第4話 わたしの名前なんていうのはどうでもいい
そしてふと気づいた。こちらが向こうの顔を思わず見つめてしまっているのと同じく、向こうもこちらをまっすぐに見上げ、見つめ返している。
なんだか急にきまりが悪くなって、わたしは視線を逸らした。
「……わたしの顔に、なにかついてますか」
「あら、ごめんなさい」彼女は微笑んだ。涼やかでありがら、どこか幼い少女のような声でもあった。「あなたが、わたしのお友達に似ていたものだから」
「そんなことより、あなた。夜間は自室から出てはいけない決まりでしょう。あなたのことを自治会に報告させてもらいます」
「まあ」
「それで、あなたの名前は?」
改めてその女の顔を見てみるが……しかし、見覚えはなかった。少なくとも同じ学級の人間ではないはずだ。こんな美人がいたら、嫌でも印象に残っているだろう。
彼女は悪戯っぽく笑った。
「わたしの名前をいうのもやぶさかではないけど……その前に、あなたの名前を教えてくださる?」
「はあ?」
「だって、わたしからしたらあなたが何者かわからないもの。もしかしたら、あなたも夜遊びが好きな単なる不良少女かもしれない」
どこかおっとりとしている彼女が、存外に反論してきたものだから、わたしはやや気圧されてしまう。
「……監督生補佐のヘレンです。自治会活動の一環として、夜の見回りを任されています」
わたしはしぶしぶと答えた。
──本当は、自分の名前なんてものを口にしたくはない。
自分が名乗ると、たいていの相手は一瞬だけ間をおいて、こちらの顔の造りをじろりと一瞥する。そしてその目の奥に、ああなるほど『ヘレン』の名の通りだ──と言わんばかりの、嘲りの色をほのめかすのが常だった。
生まれてからずっとそうだった。
どうせこの女だって同じような反応をするだろう……と身構えていた。
しかし、彼女は途端に嬉しそうに笑った。
「あなたもヘレンっていうのね! わたしのお友達も、ヘレンって名前なの」
「別に、珍しくもないでしょう。聖女様から名前をいただくのは。ちょっと古風かもしれないけれど」
「そうね、ヘレン、素敵な名前だわ」
「……」
皮肉を言っているのだろうか? しかし彼女の顔は子犬のように人懐こく、言葉の裏を読みとることはできなかった。
実際、ほかの聖女たちの名前ならともかく、わざわざ聖女ヘレンの名前を拝することは、そう多くはない。いったいどこの親が好き好んで、大陸でもっとも有名な醜女の名前を我が子につけようと思うのだろうか? ……この名前をありがたがるのは、一部の辺境地域、大陸南部の沿岸地域のみである。聖女ヘレン様はおらが村の出身だとそれぞれに主張するいくつかの小さな漁村での命名がもっぱらだ。
実際のところ、わたしの父は海運で成り上がった成金であるが、このの故郷の迷信を信じていた。父は「海の男にとっては醜女こそ縁起がいいんだからな」といってはばからなかった。
……いや、わたしの名前なんていうのはどうでもいい。
「あなた、名前を教えなさい」とわたしは改めて詰め寄る。
「ドロレス」と彼女はなんてことないように答えた。
「……あ、そう。ドロレスさんね」
名は体を表すというやつか。やれやれ、大した名前だこと。