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まぼろしの恋  作者: ちづ
4章 神様と血を流す
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38 夜光

──あかり


 頭の中で、声がした。

 ふきの叫び声と女たちのすすり泣きが響く中、水を打ったような静かな声だった。


 ──泣くな、明里。まだ間に合う。


「千影さま……?」


 その声に反応し明里の瞳がジャの目に光る。どうしてか千影がそばにいる。そんな気配がした。


「赤子はまだ死んでいない。仮死状態になっているだけだ」


 頭の中の反響する声と二重に被さるように、産屋うぶやの外から声がした。

 明里が産屋の戸口に視線を向ける。産婆も、にしきにも『そちら』の声は聞こえたようだ。


「……千影さま、そこにいらっしゃるのですか?」


 明里が声をかけると、ああ、と確かな声音が響いた。


「お前の悲鳴が、この場の者たちの嘆きが、俺に届いた。ここを開けてくれないか。早くしないと赤子が持たない」

「え……?」

「俺は忌屋いみやの中には入れない。血の不浄が強すぎて踏み込むことができない。少しでいい、直接赤子を見せてほしい」


 おだかやかで優しい千影の声だったが、明里は何故か一瞬躊躇した。

 ずっと母体のふきと同調していたせいか、女の本能のためか、人ならざるモノに対する警戒か。

 それは産婆も同じだったようで。


「ならぬ」


 迷う明里に、厳しい顔で産婆は強く遮った。


「なんのための忌屋いみやだと思っておる。けがれの女──気枯けがれの女、身体の弱っている女しかいない場所。産まれたばかりの子にも女にも迂闊に手出しさせないため。少なくともこの村ではそのために『忌屋いみや』などどわざわざ名付けておる」


 産婆は血色の悪くなっていく赤子を抱いて、怯えたように肩を震わせた。


「昔、村外れに産屋があったとき、野盗たちに襲われて数多の女が命を落としたことがある。手負いだからと同情し産屋の中に招いたばかりに。──長老さまの奥方も、そうして亡くなったのじゃ」


 明里は目を瞬かせた。蕗に同調と共鳴してすすり泣く女たちの中で唯一、産婆だけはずっと冷静だった。


「長老さまの奥方は優しく信仰に厚い方だった。そして、その優しさゆえ、手負いの野盗を見捨てられず亡くなった。長老さまが神仏を信じず、利用するのみと定めたのはそれからじゃ」


 産婆は唇を噛み締めた。赤子を助けたいのは産婆とて同じであるが。


「儂も同意見じゃ。お産は命がけ。むやみやたらに出だしする者、邪魔する者を許すわけには行かぬ。女たちの嘆きがあなた様を呼び寄せてしまったのは申し訳ないが、幻神さまはいったいこの子になんの関係がある。神様であろうと余計なことはしないでもらいたい。神仏にいくらお縋りしようとも、助からぬものは助からぬ」


 その言葉にはたくさんの赤子を取り上げ、そして看取ってきた産婆の矜持と責任が窺えた。

 定め事を破っては、禁域を侵しては意味がない。誰でも入れるようになってしまっては守りは守りではなくなり、いつか不幸を呼びこむ。

 目の前の蕗の子だけではなく、これから生まれゆくまだ見ぬ赤子と母親たちのことを産婆は憂いていた。


「……危害を加える気は毛頭ない。蕗にも、赤子にも、この場の女たちにも。それは誓う」


 戸口の外から静かな千影の声が響く。明里は迷った。

 産婆は母親と赤子を心配していたが、明里は千影側に対しても懸念がある。

 ここは忌屋。血、死、穢れ、不浄。それらに千影はずっと拒絶反応を示していた。おそらくは神様の根本的な禁忌。


 千影を赤子に近づけていいのか。──大丈夫なのか、なにか、間違えてはいないか。


「助からぬ命なら俺もどうこう言うつもりはない。けれど、その子は、まだ、生きている。心音がする。だから、はやく」

 

 おだやかな千影の声に、焦りが見え始めた。それでも努めて静かに声をかけ続けていた。


「明里、頼む。俺も、()()()()──その産声があがらないのは耐えがたいんだ」


 その言葉で明里は心を決めた。猶予がない。考えている暇がない。

 仮死状態にしろ、呼吸が止まっているのは確かだ。

 明里が蕗に向き直った途端に蕗が叫んだ。


「なんでもいい! 助けてくれるなら、神様だろうが、あやかしだろうがなんでもいい! お願い、あたしの赤ちゃんを助けて!!」


 承諾を得た。で、あるならば、明里はあとは繋ぐだけだ。


「……蕗は、私の血縁で」


 泣き晴らした従姉妹を抱きしめる。


「千影さまは、私の、伴侶です」


 忌屋の外の愛しい人を思い浮かべる。


「無関係ではありません。繋がりなら、あります。千影さまが赤子に危害を加えるような真似したら──妻の私が、必ず責任を取ります。だから、どうか。産婆さん、お願いします。赤子を少しだけ外に」


 産婆は赤子を抱いたまま、明里の言葉に押し黙った。


「ばあさん、わたしからもお願いします。千影さんは信頼できます。長老にも認められた人です。──それにどのみち、このままでは」


 にしきも口添えしてくれた。部屋の隅の女たちも、産婆を心配げに窺う。

 産婆は一度だけ迷うように目を閉じたが、すぐに覚悟を決めた。


「今回だけじゃぞ」


 そうはいったが、赤子を錦にも明里にも預けはしなかった。

 首の据わらない赤子は抱き方ひとつで悩に影響を与えることもある。

 蕗が必死について来ようとしたが、錦がそれをとどめ、部屋にいるように説得する。

 明里は産婆の前に立ち、産屋の戸口を開いた。


 さあ、と冷気を纏った夜風が頬を撫ぜる。

 一歩、外に出ただけだというのに、血の匂いのしない、別世界。


 産屋の中がどれほど異様な空間だったか。熱気まで孕んでいたはずなのに、外はこんなにもいつも通り。

 辺りはすっかり夜に落ちていて、月がぼんやり山の端に浮かんでいた。


 その月明かりの下、千影は佇んでいた。

 音もなく、ただ静かに。


 風に揺られる黒髪も、美しい翡翠ひすいの耳飾りも、身に馴染んだ露草色の水干も、いつもとなんら変わらないのに。

 何故か、明里はそのとき、『千影』の名前を呼ぶことが憚られた。

 深い蒼の瞳が明里を通り越して、産婆が抱いた赤子に向けられている。

 千影は足を一歩踏み出した。厳かに、背筋を正したまま。

 静かな足さばきで近づいてくる。


 ──本当に、まったく、今はそんな状況じゃないのに。


 なぜか明里はあの三々九度さんさんくどの日の、仮初めの祝言の日を思い出した。

 社の境内で、明里の隣に連れ立って歩いた千影が、芯から『神様』であると理解した日を。

 ほんのりと青白く光る、神様は。ぐぐ、と瞳孔を広げ、物言わぬ赤子を凝視した。


「赤子の喉に母胎の水がたまっている。──これならば」


 千影は左手を赤子に伸ばした。柔らかく、白く、傷のない女性的な長い指先。

 指先が触れる瞬間、産婆は赤子を強く抱きしめた。

 けれど、千影は微笑みを浮かべた。その笑顔が明里の目に焼きついた。


 千冬にも見えたし、何故か、蕗にも見えた。全然知らない、女性にも見えた。

 男なのか女なのか。その印象がぶれるような微笑みだった。


「──ああ、よかった。()()()()()()()


 そうして迷いなく、左手の指先が血濡れた赤子の喉に触れ、なにかをぴん、と弾いた。

 

 れた。さわった。

 さわった。



 瞬間──カッとぜるような光が場を包み。


 次いで、バキバキバキッと、陶器がヒビ割れるような亀裂音が響き渡った。

 まばゆい光に目が眩み、明里は思わず瞳を閉じた。なにが起きたか理解する前に。

 オギャア、と産婆の腕の中で声がした。


 オギャア、オギャア、オギャア。


 一度泣き始めると、堰を切ったように甲高く赤子は咆哮ほうこうした。

 この世に生まれ出でた、その証明のように。


 全身の力が抜ける。

 よかった。

 呼吸をした。産声をあげた。──生きている。


「千影さま、ありが……」


 明里は千影のほうに目を向け、ぎくり、と強張った。

 ぼたた、とぬるついた真っ赤な液体が、大量に伝い落ち。


「……っぐ、」


 先ほどまでの清浄さは霧散し、そこにはいつもの千影が、左腕を押さえて苦悶の声を上げていた。

 千影の顔は真っ青で、唇すら青白く。

 赤子に触れた、左手から、左腕、左肩、左頬に、血の線がほとばしったようなヒビ割れが浮かび。

 それは千影の左目まで達し。


「──……千影さまっ!!」


 その亀裂から絶え間なく、血がしたたり落ちていた。

 神様は、血を流していた。

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