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(来るな、来るな、来るな来るな来るな……‼)
女は、目にいっぱいの涙を浮かべて、声や呼吸音を抑えるように口に手を当て、物陰に座り込んでいた。
ざす、ざすという目の粗い砂を踏みしめる音が聞こえる。追跡者の可能性が高いが、自分と同じ人間の可能性もある。
しかし確認する勇気はない。そのせいで見つかってしまったら、自分は殺される。しかも、鉄の棍棒で殴り潰されて。
ざす、ざすと、足音が近くなる。
(ま、まずい! 奥に行ってやり過ごさないと!)
女は音をたてないように四つん這いで奥へ向かう。その時だった。
「ピィッ! ピィッ!」
小鳥の鋭い鳴き声が響いた。近くにいたのに気がつかず、驚かせてしまったようだ。
「そこか」
「‼」
気づかれてしまった。
女は立ち上がり様に駆け出す。
「逃がさん‼」
人一人が通れる程度の狭い道に、追跡者の足音が迫る。
「⁉」
その先は岩壁がそそりたち、行き止まりだった。
「あ……あぁ……」
振り返らなくても分かる。というより、振り返りたくない。
鬼の重い足音が、だんだん大きくなる。
振り返りたくないのに、意思に反して、体が勝手に動く。
いっそのこと、目が見えなければよかった。
最期に見る光景が、こんなに恐ろしいものならば、何も見えない暗闇の方がマシだ。
「……っ! いやああああああああああああああああああああ‼」
金砕棒が、振り下ろされた。
◆◇◆
鬼女が裏路地から出てきたところ、小さな人形に声をかけられた。
【貴女がこの餌場を造ってくださった怨霊でしょうか?】
その目は黒い眼球に赤い瞳をしていた。
鬼女は金砕棒を構える。
もしここが怨夢でなければ、そういうデザインの人形が憑喪神になっただけの可能性がある。しかし鬼女は、怨夢の中に妖怪を閉じ込めてはいない。
さらにこの人形は、怨夢を餌場と言っていた。
化穢で間違いはないだろう。
【あぁご心配なく。今はまだ、貴女の魂をいただく気はありませんよ。ただ、その手に持っている魂と交渉が目的ですので】
と、化穢が両手を上げて言う。
「…………」
魂の緒が切れた魂には用がないのだろう。仕留めたばかりの魂を投げ渡した。
【ありがとうございます】
化穢は魂を受けとると、その手を黒い泥に変えて魂を包み込んだ。元の手の形になると、もう魂がない。取り込まれたのだろう。
「交渉とはなんだ。内容によっては殺す」
【そんな物騒な事は仰らずに。貴女にとっても、悪い話ではありませんから】
化穢が前置きをすると、話し始める。
【貴女は人間を恨んでおいでのようですね】
「当然だ……ッ!」
ギリリと、硬い拳ができる。
「あいつらは、孤児の私を育ててくれた、親も同然の村人達を殺し、故郷を奪った。それだけではない。暖かみのある故郷はあいつらのせいで冷たい異界のような場所に変わってしまった」
【……なるほど。貴女の怨みはごもっとも。正当な怒りであり、人間が妖怪に殺されるのは因果応報でしょう。死した後も使命を全うする貴女はなんて健気な事か】
化穢は目元を隠すように抑える。
わざとらしさすら感じる悲しみの表現だった。
【人間もそうですが、それを邪魔しようとする者達も許す事はできませんねぇ】
「……死徒か」
鬼女は予想していた答えを口にする。
【ええ。無粋にも、元人間の死徒が貴女を捕らえようとしております】
「‼」
人間と聞いて、鬼女は目をかっ開いた。
「人間か。私が殺してやるさ」
【難しいかと思いますよ? 彼らは平和ボケした人間の生者とは違い、しっかりと訓練している。さらに、少なくとも四人以上で怨夢に乗り込んでくる。貴女の勝ち目は、薄いかと】
「やってみなければ分からん‼」
鬼女は声を荒げる。
勝てそうもないのは分かっている。しかし、人間なんかに負けるのを認めるのは鬼の誇りが許さない。
【いいえ。勝つ事は難しいです。ですが、私が死徒殺しを手伝って差し上げましょう】
化穢は気味悪く嗤いながら提案をする。
【自分は誕生してから二月とたっていませんが、すでに異能を五つ所持しております。雪女の『凍える吐息』、鵺の『病哭き』、青頭巾の『骨舐り』、海坊主の『津波起こし』。そして元より持っていたものですが『傀儡糸』でございます。この内、津波起こしと病哭きは使い物にはならないでしょうが、他の三つは有用でしょう】
病哭きは効果が発動するまでに時間がかかる。津波起こしはそもそも水中でないと使えない。
しかし凍える吐息は遠距離攻撃、骨舐りは肉を舐め削ぐ能力で大ダメージの近距離攻撃として使える。
そして傀儡糸は直接的な攻撃力こそないものの、糸で繋いだ相手を意のままに操る能力だ。同士討ちをさせるもよし、攻撃を避けさせないようにする事もできる。
「代償は何だ?」
鬼女は興味を持ったのだろう。質問してきた。
【貴女の魂と、貴女が殺した人間の魂全て】
「……」
悪くはないと思った。
どうせ人間は殺すのだ。むしろ、魂の処理について考えていたところである。
「一つだけ、条件追加だ」
人間に復讐できるのなら、己の魂もくれてやってもいい。しかし、すぐに喰われたら困る。それに、自分の魂が喰われた後、この化穢は同胞の魂も喰うかもしれない。
「いまいち信用できないからな。指切の呪いも使う」
指切の呪いとは、約束を破った者の体を内側から千本の針で貫かれる物。
人間がする指切りと全く同じだが、妖怪が行うものは儀式のようなものである。
効果時間は、一番最後の約束に交わした約束が果たされる時まで。
【構いませんとも。最終的に貴女の魂が頂けるのであれば】
と言いながら、化穢は小指を立てた。
鬼女は屈み、小指を絡めた。
「ぐぅ⁉」
その瞬間、化穢の小指が黒い泥になり、鬼女の指を飲み込んだ。
【さぁ。詠唱を】
「……っ! 《指切》!」
鬼女は心臓を掴むように胸を抑え、詠唱をする。
「死徒を、必ず喰い殺せ‼」
【鬼女の殺した人間の魂は、全て頂きます】
「私の魂は、最後にくれてやる‼」
これで交渉成立と思い、化穢は小指を離そうとした。
【!】
しかし、離れなかった。鬼女の小指が、まだしっかりと掴んでいたからだ。
「さらに、私以外の妖怪の魂は、金輪際喰うな‼」
【‼】
鬼女は最後の約束を口にし、小指を離した。
「ぐ、うぅ……‼」
すでに泥は、右腕を飲み込んでいる。
【は、はは】
化穢は嗤う。
【全く。してやられましたよ! これでは、呪いは永久に解けず、自分は妖怪の魂を二度と口にする事ができません】
呪いの効果時間は、最後――小指を離す直前に交わした約束を果たした時。
もし化穢が小指を解いたタイミングで鬼女も小指を離していたら、鬼女の魂を喰べた瞬間に呪いは解除される。
しかし小指を離す直前、最後に鬼女が口にした約束は、二度と妖怪の魂を喰わない事。つまり化穢が死ぬまでの間、約束が果たされる事はない。
【自分が化穢でなければ、でしたがね】
「……っ⁉」
化穢の物言いに疑問を感じ、化穢を睨む。
【失礼。一つだけお伝え忘れておりました。これは誰も……神ですら知らない我々の体質なのですが】
化穢は、気味の悪い嗤みを深くして言う。
【化穢、穢憑きには全く呪いが通用しないのですよ! それどころか、穢憑きになった瞬間指切りも解呪されます! つまり、貴女が同胞を守るために考えた策は全て無駄! いやぁ、ははっ! 滑稽、滑稽】
「⁉」
鬼女は、信じられなかった。
その絶望を表すかのように、泥が広がる速度が一気に上がる。
【でもご安心を。死徒は必ずや喰い殺して差し上げますし、貴女の魂を頂くのも最後。これは、お互いに了承しましたからねぇ。ただ】
鬼女が意識を失う寸前、化穢は言った。
【『妖怪の魂は喰べない』これは貴女が一方的に交わそうとした約束ですからねぇ。自分には守る義務はない。妖怪も人間も、平等に魂を頂きますよ】
「やめ……ロ――】
その弱々しい言葉が、鬼女の最後の言葉になった。




