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第四話 任那滅亡

 〇 崇仏(すうふつ)派と排仏(はいぶつ)派の戦い


 百済の聖明王は仏像と経典を欽明(きんめい)天皇に贈りました。

 欽明天皇は蘇我稲目(そがのいなめ)に仏像を下賜して、私的に拝むことを強化します。

 ちょうどその頃に大和では疫病が流行しました。物部尾輿(もののべのおこし)中臣鎌子(なかとみのかまこ)は仏教を信奉したことで日本の神が怒ったと欽明天皇に上奏して仏像を難波の堀に廃棄しました。

 崇仏論争の始まりです。



 □ 552年 仏教公伝(二回目)




――百済の聖明王は仏像と経典を欽明(きんめい)天皇に贈りました。仏教公伝(二回目)です。



欽明(きんめい)「仏教公伝の年が史料によって違うからと、両方とも採用するとはな」



稲目(いなめ)「見事な仏像です」



欽明(きんめい)「確かに素晴らしい………が、アマテラス子孫である余が仏を拝むわけにもいかぬ」



――物部氏や中臣氏は仏教を取り入れることに反対していたと言われています。



欽明(きんめい)「しかし、聖明王の贈り物に対して無下にも出来ぬ。まったくあの男は好意でややこしいことをしてくれるから困る」



稲目(いなめ)「西の諸国はみな仏を礼しております。我が国もそれに習うべきでしょう」



欽明(きんめい)「ちょうど良い。稲目に任せた」



――欽明天皇は蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行ります。



欽明(きんめい)尾輿(おこし)鎌子(かまこ)が異国の神を祀ったことで国神たちの怒りをかったとうるさい」



――欽明天皇はやむなく仏像を難波の堀に破棄して、寺の焼却を黙認した。






 〇 聖明王(せいめいおう)の戦死


 百済と新羅は共同で高句麗を攻めて漢江周辺の領土を奪い取りました。

 しかし、新羅は百済を裏切り高句麗から切り取った領土を自分のものにしてしまいます。



 □ 553年 百済は漢山城を新羅に奪われる

 □ 554年 聖明王が新羅との戦いで戦死

 □ 555年 百済で威徳王が即位




――新羅が百済を裏切りました。漢山城近辺の土地を新羅の領土としています。百済と新羅は共同で高句麗を攻めていましたので、漢山城近辺に新羅の軍が駐留していたのですが、その軍が百済の軍を攻撃して追い出したとのことです。



欽明(きんめい)「新羅の王は真興王(しんこうおう)であったか。野心の強い男のよ。だが、それは悪手である」



――悪手ですか?



欽明(きんめい)「百済は先祖の土地を高句麗から取り返したと途端に新羅に奪われた。決して引くまいよ。そうなるとヤマトと共に任那復興を手伝い新羅と戦うしかない。そして百済は高句麗と接する地域を失った。それは高句麗の敵が新羅だけとなったことを意味する。新羅は領土を拡張したが、高句麗・百済・ヤマトの三ヶ国を同時に敵に回したのだ」



――なるほど。それでは任那復興軍を朝鮮半島に送るのですか?



欽明(きんめい)「準備だけはしておかないとな」



稲目(いなめ)「残念な知らせがあります」



欽明(きんめい)「なんだ?」



稲目(いなめ)「聖明王が戦死しました」



――聖明王の第一王子が新羅軍に包囲されたので、救援のために出陣したら討たれました。現在は救出された王子が即位して威徳王(いとくおう)となっています。



稲目(いなめ)「聖明王の弔い合戦を行いますか?」



欽明(きんめい)「チッ、時期が悪い。百済が落ち着いてからだ」





 〇 任那滅亡


 新羅は伽耶諸国の併合を進めます。

 日本府のある安羅国を滅ぼして併合すると、伽耶諸国の最後の国である加羅も滅ぼして併合します。これでかつて任那と呼ばれた地域は百済と新羅に併合されて無くなりました。

 欽明天皇は任那復興を掲げて新羅に攻め入りますが、撃退されてしまいます。


 欽明天皇は亡くなる寸前まで任那復興を夢見て後世に託しました。



 □ 562年

 ・安羅国が滅亡する(任那滅亡二回目)

 ・加羅が滅亡する(任那滅亡三回目)

 ・欽明天皇が新羅討伐軍を派遣する。

 □ 570年 蘇我稲目が亡くなる

 □ 571年 欽明天皇が崩御する




――新羅が任那に攻め込んで併合しました。



欽明(きんめい)「百済の威徳王が頼りにならぬから時間の問題であった」



――欽明天皇は任那復興軍を組織して新羅に攻め入ります。ですが、新羅に撃退されて目的は果たせませんでした。



欽明(きんめい)「想像以上に新羅がしぶとい。四方を敵に囲まれているのに持ちこたえておる。新羅の真興王(しんこうおう)を甘く見ておったわ」



稲目(いなめ)「国外だけに目を向けるわけにもいきません。国内を安定化しませんと」



欽明(きんめい)「それは確かにそうだ。ヤマト政権はようやく全国政権として形が定まって来たところである。だが、任那も諦められぬ」



稲目(いなめ)「国内支配を強化するには仏教の力を借りるのが有効的です。百済も新羅も仏教を国教としています」



欽明(きんめい)「それが出来れば苦労はない。反対勢力も多い。時期尚早だ」



――欽明天皇は仏教に理解を示していたようですが、崇仏派と排仏派の争いは次世代に持ち越されることになりました。



稲目(いなめ)「では、私は死にます」



――蘇我稲目は亡くなりました。後継者の蘇我馬子(そがのうまこ)は二十歳であり、大臣の座は空位となります。稲目の娘の蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)は欽明天皇との間に皇子をもうけており、やがてその皇子たちが天皇となるのですが、それはまた別の話。



欽明(きんめい)「余の人生も終わりだ。次の大王は訳語田皇子(おさだのみこ)であろう」



――訳語田皇子(おさだのみこ)は広姫との間に生まれた嫡男です。広姫は息長(おきなが)氏の娘ですが、息長氏は王家であるので皇族同士の皇子となります。良く分からないので嫡流からは遠い王家なのでしょうが、蘇我氏系よりは正統性があります。



欽明(きんめい)「訳語田には死んでも任那を復興するように遺言を残しておく」



――欽明天皇は西暦571年に崩御しました。享年六十三歳。その生涯を任那復興にささげたました。

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