9 ヨラナ夫人
ヨラナ夫人はヘインズ伯爵家の未亡人である。
夫が病没してからは息子夫婦に当主の座と屋敷を譲り、同じ東区で気楽な未亡人暮らしを送っている。
ある日友人のお茶会に参加した帰り、足を伸ばして南区の刺繍道具の店に向かった。
そこで買った物は侍女に持たせ、自分はバッグだけを持っていた。数歩歩いたところでバッグを引ったくられた。若い男はどんどん遠ざかっていく。「泥棒!」と叫ぶと少し離れた場所にいた大柄な男性が猛然と追いかけてくれた。ミセス・ヨラナは気が強い貴婦人だったので止める侍女を無視して小走りで大柄な銀髪男性の後を追いかけた。
前方で若い男は銀髪男性に追いつかれて縛り上げられ、無事バッグは手元に帰ってきたが、帰宅してからお礼をしなかったことに気がついた。動転していてお礼の言葉を述べただけで帰ってきてしまった。律儀なヨラナ夫人は「なんたる手落ち!」と自分の失態を許せず、翌日に警備隊の詰め所へと向かった。
「ぜひお礼をしたいのです」
「団長はお礼は受け取りませんので、お気持ちだけお伝えします」
「では足をかけたというその女性にだけでも」
ヨラナ夫人は滞在先のホテルを聞き出してそこに向かい、ホテルの受付の男性に呼び出してもらえないかと頼んだ。すると柔らかな笑みを浮かべた女性が少女の手を引いて階段から現れた。お礼をしたいと伝えたがこちらも「お気持ちだけで」と断られた。
「それなら我が家でお茶とお菓子だけでも」とやや意地になったのは(引ったくられるような自分の老いへの情けなさか)と自省していると「お茶でしたら」と笑顔で了承してもらえた。
数日後に子供の手を引いてやって来たビクトリア・セラーズという女性はランダルから来た平民だと自己紹介した。平民なのに貴族の家でもオドオドしなかったしお茶を楽しむ所作は優雅だった。裕福な家の出なのかもしれないと思った。
「今後はどうなさるの?ずっとホテル住まいではないのでしょう?」
と尋ねると
「この国に腰を落ち着ける予定なので、近いうちにホテルを出て部屋を借りるつもりです。良い仕事が見つかりましたので」
と言う。
「貸し部屋を借りるくらいならうちに住まない?客用に小さな平屋の離れがあるわ。台所も浴室もあるのよ。全然使ってないの」
気づいたらそう提案していた。
目を丸くして驚いているビクトリアに熱心に勧めた。自分のために引ったくり逮捕に協力してくれた彼女は、我が国の捨て子を保護して面倒を見てくれているという。アシュベリー王国民としてその行いに感謝を示したいという思いもあった。
ずいぶん遠慮されたが、しばらく悩んだ末にビクトリアは
「ちゃんと契約書を交わしてくれるなら」
という条件で受けてくれた。
「契約書は自分で作るから中身を確認してからにしてほしい」
という。彼女は教養があるのだろうと思った。
翌日。
「まあ!隅々までちゃんと出来てるわ。完璧な契約書ね」
ビクトリアが持ってきた賃貸借契約書は家具や住宅内の損傷についても借り手がちゃんと弁償するという良識的な契約書だった。どこで調べたのか賃料もきっちりと相場だ。貴族が住む東区は家賃が高いのに値切る気はないらしかった。
「あなたのことをとても気に入りました」
「ありがとうございます」
ヨラナ夫人は提示された額の半額に訂正してから賃借契約を交わした。大家の方が半分に値引きする珍しい契約である。
結果から言うとビクトリアはとても良い賃借人だった。人を呼んで騒ぐこともなくノンナという少女も静かで家を汚すこともなさそうだ。家賃は「念のために」と二ヶ月分前払いしてくれた。
ビクトリアをお茶に誘うと時間があれば話し相手になってくれるが無理な時ははっきり断ってくれる。
先日は「料理人さんがいらっしゃるのに失礼かとは思いますが」と言いながら手料理のおすそ分けをしてくれた。これが見栄えも良くて美味しい。おすそ分けしてくれたのは『鳥肉の野菜巻き』だった。
野菜と香草を色良く組み合わせて、叩いて伸ばした鶏肉で巻いて焼き目をつけてから煮込んだものだった。
白ワインを加えて煮込んだそうで、輪切りにされたそれは断面も美しかった。ぱさつきがちな鶏肉なのにしっとりとしていて老人でも簡単に噛み切れるほど柔らかい。蜂蜜で照りを出したという外側は焦げ目がついていて香ばしい。
「いい人とご縁ができたわ。そういえば職場は近いの?」
と遅ればせながら尋ねたら有名な歴史学者の助手兼ハウスメイドのようなことをしているという。
「あなたはいったい、何をどれだけこなせるのか謎ね」
感心したのには訳がある。
風の強い日に二階のバルコニーから庭を見ていた夫人の日除け帽子が風に飛ばされたことがあった。帽子は風に乗って庭のイチョウの木に引っかかった。引っかかった帽子がクルクル回ったことで顎紐が枝に絡みついている。当分落ちて来そうもなかった。
「あれは夫が生前買ってくれた思い出の帽子だけど、仕方ないわね。自然に落ちてくる前に雨が降らないことを祈るわ」
仕事から帰って夫人の言葉を聞いたビクトリアは、家に入ってズボンに着替え、スルスルとイチョウの木をよじ登り帽子を取り外して下に放り投げてくれた。その枝の高さは二階建ての屋根より高かったのに。
ヨラナ夫人が驚きで声も出せずにいると、滑るように降りて来た彼女は
「私はお転婆でしたから」
と笑った。
貴族のような所作ができて歴史学者の助手もできて、料理上手で木登りが得意なお嬢さん。
ヨラナ夫人はすっかりビクトリアが気に入ってしまった。
ヨラナ夫人が嫁いだ時に実家から連れてきた侍女スーザンもビクトリアとノンナを気に入った一人だ。
「あんな可愛い子を捨てるなんて何を考えているんでしょうね、その母親。ビクトリアさんは徳を積みましたね」
そう言って涙ぐんだり怒ったりした上に
「奥様、そのうちノンナが懐いたら私の部屋に泊めてもいいでしょうか。そうしたらビクトリアさんも夜にお出かけができますし。あの方、まだ若いのに全く人付き合いをなさってる様子がありませんよ」
と言う。
ノンナは無表情な子どもだがスーザンが話しかけたりちょっとした菓子を与えたりすると微かに柔らかい表情になる。
「あなた人馴れしない子猫を手懐けてるような気持ちになってるんじゃないの?」
「奥様ったら子猫だなんて!あの子が可愛いから母親の気分を味わってみたくなったんですわ」
「私たちはどうやったって祖母の気分でしょうよ」
「奥様は無粋ですわね」
スーザンに叱られてしまった。
そのビクトリアが「明日は助手を務めているバーナード様の誕生会なので」と厨房から大鍋を借りてなにやらせっせと料理を作っている。いい匂いがずっと離れから漂ってきていた。
「その料理をうちの馬車で運びなさい」
そう言ってやると彼女がとても喜んだ。
「運ぶ手段を忘れていて困っていたんです。貸し馬車を呼ぼうかと考えてました」
と苦笑していた。
ヨラナ夫人はそんなうっかりしているところもあるビクトリアが可愛くて大好きになった。