほうを見た。鏡は緊張した面持ちで姿勢を正す。
「はい。私が幻神を継ぎます。継がせてください。千年間、千影さまと一体化してきて来た私もまた『幻神』の性質を持っています。それに暁神さまが千影さまを『幻神』と定めたとき、私もその場にいました。だったら、私にもその資格があるのでは?」
「……屁理屈だけど、痛いところを突くねえ。確かに幻神か君かどちらかを指定したわけじゃない。でも、その身体はどうするの?」
すっと暁色の右目を細め、鏡の──巫女の胸元を指差した。
「誰かに憑りついて今まで生きてきた君はその巫女と完全に癒着してしまっている。どうやって切り離すの? わたしの問答とはそれだけだよ」
威圧感のある問いかけだった。試すような。未だに一人で地に立っていない鏡を責めるような。
鏡は一瞬身をすくませた。
「……本当はちゃんと分けていたのです。巫女さまの意識が常に表面に出るように。『私』と混ざり切らないように。でも蝕神さまの穢れを払いきるには私が完全にこの身体を乗っ取るしかなかった──明里、」
唐突に名を呼ばれ、神様同士のやり取りに気圧されていた明里はびくりと震えた。
「あなたに、最後のお願いがあります。この巫女さまの名前を呼んで。今の『私』ではない巫女さまを明確に思い浮かべて。それで、私をこの身体から切り離せます」
え、と明里は戸惑った。同じ狭い村の生まれ。巫女の名前は知っている。が、明確な鏡と巫女の違い。中身の区別の自信がなかった。鏡も千影と同じ性質のためか、依り代の巫女の口調や仕草をそのまま反映させていた。巫女とは立場上、贄になるまでほとんど接点がなかった。明里の知っている巫女は鏡が憑いてからの彼女。どこからが鏡でどこからが本来の彼女なのか? 焦る明里に、鏡は微笑み。
「よく、思い出して。あなたであるなら、分かるはず」
そうして、千冬の遺灰を見せた。明里は不意に思い出す。あれはまだ、幻神が来て間もなく。真夏の頃。棚機に幻神との輿入れを言い渡された日。
神様も村人も誰もかれもが敵に見えて、誰も明里を思いやるものはなく。けれど、たったひとりだけ。明里を気遣ってくれた人。
苦しい立場でありながら、隠し持つ遺灰に縋りつくしかない明里に助言してくれた言葉。
──せめて、あと二日、棚機まではその麻袋を外さないほうがいいわ。
あのとき。あのときだけ巫女は自分自身の言葉で話していた。神に仕える巫女としてだけではく、同じ年頃の娘が哀れむような忠告。あれは鏡ではない。彼女本来の優しさだ。
「……苦しい立場で、私のこと思いやってくださってありがとう。起きて、起きて巫女さま──澪さま」
ぱしゃん、と水が解けるように、巫女の身体が崩れ落ちた。
慌ててその身体を明里が支える。巫女はうっすらと目を開いた。夜空のような深い黒目。明里の手を借りて、覚束ないながらも地に立ち、「……いいえ、私の務めですから」と微笑んだ。清廉で凛としたいつもの巫女だった。
「よかった。ようやくお身体をお返しできました。本当にありがとうございました。巫女さま」
青年より高く、少女より低い声。
巫女が倒れたその場所に──少年が立っていた。眩い光に包まれて。蜃気楼のように透けた身体で。かつての千影と同じ蒼色の瞳で。誰も見たことのない、白衣の童子。けれど、やっぱりどこか千影と面差しの似た少年。
「──ありがとう明里。これで私は幻神になることができる」
少年は──鏡は千影に跪いた。千影は静かにその姿を見つめる。懐かしむように、その魂を見ていた。
「千影さま、私に『幻神』をお任せください。どうか、授けると」
「授ける。我が神名を鏡に与える──後を頼む」
躊躇なく、はっきりと千影が告げたあと。
「……お前とまた会えて嬉しい。蝕神や伴侶の贄を選ぶ際は気をつけるんだぞ。霜神や季神……水と相性のいい十二柱は俺とも懇意にしてくれていた。困ったら頼れ。……寂しくなったらこの村に来たらいい。ここは『幻神』の地。お前であるなら。いつでも来れる。──いつでも待っている。明里と」
そうして、その頭を撫でた。鏡は目を見開いたあと、うっすらと涙を浮かべ。
「ありがとうございます。私には諱がありますから、いくら姿を変えようと自分を見失いはしません。伴侶選びもあなたより上手くやって見せます。子は親の背中を見て育つと申しますから」
それは反面教師というやつでは、と千影がむすっとしたが、鏡は笑った。いたずらっぽい子どもの笑顔だった。
「千影さま、あなたに諱を頂いた代わりにあなたの身体に残したものがあります。私の心臓──人間の心臓が、あなたを人間としてこの先も歩ませてくれるでしょう。どうか末永く息災で」
千影は自分の胸を押さえ、脈打つ鼓動に手を当てた。血をめぐらす臓器。身体を動かす核。千影の身体に血が通っていた理由。千影が「……そうか、お前のおかげか」と礼を言うと、鏡は「礼には及びません」と首を振り。
「……私は望まれぬ子であり、口減らしであり、雨乞いの贄にされた赤子でした。誰にもいらないと言われた私に、名前を与えてくれて──愛情を与えてくれて、ありがとうございました。お母さん」
千影が再び頭を撫で、明里が微笑み、巫女が挨拶する。むむむ、と暁神は面白くなさそうに腕を組んだ。
「文句がつけられなくて悔しい。満を持して登場したわたしの立場がないじゃないか。あ、そうだ贄はどうする! 贄を連れ帰らないと幻神として認められないかも!」
「それでしたら……この遺灰に宿る魂を。蝕神さまが黄泉から連れてきてしまった千冬の魂。再び黄泉に還すのは明里も不安でしょう。天界にて浄化したく思います」
明里は目を見開いた。鏡の手のひらの上の遺灰。鏡は大事そうに抱えてたが、暁神がわめいた。
「死者!? 伴侶にはできないよ!」
「ですが暁神さま、贄の条件は“十年は地に足をつけた人間”だとおっしゃっていましたよね。千冬は該当します。死の淵を一度彷徨った私なら死の不浄も耐性がある。私は神としてはまだ未熟者ですので、伴侶は早いです。連れて行くだけでいいなら最初の贄としてはふさわしいかと。それに無関係の魂を私情で利用した蝕神さまのせいです。上司が責任を取るべきです」
「……君、やっぱり屁理屈じゃない? 可愛くないよ? 土地の贄ならこのアカリって子が一番ふさわしいんだから! 多少神気もあるみたいだし」
と、いきなり暁神が明里の手を取った。ものすごい剣幕で千影がべちん、と暁神の手を叩き、明里を胸に抱きよせ、
「明里はもう贄じゃない、俺の妻だ! 勝手なこと言うな!」
「そ、そうです、私はもう人妻です。お断りいたします」
「暁神さま、巫女としては進言しにくいのですが、このお二人には手を出さないで頂けますか。引き離すと大災厄を引き起こしかねません。村の者として困ります」
「……私も、親の想い人はちょっと……」
「んもー分かった! 分かったよ!? 認めればいいんでしょ認めれば! 心配して来るんじゃなかったなあ! さっさと天界に還るよ! 『幻神』!」
千影と明里と巫女と鏡に詰め寄られて、暁神はやけくそ気味に折れた。初日の出がもうじき上がりきる。辺りは日に照らされて、ふわりと暁神と鏡の身体が浮いた。──刻限だ。鏡は最後にもう一度、千影と明里を見つめた。
「千影さまにも明里にも化生としての若干の“揺らぎ”はあります。けれど、それもこの村に……人の輪の中にいればおのずと落ち着いていくはずです。環境というのはとても大事なものですから。だから、自分を大切に、伴侶を大切に、周りの人を大切にしてください。手の届く範囲でいいから」
そうして、鏡はにっこりと微笑んで大きく手を振った。
「千冬の遺灰は必ず私が浄化して、御仏のもとに連れてゆきます。この國の神様だって、死に関すること、供養や鎮魂。苦手な分野は異国から訪れた御仏に頼っているのですから。必要なところはくっつき、苦手なことは分担し合う。人間も神仏も支え合い、補い合いです。だからどうか、この先も頑張って」
明里は手を振り返し、声を張って叫んだ。
「鏡さま、ありがとうございます! 千冬のこと、お願いいたします!」
「はい。こちらこそ、千影さまをよろしくお願いいたします」
暁神が鏡を先導し、光の中に消える。鏡は衣を翻し、幸いを言祝いだ。
「それでは皆々様、御達者で。いろいろとありがとうございました。この地に祝福を。お二人に言祝ぎを。皆様に幸多からんことを」
朝日がその場をきらめかせ。眩しさに明里が目を伏せ、次に開いたときには。
そこには普段となにも変わりない。晴れやかな冬晴れが広がっていた。雲一つない澄みきった晴天。
千影はもう戻ることのない空を見上げ、そして、新年のにぎわいで活気づいていく村中を見下ろした。
「……村の者にも世話になった。新年の挨拶もかねて、礼に行かねば。俺が人間になったと知ったらどう思うだろうか。また厄介なことになるだろうか。それともあっさりと受け入れてくれるだろうか」
「……それは分かりません。でも千影さまが危ないときに村の人は総出で来てくれました。だからきっと大丈夫──それに、もしまた問題が起きても、どうにかなります。どうにかしましょう」
今まで、ふたりがそうしてきたように。
千影は明里の手を繋ぎ、柔らかく微笑んだ。
「明里。俺はお前を大事にする。お前がくれた俺を大事にする。お前が生まれたこの地を大事にする。きっとまだまだ覚束ないけれど、どうか俺とともに、俺の隣で、俺と一緒に、この地で生きていくれ。──おれのあかり」
明里はまぼろしではない自らの伴侶を見つめ返した。初めて出会ったときの上面だけの愛の言葉よりずっと、その重みがしっくりくる。いろんな絆を積み重ねてきたからこその重さだった。
幻神が降り立った日。
露草の夕べ。
棚機の夜。
名前を付けた日。
仮初めの祝言を挙げた日。
喧嘩した日。
好きだと言われた日、好きだと気づいた日。
傷を負い、傷を癒し。
こじれ、千切れ、結び直し。
そうしてふたりはふたりのかたちを何度も築いてきた。
「はい。喜んで。──わたしのあなた」
きっとそれは、これからもずっと、続いていく。