幕間 産声──幻神の最初と最後の贄の話
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
(──……うるさい)
心地よく、揺蕩っていたのに。
けたたましい泣き声で、目を覚ました。
理性も、常識もなく、ただ本能のまま、わめき散らす声。
水の中でそんなに憚りもなく泣き叫ぶから。
あっという間に、がぶがぶ水を飲み込み、水底に沈んでいった。
(うるさいな)
それでも、まだ声が止まない。
心の中で、空気の中で、水の中で。
助けを求め、庇護してくれる誰かを求め、轟く悲鳴。
あんまりにも喧しいので、その生き物が望む姿を、この身に映した。
抱きかかえるために両腕が生えた。
水面から出るために両足が生えた。
赤子の顔を見るために、両目が光りを宿した。
“母親”の姿で初めてカタチになった神様は、腕の中の赤子を見つめ、その頬をなぞる。
赤子は小さく咳き込んだあと、静かになった。
(……まだ息がある)
死の不浄で水が穢されなくて、よかった。
人々が神聖視しているこの小川は、澄んでいるからこそ価値がある。
人々の飲み水になり、傷口を洗い、作物を育む。
清らかであれと大事にされてきた神様は、赤子を抱え、岸辺に横たえた。
水から出てしまえば赤子の生死はどうでもいい。手を離そうとすると。
赤子が神様の衣を掴んだ。
離れようとする自分を見て、再び火が付いたようにわめきだした。
理性もなく、常識もなく、がむしゃらに。
その赤子は本物の母親ではなく、今目の前の神様のぬくもりを確かに求めていた。
──遠い昔。
神様もあやかしもそこら中から湧き出ていて、人間よりずっと数も多かった。
国造りの神様が水浴びしたり、火をおこしたり、血を流したりするだけで、ぽこぽこと新たな神は生まれた。八百万に増えた神々は、ある者は人間と交わり、霊力の高い存在を生み出したり、ある者は山や川と一体化して霊水や霊山と呼ばれ、ある者はあやかしや幽鬼と呼ばれる存在になっていった。
とある川の主もそうして生まれたひとり。もともと神聖視されていた川に、多くの人々が水面に顔を映し続けたことによって、生まれ出でた水影の異形。この國はそんな簡単な理由でも、神様は生まれる。『水神』としての信仰が高まったのは、日照りが続き、雨乞いのために赤子が投げ込まれたあとからだ。
たまたま通りかかった土地の者が、“母親”の姿で赤子をあやしている神様を目撃した。赤子はいつの間にか姿を消したけれど、“母親”はそのまま水辺に取り残され続けていた。「水神様がお食べになった」とその地では評判になった。声をかけても、反応はなく。身体が透けて実体はない“母親”に、村人は畏れて誰も近寄らなかった。
とある雨の日。
「なんとまあ、愚か者がいたものだ。諱を手放すなんて」
唐突に、快活な明るい声が話しかけてきた。「君だよ、君。神様もどきの君」と、その呼びかけでようやく目を向ける。
「参ったなあ。この辺りに名のある水神がいると聞いて足を運んでみたら、水神というより幽鬼じゃないか。ねえ、そうやって君がずっと泣いてるから、この辺りの村が水浸しになっているよ。気づいてないの?」
年若い娘は、清廉さを宿した外見とは釣り合わない軽快な口調で、まじまじと“母親”を見た。
「ふーん。たまたま落ちてきた赤子に情が湧いて、諱まで手放したけど、助からなかったから悲しんでいる。別に面白くもない普通の話だね。人間の顔を映し取っていたせいか、君はだいぶ感覚が人間寄りだ」
そう肩をすくめる女も、巫女装束を身にまとっている人間──のように見えたが、その右目は暁色に輝いていた。
「ああ、お前も人間のくせになんだ、という顔だね? わたしは神様であって人間でもある存在……いや、別にややこしい話ではないよ。単に、この巫女に憑依しているだけさ。今話しているわたしはね、暁神。夜明けを司る始まりの神様。なーに、用事が済めばすぐに身体は返すよ。巫女とは神に仕えるだけではなく憑依による神託を行う存在だからね。だから、君にも声が届くってわけ。ご理解いただけたかな?」
尋ねてもいないのに、巫女に憑依した暁神はぺらぺらと語りだした。
「この國はやたらめったら神様が多いだろ? 火の神なら火の神、水の神なら水の神の長を決めることになったんだよ。そのほうが信仰も支配もしやすいからね。我々と人間の権力者ってやつの利害が一致したということさ。一月から十二月までの十二柱。それにふさわしい名のある神を勧誘するために、この巫女の姿で全国を練り歩いている。ここに有名な水神がいると聞いてきたのに、まさか諱を失っているとは驚きだ」
演技めいた口調で、暁神は同じ文句を繰り返した。すっと輝く右目を細め。
「身を削って大事なものを与えてしまっては、それは助けたとは言わないよ。それは共倒れっていうんだよ。それが証拠に、君の諱を授けられた赤子は黄泉の國に行くこともできず、神様にもなりきれず」
暁神は“母親”の心臓に向けて指差した。
「君をずっと心配して、今も君のそばにいる」
“母親”は胡乱げに、指差された心臓を見たが、何も見えず。何も感じず。首を傾げるばかりだった。
「いずれこの地の人間が、君を『水神』から『幽鬼』と呼ぶようになれば、君も赤子も、そういう在り方になってしまうだろうね。それはそれでかまわないけれど、ちょっと惜しいな。私は愚か者は嫌いだけれど、無垢な者は好きなんだ。君は愚かしいほど無垢だからね」
ぱん、と手を叩き、暁神は言った。
「君に神名を授けよう。十二柱の内のひと柱になっておくれ。嫌だって言っても聞かないからね。神様が気に入ったと言ったなら、逃れる術はないから諦めることだ」
“母親”がうんともすんとも言わないでいると、暁神は、ふむ、と悩み。
「諱もカタチもない君をどうすれば十二柱にできるかって? 心配することはない。今の在り方をそのまま神名にすればいいだけさ。中身が空っぽの葛籠も、豪勢に飾り付けてしまえば、蓋を開けない限り宝箱との違いは分からない。そういうことだよ」
異形でもあり、神様でもあり、幽鬼でもある今の状態の“母親”は、逆に言えばどれにだってなれる可能性がある。
──そうあれと、誰かが名付けてしまえば。
「傍目から見れば、お前は赤子を捧げられて雨を降らした神様とも言える。でも、贄を赤子にするのはやめたほうがいいな。産まれたばかりの子は生死の境界があやふやすぎて、すぐに命を落としかねない。せっかく授けた神名すらも君はまた与えかねないし。贄はせめて十年は地に足をつけた人間にしよう。いい? いいよね。じゃあ決定」
“母親”に考える力がないと分かっていて、暁神はわざわざ口に出して確認する。神託を行う。言霊を放つ。
「さて、肝心の神名だけれど……今の君は水神というよりは水辺の蜃気楼。霞。水影──まぼろし。幻神、でいいかな? いいよね。よろしくね。 まぼろしの神。『幻神』」
その名をつけられた瞬間に、“母親”のカタチは解けて霧散した。意識が揺蕩い、霧のように粉々になる。「儀式の時期が来たら呼ぶからさ、のんびりしてていいよー」と暁神の呑気な声がした。
「……離れるかと思ったら赤子も憑いていってしまったか。まあいい、そのうち君を実体化してくれる贄が見つかるといいね。わたしにとってはどうでもいいことだけれど」
神様なんてものは、大らかで自分勝手で、人の気なんて知らないものだから。
降り続いていた雨は止み、雲の端から夜明けが差す。
雨でぬかるんだ地を暁色に染め上げた。
その後、暁神は同じように各地を回り、十二柱に据える神々を選別していった。
八百万の神々はそれぞれの自身の特性に従い、十二柱を筆頭に、その配下に置かれるようになる。
十二柱に定められた神様は以下の通り。
一月 暁神
夜明けを司る始まりの神。宵神と対の存在。その右目は陽のように輝く。
二月 霜神
全て白銀で覆い尽くす。雪と氷を司る神。純白なその姿は、一欠片の温もりすら受け付けない。
三月 狩神
獣と狩猟を司る神。狩りという行為はこの神への信仰である。獣の特徴をもった姿で現れる。
四月 季神
四季を司り、気まぐれで人々を弄ぶ神。草木を纏った姿で現れる。
五月 憂神
人の心の浮き沈み司る神。常に拝顔は叶わず、その感情を読むことは難しい。
六月 幻神
幻惑を司る神。決まった見た目は無く、見るものが望む姿で現れる。
七月 嵐神
災と恵みをもたらす嵐の神。角を持つその姿は、人の身より遥かに大柄である。
八月 戦神
戦を司る神。時に激しく時に冷静をもたらすこの神は、軍神と呼ばれた英雄に酷似する。
九月 美神
美や芸事を司る神。美しいものを慈しみ、醜いものを忌避する。その姿は光り輝くように美しい。
十月 蝕神
魂を喰らう陰の神。嫌悪される者たちを救う神ともされる。恐ろしく忌まわしい姿をしているという。
十一月 炉神
火と技を司る神。炉に火を焚くべる者に、自身が纏う恩寵の火をもたらすという。
十二月 宵神
黄昏を司る終わりの神、暁神と対の存在。その左目は月のように輝く。
──この國にはしきたりがある。
一月から十二月。暦に割り振られた十二柱の神様に、その生まれ月の若者が贄に選ばれ、伴侶として捧げられる儀式。十二年に一度、一柱のみ伴侶が選ばれる習わし。
伴侶となった贄は、それぞれ神の国に招かれて、その後どうなるのかは定かではない。
そういう昔話がゆっくりと各地に広がっていった。
***
声が聞こえた。誰かを恋しいと願う声。
國の信仰と支配をまとめるために形式化された儀式も、もう千年は続いている。
他の神々と違って諱のない幻神は、贄がカタチを結ばねば、普段は霞そのものだ。
最初のころは、助けられなかった赤子のことも、あやふやながら覚えていた。
今度こそは助けたくて、救いたくて。また、あんなふうに自分を求めてほしくて。
けれど、自分のない神様は、偽物を演じるうちにそんなことも、忘れてしまった。
壊れていくばかりの、贄。
救えないばかりの、魂。
どんなに愛を与えてみても、返ってくるのは本物への愛の言葉。
呼ばれるのは自分ではない誰かの名前。
慈愛も偏愛も手に入らず。救うなんて、夢のまた夢で。
心は乾いたまま。空虚なまま。それに気づくこともないまま。
どうして、なんで、と思うたびに。
写し身と自分自身のずれが徐々に大きくなっていく。
……
………。
その想い人は、川で溺れて亡くなったらしい。
贄が呼んでいる。
激しい。激流のような感情。引きずられるように呼び寄せられて。
気がついたらその場に立っていた。
蒸し暑い、六月の雨。今回の贄はなんの変哲もない村娘で、こちらを見て大きく瞠目した。
「──っちふゆ!」
名前を呼ばれた瞬間に、自身の造形ができあがる。
涙をこぼした娘が、こちらに駆けてくる。両手を広げた瞬間に。
死の匂いが鼻についた。
死。
──いやだ。
完全に写し身に成り代わる瞬間に、余計な感情が入った。
そのせいで、声の調整がぶれた。
「──カタチをエた」
普段であるならば、瞬きひとつする間に、完全になるはずだったのに。
そのずれを贄は見逃さなかった。怯えながら、身を離す。その胸元から死臭がする
「──さあ、明里。迎えにきた。俺と一緒になろう。俺と添い遂げよう。俺と、一緒に──カミの国に来てくれ」
死の匂いの原因は、想い人の遺品を贄が身に着けているからだ。遺髪か遺灰か。どちらにせよ、拒絶反応が出てうまく惑わしきれない。
贄の娘は大きく顔をゆがめ、夢から覚めたように現実に立ち返って。
目の前の『なにか』を真っ直ぐに見つめた。
「あなた、いったい、誰?」
それからは、初めての連続だった。
正直、この贄──明里のことは。最悪なんじゃないかとすら思った。
面倒だとも、腹立たしいとも思った。そう思うこと自体が新鮮で、慣れない地上の生活も予想外の連続で。
「あなたは、千冬なんかじゃ、ない」
鏡に亀裂が入り。
「あなたのこと、ちゃんと、知りたいです」
はじめて、手を差し伸べられ。
「消えてほしくなかったから、いて、ほしかったから、です」
はじめて、引き留められて。
「私、あなたにちゃんと──恋がしたいんです」
好きになってくれようと、した。
死んでしまった本物でもなく、偽物を演じる自分でもなく。
ありのままの自分自身を見てくれた。
それがどんなに胸を震わせたかなんて、きっと明里は知る由もない。
「──千影さま」
その名前を呼ばれるたびに、ほんの少しずつ、少しずつ、『幻神』の在り方は削がれていく。
土地に名前が根付いていく。
自分自身を知っていく。
まぼろしでは、なくなっていく。
それは言い換えれば、『幻神』を殺し続けているということ。
名前を呼ぶだけで、わずかな『神殺し』をずっと続けているということ。
その言霊で、少しずつ千影は人間へと近づき、その跳ね返りで、明里は少しずつ神気を得ていた。
それが分かっていて、千影は止めることできない。
こんな奇跡はもう二度と起こりえないと分かっているから。
手離したくない。諦めたくない。
この恋が叶うのなら。
神様になんか戻れなくなったって。
きっと後悔はない。
─────
作中に出てくる十二人の神様の設定は、
スキイチpixiv6月企画「神々の伴侶」(募集終了済)からの引用になります。
https://dic.pixiv.net/a/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E4%BC%B4%E4%BE%B6




