第弐話 欽明天皇は即位する
〇 安閑天皇即位と武蔵国造の乱
安閑天皇の時代は全国に大王の直轄地である屯倉を増やしていた時代でした。
屯倉を全角各地に作り国内をまとめて大王の権力を強化しています。
その一例が武蔵国造の乱となります。武蔵国で内紛があったので、ヤマト政権が介入して解決させました。その見返りに屯倉を獲得したのです。
□ 534年 安閑天皇が即位する
□ 534年 武蔵国造の乱
□ 536年 安閑天皇が崩御する
――スポットゲストが大伴金村から蘇我稲目が変わります。
蘇我稲目(以下「稲目」)「蘇我氏の当主の稲目です。姓は臣、葛城氏の地盤を引き継いだ大和の豪族です」
志帰嶋「蘇我氏は余の与党だ。大伴氏と物部氏が裏切っても蘇我氏は裏切らぬ」
稲目「物部氏も一枚岩ではありません。物部尾輿を味方に引き入れました。秦大津父に命じて宮を造営させました」
――宮を造営したのですか?
稲目「はい。大和の秦氏はこちのら陣営です。相手の機先を制するのです」
欽明天皇(以下「欽明」)「余は即位する。本日より欽明天皇である。大臣に蘇我稲目、大連に物部尾輿を任ずる」
――欽明天皇というのは諡号といい没後に贈られる称号で奈良時代に名付けられました。分かりやすくするために大王名は当時のものを使いません。
稲目「大伴氏金村は対抗して勾大兄皇子を即位させました。安閑天皇と名乗ってます」
――二朝並立時代と言うわけですね。
稲目「安閑朝は大臣は置かず大連に大伴金村と物部麁鹿火の二人を任じてます」
――継体朝の大臣の巨勢男人は継体天皇より先に亡くなり、男子がいなかったので分家男子が後を継ぎましたが、巨勢氏の権勢は低下して大臣を出すに至りませんでした。
志帰嶋「金村はなぜ裏切ったのだ」
稲目「金村は上殖葉皇子に娘を嫁がせていたようです。その娘に皇子が生まれました。安閑天皇―檜隈高田皇子―上殖葉皇子と皇位を継承させて大伴氏が外戚になるのが目的でしょう」
――大王家の外戚になるには姓が臣でないとダメなのではないすか?
欽明「姓が臣というのは大豪族で大王家の同盟者であった一族のことだ。同盟の証として后を娶っていた。姓が連は大王の家臣の一族で后を輩出出来ないというのが古来よりの習慣だった。だが、雄略天皇以降は臣を有する大豪族の権勢が落ちたことで側室であるなら連からも后を娶っている」
稲目「大后(手白香皇女)が亡くなり政敵がいなくなったので本性を出したのでしょう」
――この頃に武蔵国で内紛が起きてます。武蔵国造の乱です。
稲目「大伴金村が介入して乱を治めて、安閑天皇に武蔵国から屯倉を差し出させました」
――安閑天皇は全国に屯倉を増やして勢力を拡大させています。
欽明「大和では蘇我氏の勢力が強い。それで大和の外に味方を増やすとは大伴金村は小賢しい。だが、そのせいであちらの方が勢力が大きい」
――優位に立った安閑朝ですが、在位わずか三年で安閑天皇が崩御しました。
〇 宣化天皇の即位と仏教公伝
西暦536年、宣化天皇は即位しました。
翌年に新羅に攻められていた任那を救援するために軍を派遣しています。
百済から仏像と経典が送られて仏教が公伝したとされていますが、仏教公伝は538年と552年説があります。
□ 536年 宣化天皇が即位する
□ 537年 新羅征伐の軍を派遣する
□ 538年 仏教公伝(一回目)
□ 539年 宣化天皇が崩御する
――安閑天皇は崩御しましたが、すぐに檜隈高田皇子が即位して宣化天皇となりました。
欽明「上殖葉皇子へ皇位を渡すつもりなのを隠す気がないな」
稲目「亡くなりました」
欽明「誰がだ」
稲目「上殖葉皇子と物部麁鹿火です」
――宣化朝の影響力が大幅に低下したようですね。大伴金村が宣化天皇を支持する動機も無くなったでしょう。
欽明「簡単には後には引けんだろう。上殖葉皇子の皇子もいるからな」
――西暦537年、大伴金村は新羅に攻められてた任那(おそらく安羅国)を救援する為に派兵しました。
欽明「外交権は未だに金村が握っている。まあ、仕方がない。奴より上手く外交できる者がいない」
稲目「新羅征伐軍の大将は金村の息子の大伴磐と大伴狭手彦です。後継者に箔をつけさせようと考えたのでしょう」
――大伴磐と大伴狭手彦は新羅を撃退して凱旋しました。ヤマト政権の軍事力は朝鮮半島南部において健在ぶりをアピールしました。
欽明「だが、ずいぶんと任那の支配域も狭くなった。余が再び任那を大きくしようぞ」
――新羅と伽耶諸国の領有を巡り揉めていた百済の聖明王は大伴金村の支援で新羅を撃退しました。その支援の見返りと今後の高句麗との対決を見越した支援要請のためにヤマト政権に仏像と経典を送ります。自国も取り入れていた最新の文化である仏教をヤマトに伝えるというのは聖明王にとって善意で恩を売る行為なのです。
欽明「こんなものが百済が送られて来たのだが」
稲目「これは仏像ですね。仏教というのは、約千年ほど前に天竺で釈迦如来、つまりお釈迦様が悟りを開いて説いた教えが元になっているのです。本来は個々の修行を通じて自ら悟りを得ることを目的としたものだったのですが、これが中国に伝わると少し変わったのです。中国では仏の力で人々を救うという教えに変貌したのです。そして、前者を小乗仏教といい、後者を大乗仏教と呼ぶのです。この「小乗」という呼び方は少し侮蔑的なニュアンスがあると言うことなので二十一世紀では「上座部仏教」と言った方が良いです。今は六世紀なので小乗仏教ですけれどね。南朝の梁という国では仏教を国教として取り入れ、仏教文化を非常に熱心に広めていました。梁の武帝は皇帝を辞めて僧侶になったこともあるくらい仏教に非常に熱心だったのです。仏教は人々を救う教えだけでなく、いろいろな文化や技術がセットで伝わってきます。例えば、仏教美術や建築技術、漢字文化などです。ですから、百済の聖明王も仏教を推進して自国の文化を豊かにしようとしたのです。我が国にも仏教は二十年以上前から広まっており、渡来人の司馬達等が522年には仏像を祀っていました。達等も仏像を彫っていましたが、百済から贈られた仏像はそれとは比べられないほど素晴らしいものです。仏像というのはただの偶像ではなく、その中には仏教の深い教えが込められているのです。例えば、手のポーズ一つにも意味があり、仏の慈悲や智慧を表現しているのです。また、仏教の経典も非常に素晴らしいのです。深い哲学や道徳を説いているのです。仏教というのはただの宗教ではなく、一つの文化や哲学の体系なのです。素晴らしい贈り物です。私が欲しいくらいです。(/ω・\)チラッ」
欽明「………早口で何言ってるか分からんし目が怖いぞ。余はいらぬから持って帰れ。出兵はしたばかりで早々に朝鮮半島に軍は送れぬ。大伴金村も持て余してこっちに寄こしたのだろう」
――こうして仏教公伝(一回目)は蘇我稲目が仏像を私的に祀るということになりました。
欽明「大伴金村も宣化天皇も仏教を持て余しているようだ。物部尾輿はあまり仏教を好きではないようだったがな」
稲目「良さが分かる者が少ないのです。娘たちにも良さを熱弁しているのですが、次女が全く興味を示さなくて」
欽明「趣味を娘に押し付けると嫌われるぞ」
――その翌年、西暦539年。宣化天皇は崩御します。
〇 大伴金村失脚
宣化天皇が崩御した後に欽明天皇が即位しました。大臣は蘇我稲目、大連は物部尾輿です。
物部尾輿は大伴金村が任那四県を百済に割譲したのが元で朝鮮半島でのヤマトの威信が低下して任那滅亡の危機にあると責め立てました。
大伴金村がこの批判を受けて失脚します。
□ 539年 宣化天皇崩御
□ 540年 石姫皇女が欽明天皇の后となる
□ 540年 大伴金村が失脚する
□ 541年 蘇我堅塩媛と蘇我小姉君が欽明天皇の后となる
――宣化天皇が崩御した後に欽明天皇が即位するというのが日本書紀の流れなのですが、既に即位してますよね。二朝が統一されたということでいいのでしょうか?
稲目「大伴金村は上殖葉皇子の即位を諦めていません。橘仲皇女の即位させようとしています」
欽明「しぶといな」
稲目「ですが、橘仲皇女はそれを断ったようです。皇女の石姫皇女を大王(欽明天皇)の后に送り出しました」
欽明「懸命だな。宣化天皇の血筋を残すにはそれが確実だ」
――大伴金村はどうするのでしょうか?
欽明「流石に諦めてこちらの陣営に合流するようだ。政治・外交では金村の手腕が必要だから受け入れるつもりだ」
――しかし、物部尾輿が現在の朝鮮半島の混迷は大伴金村が任那四県を百済に割譲したのが原因だと声を上げています。
欽明「一概に違うと言いきれないのが難しいところだ」
――任那四県を百済に割譲した時に百済から多くの賄賂を受け取ったとも吹聴しています。
欽明「そんな流言を金村が気にすることもないだろう」
――大伴金村は出仕を辞めてしまいました。
欽明「………出て来いと命令することにしよう」
稲目「大伴金村はもう七十代半ばを過ぎたので隠居したいそうです。大伴氏を引き立てるのであれば息子の大伴磐と大伴狭手彦を引き立てて下さいと伝言を頼まれました」
欽明「そんな年だったか。仕方ない」
――大伴金村は欽明天皇の遺留を断り出仕を取り止めたとされてますが、年齢からして普通に引退したとも考えられますね。
稲目「それから一つよろしいでしょうか我が君」
欽明「なんだ?」
稲目「石姫皇女を娶り大后としたのですから、私の娘二人も貰って下さい」
欽明「お、おう」
――蘇我稲目の二人の娘である蘇我堅塩媛と蘇我小姉君は欽明天皇の后となりました。この二人から生まれる子供たちが後に大王のとなるのですが、それはまた別の話。