大嫌いな『彼女』
「…んっ」
頭に鈍い痛みを感じながら目を覚ますと、薄暗い部屋で、よく見れば住み慣れた自分の部屋だった。けれど、見慣れない人物が一人いるだけで、随分と感じ方が違う気がした。
「は…?ちょっ、なんだよ。これ!…お前、誰だ…」
最初はこの状況に対する動揺から、自然と声が出ていた。けれど、目の前にピンク色のワンピースを着た髪の長い女の子、以前彩葉とデートしたときにぶつかった女の子が目の前にいる。面識のない人間が自分の家にいるという、無条件の恐怖が体を支配する。
逃げたくても、気を失っている間に縛られたのか、手は後ろに回され、手首を縛られていて、足は足首と膝で縛られ全く動くことができない。後ろは壁で、後ろに下がることもできない。
「え〜?」
場違いすぎるとも言える甘ったるく作ったような声が、恐怖に満ちたこの部屋に響く。
「ひどいなぁ、やまとくん。あたしだよ?ミノリだよ〜」
「…は……?」
全く聞き覚えのない名前に、首を傾げるしかできない。そんな態度がミノリと名乗った女の子は不服だったのか、
「え〜」
さっきより少し低い声で、不満を表した。
「やまとくんの彼女だよ?彼女の名前すら覚えてないなんて、やまとくんってばひどいなぁ?ねぇ。ほら、一緒に暮らしてるでしょ?前に朝ごはん作ってあげたでしょ?」
今までの人生で、数人とお付き合いをさせていただいたことはある。けれど、その中に、ミノリという名前の女の子はいなかったし、みんな俺のことは、『やまと』と呼び捨てにしていた。誰にも『やまとくん』だなんて呼ばれたことなんてない。
「し、知らない。俺、ミノリって名前の彼女いな、い。だいたい、俺の彼女は彩葉って名前で…」
余計なことを言っているのはわかる。けれど、声は震えるばかりで、恐怖に支配されて考えたことがそのまま出てくる。
「…っ」
――ダンッ!!!
「…っひ、」
「彩葉って、誰?」
情けない声が漏れる。ミノリは苛立った様子で、床を蹴った。最初に比べれば同じ人が喋っているかわからないほど、ミノリの声が甘さなんて含まない低く恐ろしいものになっている。
「え?ねぇ、彩葉って誰…っあ、あぁ〜〜!!もしかして、あの子?!あははっ、あの女が彩葉っていうの?」
さっきまでの低い声とは裏腹に、彩葉に心当たりがあると言った様子で楽しげに甘ったるく作ったような笑い方で笑い始めた。
「え、彩葉のこと知ってるの?」
思ってもなかった反応に、もしかして、と思う。彩葉がいなくなった原因は、誘拐らしいと警察は言ったらしい。
それで、ミノリが彩葉のことを知っているなら…と。
「え?知ってるよ!名前は今知ったんだけどね〜、そっか、彩葉っていうんだね」
俺が話しかけたからか、ものすごく嬉しそうに声を弾ませている。
「彩葉は!?彩葉は…無事なのか!?」
「っ…。え、何?なんで?」
信じられないといった様子で、息を呑み俺を見下すミノリに身震いした。
「なんで!?目の前にいるのはあたしなのに!!なんで!なんであの女の心配なんかするんだよ!おかしいじゃん!!やまとくん!あたしを、あたしを見てよ!」
「…は?」
何が言いたいのかよくわからない。けれど、彩葉が無事なのかどうかが気になるばかりで、また言う必要のないことが勝手に溢れる。
「彩葉、は無事なのか?無事、なんだろ?なぁ!答えてくれよ!!」
「うるさい!!!うるさいよ!なんでそんなに心配するの?!ふざけんなよ!!…っふぅー。でも、大丈夫だよ。やまとくん。あなたが心配することなんてないから、ね?安心してよ」
「っじゃ、じゃあ彩葉は無事なん…」
「心配する必要がないほど、ぐちゃぐちゃにしておいてあげたから!!ちゃんとお掃除もしたからさ!」
幼児が無邪気に昆虫の足をちぎったことを報告するのと同じように、無邪気に残酷なことを告げられた。
「ぇ…?」
今言われたことの意味が、わからずただ口を間抜けに開けることしかできなかった。
ぐちゃぐちゃ?何を?掃除をした?何を?
「泣き叫んでて可愛かったよ〜!『自称』やまとくんの彼女ちゃん♡」
「あ、ぁ、あ……なんで、?」
分からない。もう俺は、目の前の女に対して何をどう思えばいいのかわからない。
「なんで?って…。当たり前じゃん、やまとくんに勝手に近づいたりして、やまとくんをたぶらかしたんだから」
当たり前なんかじゃないことをさも当然と言いたげに、首を傾げるミノリに鳥肌が立つのがわかった。
「どうして、そこまで…?」
こいつに向かってなんでと聞いても無意味なのにどうしても聞いてしまう。
「えぇ?どうして?って〜?当たり前のことすぎるから言うのを忘れちゃってたのか。そっか、ごめんね?」
形だけの謝罪に意図を掴めず、首を傾げる。
「あたしはね、やまとくん。やまとくんのことがぁ〜好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで、大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで!愛してるの!!!本当に、もぅ…」
うっとりしたように、片手を朱色に染めた頬に当て、ため息をついたミノリに寒気がする。
「殺しちゃいたいくらい♡♡」
「…っ」
狂ってる…。
最初から気づいていたはずだ。この狂った状況に、今更ながら気づいた。自分を拘束している時点で、この女は狂っているんだ。俺のことが好きだから、愛しているからだなんて頭のおかしい理由で、彩葉を殺してしまったくらいなんだから。狂っていないわけがないんだ。今更遅れてやってきたこの女への恐怖が、全身に絡みついた。うまく息ができなくて、喉が張り付いたみたいに声が出ない。
「…」
この後自分が殺される気がしてならなくて、呼吸ができない。ヒューヒューと普通なら鳴らない音が聞こえる。
「どっ、どうしたの!?大丈夫?」
俺がこうなっている原因はミノリだというのに、気づいてないふりをしているのか、それとも本当に気づいていないのか…。
動かせない腕をなんとか動かそうと身動ぎするが、手首の縄はどうしてもほどけなかった。
「あ〜、痛い?」
自分でやったくせに。と言いたくなったが、好機かもしれないと考え、恐怖で喋れない喉はあてにせず、こくこくと慌ててうなずいた。
「そうだよね!ごめんね。でもほどけないんだよ」
「ぇ…?」
声がかすれる。
「だって〜、やまとくん。あたしから逃げちゃうでしょ?」
それに、と楽しげに続けるミノリには鳥肌が立ち続け、体の震えが止まらない。
きっと、
「お前…は、ヒトの形をした化け物だ…!」
―ガッシャンッッッ