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人魚の湖

作者: 綾川混沌



 日頃からそこで仕事をしている、古びた木製の書き物机を手で撫ぜた。

 ぼんやりとした昼下がりであった。閉ざされたブラインドから漏れた光が、私の体を温くしている。



「お祖父様!」



 と言いながら少女が入ってきた。きっとまた、新しい本をせがまれるのだろう。

 椅子の向きを変え、陽だまりの中に身をやつす。



「またご本が欲しいのかい?」


「いいえ。お母様から秘密を聞いたの。

 今日はお祖父様の、人魚のお話を聞かせてほしいわ!」


「そうか、そうか。どうやら秘密を知られてしまったらしい──。

 ……いいや、でもな。また機会があったら話してあげよう」



 その返答に、少女はあからさまに不満気に頬を膨らませた。

 


「どうして?

 私が子供だから?」


 今までもそのように誤魔化されてきたことに不満なのであろう。

 大人の虚飾が許せない、と言わんばかりに真っ直ぐこちらを向いている。



「誤解だよ、そうじゃない。

 君が真っ当に美しく生きているからこそ、人魚の話は必要ないんだ」


「なによそれ……」



 少女はあまり納得出来ていなそうだったが、老人の言葉に嘘がないことは感じとったようだった。


 ただ──、と老人は口にしなかった続きを思う。


 ただ、私のような外れた人間だからこそ、この世ならざる人魚を見たのだろう、と。





******




 その時分、まだ若かった俺は挫折を味わった末に、とある山に入って首でもくくろうかと考えていた。

 それに至るまでの経緯は割愛するが、恋人に騙され金品をむしり取られた末、一文無しとなってしまい、家も追い出されたのだ。当時は、ほとほと人間に嫌気が差しており、心を病み他人に当たる始末であった。厭世家、というより「人間とはなんと生き汚いものなのだ」と失望していた。


 まったく見知らぬ土地までふらふらとやって来たが、私の様相が異常だったのか、道行く人々が皆私に話しかけてくる。やれ「変な気は起こさんで欲しい」だの、「怪物に食われちまうぞ」だの。くそ食らえや、と聞き入れなかったのだが、「人魚に会うつもりか?」と聞かれた時には、つい興味を引かれてしまい「なんだ?人魚とやらは」と聞き返してしまった。

 曰く、その山には珍しく大きな湖があるらしい。そこで、夜な夜な美しい歌声と煌めく鱗が見えると言う。いかにも眉唾ものだ。どうせ俺みたいな輩のためのお為ごかしに過ぎない。どこで死のうと俺の勝手だ。そう思いながら、山への道を歩み続けた。


 人の手が入っているようには見えない荒れ地であった。高く伸びた草の根をかき分けながら、山を登った。日は暮れかけていて、俺の頬は橙色に染められる。暗くなる前に、丈夫で縄をかけられそうな大木を探そうと思った。辺りの木が少ない場所に出た。見晴らしが良く、下の村が見えそうだ。そう思い、一望してみた。

 驚いた。記憶はなかったのだが、思ったよりも高くまで登っていたらしい。村の家が小指ほどの小ささに見える。今なら村全体が片手に収まりそうだ。思えば遠くまで登ってきたものだ。見下ろしながら思った。「これでもうおさらばだ」人間なんて醜い生き物たちとはもう、遠く離れた天へと昇ってやる。見下すには十分な高度があるだろう、と俺はこの山を気に入った。ああ、死ぬには良い場所だ。


 次に俺を驚かせたのは、「本当に山に湖があったのか」ということだった。透き通った、大きい湖がそこにあった。辺りは開けていて、木々もなかった。ここも同じように下の村が見えた。俺はそれを見ながら、他人事のように見下ろして、夜を明かそうと思った。

 それにしても、胸まですうっと風が通りそうな寒々しい場所であった。森でありながら、木々が近くにないことがそう思わせるのだろうか。空はすっかり暗くなっていた。俺は水縁に寝っ転がり、目を瞑った。


 ……いつの間にか眠ってしまっていた。どれくらい時間が経ったのだろう。

 川のせせらぎのような歌声が耳朶をくすぐる。人間のものとは思えないように純粋な歌声だった。風のざわめきの中に溶け込むような、まるで同質の自然のような。しかし、その歌声には祈りのような感情が篭っていた。

 目を開く。月光がその鱗に反射してチラチラと輝く。ガラス玉のような瞳が月を見ていた。


 ──俺は、人魚に会った。



******




 人魚は歌い続けた。俺が聞いていることなど関係ないように。


 それは俺の知らない旋律で、どこか賛美歌のようだった。しかし、そのように秩序だったものは感じなかった。であるから、俺はその歌がどう終わるのか全く予想がつかなかったのだが、その終わりは突然にやって来た。

 しいん、と沈黙が夜の空を一拍響かせた後、俺は人魚に向かって拍手をした。人魚は水音を立てながらこちらを振り返った。その唇が震え、「あなたはだあれ?」と意味のある音を発した。


 俺は感動のような、えも言えぬ興奮に心を躍らせていた。あの人魚が、俺の分かる言葉を繰るという事実によって。「話したい」という心からの欲求が叶うと分かったからだ。


 俺は、幻想的で美しいこの人魚に、なんと話して良いのか分からなかった。

 逡巡、一間。俗な臆病に吹かれた俺とは対照的に、人魚はその揺るがない存在を崩さない。彼女はその人の手で、魚の鱗を柔らかく撫でていた。


 俺が恐れていた沈黙は、人魚によって破られた。「この山に人が来るなんて久しぶりだわ」その声は、先ほどの歌声と同じ質だったが、響き方がまるで違った。急に篭ったように、その声は曇りがかった。

 俺は、意を決して話し出す。



「……君は、ずっとここにいるのか?」


「いいえ、私は生まれついての人魚ってわけじゃあないの」


「じゃあ何だったって言うんだ?」


「もともとは人間だったの。ただの、歌が好きな少女」



 俺は、魅惑的な彼女の鱗を見つめながら、その悲しげに伏せられた瞳と目を合わせることが出来なかった。

 意味のある会話は続いていて、生ぬるい風が木々の隙間を通り抜けて俺にぶつかっている。ただ、どこまで行っても、その他の出来事の全てが気怠い。俺は彼女のことをずっと見つめている。


 彼女はただ泰然としていて、俺の返答を待っていた。そして、ぼうっと立っている俺に気がつくと、ふふっと身を捩らせて微笑んだ。

 それはもちろん魅惑的だったが、どこか人間らしいイタズラっぽさが感じられ、俺は少し赤面してしまった。

 気持ちが疾ってしまい、



「……そうか。そいつは驚いた」



 とだけ言うと、彼女はもう一度微笑んだ。俺の動揺を全て包み込むようだった。


 彼女は話を続けた。

 「──って名前、知ってる?」そう言って、平凡な日本の名字と名前を伝えられた。

 「知らないなあ、同じ名前の子は知ってるけど」「小さな劇にも出たことがあるの」あいにく、芸術なんてものには興味がなくて、端から端まで見知ってるようなもんじゃない。



「そうだ、俺は芸術には疎いが、今の歌はこの世のもんじゃないくらい綺麗だったぞ」


「ああ。ねえ、拍手ありがとう」


「観客が俺だけじゃもったいないくらいだ。あと野鳥か」


「ううん、私、拍手してくれて本当に嬉しかったの。いつもは月が聞いてくれてるのよ」



 そう言って彼女はまた月を見つめた。感情のこもらない瞳に月が映り、まるで月が封じ込められたビー玉のようだった。



「私ね、もともと売れない歌手だったんだけど。その頃はこんな風には歌えなかったわ」



 水辺にいた俺に対して、彼女の人間の上半身が迫ってくる。それに従って下半身がぬめりと上がってきて、銀色の鱗が水面からチラリと見える。



「もともとはね、平凡で美しくもない歌を歌うくせして、さらにこの口で呪詛を吐き続けてたわ。

 『なんで私が売れないの』『もっと団長に媚びないといけないわけ?』『トップのパトロンのことがうらやましい』『はやくテレビに出て歌いたい』ってね。 そんなことを続けている内に、私の喉がどうしようもないほどに煤けてしまったことに気がついて、私、とっても絶望したの。きっともう一生、綺麗に歌えないんだ、って。とんでもなく惨めに感じたの。

 それで、この世でもう、ずうっと夢が叶うことがないんだって思った。

 ……それで、この湖に入水したのよ」


「そうしたら、人魚になって生まれ変わったって?」


「生まれ変わったというか──、変わっている途中かしら。

 「人魚」って単語はあるけど、「人」と「魚」の変換点の呼称なのよ、きっと。人と魚の中間。

 だからね? 今はそう夜だから、こうやって会話が出来るんだけど。でも昼間はずっとエラで呼吸しながら、無我のまま、この湖の奥深くに潜って泳ぎ続けてるだけ。それで、夜になったら私の意識が浮かび上がってきて、地上に出て、肺で息を吸って、──歌うの。ずっと歌い続けるの。

 こうやって話せるのも実は、絶妙な均衡による奇跡みたいなモノなのよ?昼になったら私は、唯の魚になっちゃうの。泳いでるだけ!

 私はもう人間じゃなくて、やっぱり半端な、どっちつかずの化け物……。そう、化け物。


 私ね?気がついたら唯の魚になって、少女の記憶なんて無くなって、ただ真っ直ぐに泳ぎ続ける存在になるんじゃないか?っていつも恐れているの。

 ……でもね、人である私にはもう歌しかなくて。

 意識ある限りは月に向かって歌い続けているんだけど、こうなった今、今が一番、崇高で、純真で、美しい歌を歌えているんじゃないかって思うわ」


「……なるほど」



 そう言いながら、俺は彼女の言った言葉の意味をよく咀嚼してみた。

 まっすぐ泳ぐ魚、歌い続ける彼女。献身。純真。余計なものは、泳いでいる間に振り落とされたのかもしれない。

 俺が聞いたあの研ぎ澄まされた歌声は、究極まで削りあげられたことによって出来上がったのか。



「魚みたいだな」



 ふと思いついたことを、そのまま声に出す。



「え?」



 彼女は不思議そうに聞き返した。



「月に向かって歌い続けることだよ。一方通行なのに、その先に目的がなくても、真っ直ぐに進み続けられるところ」


「ああ、そうかもしれないわ。

 きっと、止まったら死ぬって、本能が思っているの。ずっと。人のときも、魚のときも」



 彼女はその柳眉を潜めた。そして、初めてはっきりと言葉を発した。



「ねえ。私の歌、どうだった?」


「最高だったとも、いや予想以上に」


「拍手、本当にありがとう。

 私が劇に出ていたときはね、無くても変わらない前座みたいなもので、終わり際の拍手はきっと他の人に対してのものだったんでしょうね。私にだけ賞賛が向けられたことなんてなかったの」


「……今からだって、やればいいじゃないか。君が主演で。劇」


「あのね、そういうことは諦めたの。半端に喋れるだけの化け物よ、私は」


「いけるよ!なら観客には目隠しさせて、ここまで連れてきて、君の存在は隠してさ!」



 あきれたように、「怪しすぎるわ」と言いながら、彼女はゆるりと笑った。そして、その顔が強ばった。

 禁じられた言葉を発するかのように、唇を震わせながら、



「ねえ、お願いがあるんだけど。……ここまで、ラジカセを持ってきてくれない?」


「そうか!!」



 名案だ、と思った瞬間、了承の前に納得してしまった。



「録音か」


「……そう。私からお礼できることなんてないんだけど」



 彼女は悲しそうに言った。



「もちろんいいさ。ただ、持ち合わせなんてないから一回帰る必要はあるけど」



 俺は、世紀の発見をしたように感動に打ち震えていた。

 俺がこの歌声を届けることは、何らかの使命のように感じていた。なんなら、この神秘に出会うために、俺の不幸だとか、死にたくなるような運命だとか、その今までの全てが仕組まれていたんだと思うほどに。



「ありがとう」



 そう言いながらも、彼女の顔は晴れ晴れしくない。どうかしたのかと問うと、



「怖いの。今更、人に向かって歌えるのか。そして、その歌が賞賛に値するのか。怖いの。怖くて仕方がないの!」



 ずぶずぶと彼女の身体は水に浸かっていく。水面が揺れ、反射した月が小刻みに揺れる。彼女の取り乱した様子に、



「いや、人に聞かせたいのは俺のエゴかもしれん。やめておいた方がいいか?」


「でも。でも、やりたいの!!」



 彼女は叫んだ。今まで一定に保たれていた声域が高くなり、果実が熟れたように破裂した。



「月に向かって歌っていても、それでも大勢の観客の前で歌う夢が止められなくて、私の歌を褒められたくて、好きになってもらいたくて、心の中に宝物のように残して欲しいの!!

 本当は、……本当は、魚みたいにずっと愚直に月を見続けることなんて出来ない……そう、人間らしい醜い願望が捨てられないの。だから、自分のことを律し続けて、半端者だって自戒してたのに。突然現れた旅人に、ラジカセをおねだりする妄想は何回もしてたわ、でも本当に言うつもりはなかったの、本当よ」



 頬を大きく動かしながら、一言で言い切った。彼女の唇に赤みが差した。

 長年の積もった想いに気圧されながら、俺は落ち着いた声を意識して言った。



「大丈夫だ。絶対に、その想いは叶う」


「……うん」



 彼女は遠い目をしながら頷いた。夜通し話していたもんだから、もうすぐに空が明け白みだしそうだな、と月がもうすぐ沈む様子を見て思った。「それじゃあ俺は一回山を下りるけど、約束する、ラジカセを持って帰ってくる」と伝えた。

 彼女は水から出られない下半身を恨めしげに見つめながら、「またね」と弾んだ声で言った。



 山を下りる途中。

 山上の方から歌声が聞こえてきた。もちろん彼女だろう。状況を鑑みるに、歌声の主は彼女でしかない。しかし、それは以前とは大きく異なって聞こえた。次に会う約束をしたときに、その声が弾んでいたように、その歌は俺に向かって届き、祝福のように包み込んでくれた。しかも、神秘的ではなく、叙情的な喜びに満ちている。俺はこのメロディーを知っていた。朝に民放で流れている、あの有名なアイドルが歌っていた曲──ところが、その歌は俺の知っている終わりを迎えず、電波が途切れたように終わってしまう。俺は昇ってきている太陽を見て、彼女は寝てしまったのか?と考える。しかし、どうも嫌な予感がする。

 地平線から半分顔を出している太陽を、まぶしいながらに見やる。そして、西の空に、まだ沈みきっていない月がぼんやりと鎮座しているのに気がついた。


 月はまだ空に浮かんで、俺のことを見下ろしていた。



******




 俺があの大きな湖に帰ると、人魚の彼女は眠るように全身を水面に横たえていた。

 目は瞑っていて、俺が来ても声を上げることはなかった。湖の中心近くにいるため、近づくことは出来なかった。


 俺はそこで、世にも恐ろしい光景を目の当たりにした。

 太陽の光が彼女の身体に差し込んでいく瞬間、彼女の上半身と下半身が裂けるように分かれ始めたのだ。まるで、人間と魚の部分がバラバラになるように。

 そうしてようやく、死んだように眠っていた彼女の閉ざされた瞳が大きく開く。苦悶の表情を浮かべ、口が大きく開いた。荒い息がかあっと吐き出される。しかし、悲鳴を上げることはなかった。そして、彼女は何かに気づいたように両手で強く喉を掻きむしった。彼女の瞳が潤み、涙が溢れ、それは湖に流されて見えなくなっていった。

 また分かれた部分、体の中心からだんだんと水に溶けて泡になっていた。そうやって、石けんが水に溶けるように、彼女の身体がボロボロになっていく。彼女の苦しみも痛みも、その抵抗を無視するように、呆気なく消えていってしまう。

 そうして、ただ少しだけの泡が水面に残り、あとは跡形もなく無くなってしまった。


 俺は声も出せないままに、身体の芯に氷が当てられたように、為す術もなく震えていた。

 記憶を頼りに、村が見える方向に向かう。そして遠くにある村を視界に入れた時にやっと、冷え切った身体が弛緩した。

 早く村へ行こう、とそちらの方へ足を動かし続けた。


 走っている間、頭の中では人魚が裂けて泡になる光景が繰り返し再生されて止まらなかった。

 大いなる恐れと、自らが犯した行為に一因があるという直感があった。

 俺は死にたくなかった。俺は人間で居たかった。あんなに嫌だった人間と、今は話がしたくて仕方がない。


 俺は人間だ。しかし、悪魔のような人間だ。恐ろしい出来事について、走りながら、そう思うしかなかった。

 彼女を唆して、可愛らしい願望を引き出して、その身を泡に変える手伝いをしてしまったのだ。

 誰よりも純粋だった彼女のことを思うと、胸を掻きむしりたくなるような気持ちになった。しかし俺は今彼女に背を向けて走っている。もつれそうなくらいに二本の足を動かしている。不規則に、はあっと息が乱れた。



 どうしようもなく人間だ。シニカルを気取って人間嫌いを標榜したところで、その俺自身が人間なのだ。

 俺は自身が犯した罪と、その身の上にある原罪を抱えながら、村に向かって走り続けた。



******



 老人は、そうやって、過去の思い出に浸っていた。

 三十年前に購入した書斎の中で、安楽椅子に腰をかけながら。


 そして慣れた仕草で、書き物机の中から、小さな絵を取り出した。葉書くらいの大きさだ。そこには、銀を帯びた青色の鱗の下半身を持ち、両手を祈りのように掲げる人魚の絵が描いてあった。


 ──二十年前に、画家に細かく注文をつけながら依頼したものだ。当時、美しい女性を描くことで高名な画家だった。

 絵葉書の依頼に対して、画家はこう言った。「ご主人、みみっちい依頼ですねぇ!画家人生で初めて、こんな小さな紙切れに描いてみようとしてみたら、まあ!筆の扱いにくいこと!今からでもキャンバスに変えたらどうです?十全に力を発揮しますよ!」

 老人は──その頃は老人と言える歳ではないかもしれないが──彼は、それに対して答えた。「残念ながら、家に飾ろうとすると妻が怒るんだ。報酬は充分だったろう?」

 画家は、あい分かった!という調子で、今までから一転して楽しそうな笑みを浮かべた。「ははあ、愛人がモデルですかね?良かったら似せられるように、お会いしますかい?もちろん内密に」

 何もかも分かったかのような画家に対して、彼はずっと微笑んだままだった。「注文を細かくするから、良い仕事を頼むよ」


 画家の人格は好まれたものじゃなかったが、老人はこの小さな絵を気に入っていた。

 私も年老いたものだな、と彼は思った。画家に対して穏当に依頼を終わらせるなど、若き頃の私には出来なかっただろう、と。


 ……あの日のことは忘れられない。妻にも話したことがない。

 あれは私の核のようなもので、引き出しの奥にずっと置いておきたいような記憶だった。そうして、眠れない夜に時折り取り出して、まるで自分の心の奥底に触れるように、その姿を愛でて居たかった。



 窓の外から微かに音が聞こえた。

 老人は動かない体に鞭を打って、椅子から立ち上がり、窓を少し開いた。


 繋がっている中庭を見ると、孫娘が歌っていた。最近やっているテレビのコマーシャルの曲だろう。上手いとか、技術とかなんてない歌い方で、ただ感情が強く込められている。無垢で、この世の全てが楽しそうに、屈託なく、彼女は歌った。

 孫娘はこちらに気づいたようで、一度歌うのをやめて、手を大きく振り始めていた。


 開けた窓から、陽光が直に差し込んでいる。茹だるように幸せな日々だった。

 麗らかな春の光が、まどろみの時間を生み出すようだった。優しい睡魔はすぐそこにやって来ている。両腕で包み込むようなその姿勢に、だが冷えきった思考が溶けることはなかった。

 ……人魚はきっと、海の底。彼の引き出しの、二重底の下。










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