Case2. 鼻から麻婆豆腐
「あなた、名前は?」
先輩から名前を聞かれました。若干の身の危険を感じるものの、ここは正直に名乗っておきましょう。
「小杉です。1年D組です」
「私は樹里。3年A組よ。よろしくね」
そういって樹里先輩は、右手を差し出してきました。私はその手を握り返します。先輩の手は白くてほっそりしています。あまりに美しいので、同性でも思わずうっとりしてしまいました。
「ところで小杉さん。なぜ私があなたに声をかけたか分かる?」
「いいえ、分かりません。生徒会の勧誘ですか?」
「分かっているじゃない。正解よ。私はお茶高の生徒会長をしているの。あなたにはぜひ書記の座を引き受けて欲しいわ」
私の目の前に座っている樹里先輩はうちの生徒会長らしいです。そして、なぜか私を書記に誘ってくれています。いきなり何の話でしょう。一体どういう理由があるのでしょうか。
「あの、誘っていただけるのは嬉しいのですが、理由をお聞きしてもいいですか?」
「理由は簡単よ。あなたに素質がありそうだったから」
「素質って、具体的にはなんですか? 事務処理の能力ですか?」
「いいえ。ドMの素質よ」
「…………?」
ドM? 樹里先輩は何を言っているのでしょうか。ふざけているとしか思えない発言です。さらに混乱し始めた私を見て、樹里先輩は口を開きました。
「うちの生徒会には、裏の顔があるの」
「裏の顔ですか?」
「そう。SMサークルとしての顔よ」
樹里先輩は私をからかっているのでしょうか。きっと、そうに違いありません。先ほどからの樹里先輩の発言はまともではありません。
「さっきからずっと、樹里先輩は私をからかっているんですか? 初対面の人間を生徒会に誘ったり、生徒会にはSMクラブの顔があると言ったり……」
「いいえ。私は真面目にあなたと会話しているわ。うちがSMクラブである証拠を見せた方がいいかしら」
そう言うと先輩はソファから立ち上がり、冷蔵庫まで歩いていきました。そして冷蔵庫の扉を開け、中から麻婆豆腐を二皿出してきました。
「この麻婆豆腐は激辛よ。今からこれを、鼻から食べましょう」
先輩は麻婆豆腐の一皿を私の目の前に置き、もう一皿を自分の前に置いた。そして先輩はソファに座り、いただきますと合掌した。
「あの、樹里先輩。せめて、スプーンかレンゲみたいなものをいただけませんか」
私の目の前にあるのは麻婆豆腐の皿だけ。すくって食べるための食器が欲しい。
「あら、ごめんなさい。これを使って」
樹里先輩はブレザーのポケットからレンゲを取り出し、私にくれました。なぜ女子高生の制服のポケットにレンゲが入っているのでしょうか。樹里先輩にはツッコミ要素しかありません。
「いただきます」
私も合掌し、レンゲで麻婆豆腐をすくってみました。毒は入っていないように見えます。私が麻婆豆腐を観察している間、樹里先輩はさっそく麻婆豆腐を鼻からすすり始めました。スプーンなどは使っていません。皿を両手で持ち上げ、顔に中身を押し付けてすすっています。顔の下半分がベトベトになることでしょう。
「ゲホゲホ!!!! ズピッ!!!! ゲホン!!!」
案の定、樹里先輩はせき込み始めました。とても苦しそうです。私は鼻から食べたくありません。
「樹里先輩、大丈夫ですか」
私はそう言って鞄からポケットティッシュを取り出し、樹里先輩に渡しました。
「ありがとう、小杉さん」
先輩は素直に受け取ってくれました。鼻をかみ、口元を拭いています。素直に口から食べればいいのに、と私は思ってしまいました。
「小杉さん、さっきから一口も食べていないわね。麻婆豆腐は嫌い?」
「すみません。別に麻婆豆腐が嫌いなわけではないです。ただ、鼻から食べるのは抵抗があります」
「そう。思い切ってやってごらんなさい。案外悪くないものよ」
「先輩の食べている様子を見ていると、とてもそうは思えないですが……」
先輩が鼻から麻婆豆腐を食べ、せき込み、鼻をすすり、顔を真っ赤にしている姿を見たら、誰だって怖気づくでしょう。鼻は食べ物が入ってくる事を想定している器官ではありません。
「小杉さん、あなたじれったいわね」
「ん……!!!」
あろうことか、樹里先輩は私の顔に麻婆豆腐を皿ごと押し付けてきました。熱い。ヒリヒリします。ドロドロします。
驚いたはずみに、鼻から息を吸ってしまいました。当然、空気の代わりに麻婆豆腐がたくさん入ってきました。
「ゲホゲホ!!!! ズピッ!!!! ゲホン!!!」
侵入してきた麻婆豆腐は、私の鼻の中を通りぬけて喉元まで来ました。吐き出すわけにもいかないので、飲み込みました。
「あら、いい食べっぷりじゃない」
樹里先輩は不敵な笑みを浮かべています。とても満足げな表情です。
「いきなり何をするんですか!」
私は先輩に抗議します。麻婆豆腐を顔に押し付けるなんて、非常識だからです。しかし、樹里先輩はこう反論してきました。
「はじめの一歩を踏み出すのには勇気がいる。時には他人から背中を押してもらうことも重要だとは思わない?」
「こんな一歩は踏み出す必要がないと言っているんです」
「いいえ、必要よ。私たちは常識の呪縛から解かれなければならないわ」
樹里先輩は意味のわからないセリフを残し、席から立ち上がりました。そして鞄を持ち、生徒会室から出て行ってしまいました。麻婆豆腐はあたりに飛び散ったままです。
「はぁ……。とりあえず掃除しなきゃ」
生徒会室を麻婆豆腐まみれのまま放置しておくわけにもいきません。私は掃除を始めました。