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一瞬、視界が黒に染まる。化け物は、黒い瘴気となり霧散した。
(……ああ、やっぱり)
瘴気が晴れると、そこには青白い火の玉、魂が長い尾を引いて浮遊している。
(この魂だけ、間に合わなかった)
他のまだ蘇生可能な魂は完全な球体で、細い紐が地面からピンと張っている。しかし最後に討伐した化け物から出た魂だけは、長い尾が所在無げに揺らめいていた。
この細長い紐は魂の緒といい、肉体と魂をつなぐ、普段は霊体に守られているはずの命綱だ。
この魂の緒が何らかの理由で切れると、もう蘇生ができない。亡者の魂となってしまうのである。
(ごめんなさい……)
視界がにじむ。
化け物の外見と口調から、発見時に手遅れだと分かっていた。
それでも、もう少し見つけるのが早かったらという考えがよぎる。
「花耶!」
「!」
聞き慣れた心配そうな声が聞こえる。仲間――千絃が来たようだ。
両手で目元を拭い、呼ばれた方を向く。
「うわぁ⁉」
灰褐色の髪をした利発そうな青年が、紺と赤のオッドアイをなぜか見開いた。
「せめて斬られてない方だけで拭って! 傷口開くでしょ!」
「……あ」
花耶は両手で涙を拭った。その際、血が目元にべっとりとついてしまったようだ。傷口を見ると、肘から手首までザックリと切られている。
「本当にもう、この子は……《異空鞄》」
千絃が詠唱すると、何もない空間に切れ込みが入り、開いた。
異空鞄とは、ゲームのインベントリという、アイテム保管庫に着想を得て数十年前に異国で作り出された、異空間に物体をしまう魔術を、妖怪でも使えるように妖術に変換したものだ。
容量は大きめなリュックサック程度と、想定していた物と比べてだいぶ劣った性能だが、重さが一切かからない便利な術である。
異空鞄から紐を取り出し、止血する。
「ありがとう。でも、先に魂を……」
「手当てが先!」
どうやら、過保護な性格のようだ。
千絃はさらに水の入った瓶を取り出し、ぽこぽこ叱りながらも優しく傷口を洗う。
「まったく。あの程度の攻撃、花耶ならあっさりと避けられるでしょ。なんでわざと当たったの? しかも羽織まで脱いで」
「見失われても、血の痕、追えるように……」
花耶はおそろしく足が速い。追われている最中も、速度をかなり控えめにしたのだ。それでも見失われてしまった。
(囮役としては、ひどい失敗……)
結果的に成功したからいいが、もしこれで見つけられずにターゲット変更となったらと思うと、今更ながらに背筋が冷たくなる。
「だからってこんな怪我しなくても……」
今度は包帯を少しきつめに巻きながら話す千絃に花耶は答えた。
「平気……。すぐ、治る」
「そういう問題じゃない!」
荒くなった声に、花耶は俯いた。
「確かに僕達亡者は、魂さえ残っていれば死んでも蘇生できるし怪我なんてすぐ治る。部位を欠損するような怪我は時間はかかるけど再生するよ」
花耶と千絃は亡者。中でも、魂に深い傷がついた事により、魂を防護するために強靭な体を得た、屍霊という数少ない種族である。
強靭な体――屍霊体の性質の一つで、怪我の回復や欠損部位の再生もわずかにだが早い。
「でも、痛いものは痛いし蘇生だって短くても一週間はかかる」
しかし、痛覚はある。
負傷すると普通に痛いし、欠損に慣れるまでは、再生しても幻痛に悩まされる事もある。
その上、いくら蘇生できるとはいえ、すぐに息を吹き返すわけではない。
最低でも一週間、もし爆殺などで全身木っ端微塵になった場合、専門的な治療を受けても、体の再生だけで一年以上かかる。
「それに花耶は祓穢っていう特殊な魂を持っているから屍霊にしては体が脆い。化穢と穢憑きからは目の敵にされるし、下手したらじわじわと嬲り殺しにされる可能性だってあるんだよ⁉」
化穢とは、魂を喰らって成長する魂亡き者。
化穢が無尽蔵に生み出す、穢れを付着させられた奴隷が穢憑きだ。化穢と違い、魂を吸収できない代わりに、体内に貯めておくことができる。
穢憑きは、長時間討伐されなかった場合、化穢化する。しかし大抵は、喰い貯めた魂を取り込むために化穢に喰われる。
生きるか死ぬかは、化穢次第だ。
そして、奴らの天敵と言えるのが花耶のように祓穢という魂を持つ者だ。
まず、魂や霊力に直に触れただけで穢れが霧散する。
穢憑きにされる事は絶対にあり得ない上に、化穢に霊力の帯びた攻撃をしたら、かなりの痛手になる。
そんな性質を持っているからか、化穢と穢憑きから本能的に目の敵にされる。
痛手こそ負うが、実は化穢ならば祓穢の魂を消滅させる手段がある。
祓穢は特殊な性質を持つゆえに霊力を使うたび魂に負荷がかかる。さらに化穢は、無尽蔵に魂を蝕む物質である穢れを生み出す事ができる。
強制的に霊力を使われ続けた祓穢の魂は、やがて負荷に耐えられなくなり消滅するのだ。
さらに、魂に触れさえしなければ穢憑きでも運搬が可能である。奴らの前で死んだら、確実に死体ごと化穢の元に持って行かれる。
魂を消滅させられたら、いくら亡者といえど、二度と生き返る事はない。
「……ごめん」
そんな性質の魂だから、千絃が過保護になるのも分かる。必要だから負った怪我だが、それを見た千絃の心情も理解できた。
「それじゃ、今度からは自分の身の安全も考えられる?」
しかし、己の魂の性質を利用した囮作戦を考えて、彼が何か言う前に突っ走ったのは花耶だ。逃げきれる自信はあったし、万が一の時の覚悟もしていた。
……正直、同じような事をやらかさない自信がない。
「……善処する」
「なんか不安だなぁ……」
千絃に疑いの目を向けられて、花耶は視線を反らした。
「それとね、花耶」
「ん?」
視線を戻すと、千絃は心配そうな顔をしていた。
「あの穢憑きは、見つけた時には侵度四だった。花耶はすぐに行動してたし、見つけるのも討伐も遅くはなかった。気にしないのは無理かもしれないけど、あまり気負いしすぎないでね?」
「……ん」
頷くものの、まだ表情は晴れない。
侵度とは、魂がどれだけ喰われているかを表す度合いだ。全部で五段階あり、侵度五になると魂が完全に喰われて化穢化するのである。
侵度四はかろうじて魂が残っているが、魂の緒が喰いちぎられてしまい、蘇生できない状態。いわゆる亡者の魂になってしまうのだ。
人によっては「魂が残っているからギリギリセーフ」と話す同業者もいる。
しかしそれは大抵、自分が罪悪感で潰れないようにするための自己弁護にすぎない。
確かに、いつまでもくよくよ引きずる暇があったら他の敵を討伐した方が、魂を守る職業の者、死徒としては正解かもしれない。
しかし花耶は、どうしても気持ちを切り替えられなかった。
「もしどうしても辛いなら、安全なとこに異動とか転職……」
「や」
首を横に振って拒否した。
千絃は「そっか……」としょんぼりしたが、花耶にも譲れないものがあるのだ。
「生前、思い出したい」
花耶は、生きていた時の記憶がなかった。名前も、持っていた扇子に名入れされていたから分かったのである。
「だから、この仕事、してる」
そして、屍霊の中でも死徒という職業は、生前の世界に取り残されてしまった浮遊霊や地縛霊の保護、生者に悪さする怨霊と悪霊の確保関連、化穢と穢憑きの討伐関連が主な仕事。他の職業より、生者に関連した仕事が多い。
特に、彼女らのいる空間――怨夢は怨霊の精神と記憶を元に生死の境で作られる、復讐の為の処刑場だ。怨霊から怨みを買ってしまった生者は、怨みに正統性があるなしに関わらず、この中に閉じ込められるのである。
中を探索する事で、既視感のある光景を見るかもしれない。もしかしたら、まだ生きているかもしれない知り合いに会えるかもしれない。
花耶にとって、死徒、特に討伐隊は危険性こそ高いものの、自分の生前の手がかりを探すにはこれ以上ないほどの職業だった。
「でも、情報を集めるなら諜報隊の方がいいんじゃない? 数分だけとはいえ怨夢の中に入れるし、何より討伐隊よりも遥かに安全だし」
「……数分じゃ、足りない」
怨夢は、復讐のために創られる。それゆえ、内部は危険が多い。内部調査担当の諜報隊ですら、数分程度の潜入しか許されていないのだ。
しかし、少しでも生前の手がかりが欲しい花耶にとって、制限時間は邪魔でしかなかった。
「確かに、効率、いい。でも、人と話すの、苦手……」
さらに、花耶は人見知りである。
諜報隊の仕事は、情報を得る事が主。時には、妖怪や亡者を見る事のできる人間に話を聞きに行くこともある。
花耶は、話しかけられた場合はまだ大丈夫だが、人に話しかける事が苦手だ。とてもじゃないが、諜報隊は勤まらない。
「それに、知らない人と、一緒、落ち着かない。千絃と、同じが、いい」
千絃は花耶の無自覚な殺し文句に、罪悪感とむず痒さを覚えつつも少し嬉しくなった。
普段自分の身を省みない少女に、ささやかながらも頼られるのは悪い気はしない。
しかし、それで心配事をうやむやにはできなかった。
「でも、自分が死ぬ時の事も思い出すかもしれないよ? 記憶喪失になるほどだし……。かなりひどい死に方をしたのかもしれない。それでも耐えられる?」
「……分からない。でも、思い出したい」
花耶の決意は固いようだ。千絃はどこか辛そうに黙り込みながらも手当てを終わらせた。
「はい。終わったよ」
「ありがとう」
花耶は礼を言い、地面に置いといたフード付きの黒い長羽織を拾った。
鎧草という植物の繊維を織って作られた、死徒の隊服である。普通の繊維と比べて燃えにくく、鬼の怪力でも引きちぎれないくらいには頑丈で、非常に軽い。
ただ特殊な繊維であるがゆえに、衣服として着るには肌触りが悪い。その上、繊維の地色が黒である為、鮮やかな色や明るい色に染色するのは不可能に近い。
袖を通し、前紐を結ぶ。
◆◇◆
千絃は真っ先に死んでいる魂を掴み、自分の影にしまった。
死徒は影の中に魂をしまっておける。影の中にしまえば魂の緒はもう切れる心配はない。
羽織を着た花耶も残りの魂を捕まえ、影の中にしまう。
魂を全てしまうと、花耶は千絃に言った。
「それじゃ、もう一走り――んぇっ」
「さすがにもう囮は駄目だからね? そんな怪我してるんだから」
走り出す直前、千絃に襟首掴まれた。
「視界共有、もったいない……」
視界共有とは、かけた相手の視界を任意のタイミングで見る妖術だ。効果のある時間内ならば何度でも使用できるため、ある程度妖術に精通している者なら大抵が会得している。
副作用のようなもので、左右の瞳が相手の物と入れ替わる。元々、千絃の瞳は深紅で花耶の瞳は濃紺だ。
「いや、これ元々はぐれた時用にかけてるから。むしろ、もったいないぐらいでちょうど……。⁉」
「!」
説得の途中で、パキリと背景がひび割れた。
おそらく、怨霊が化穢化したのだろう。その状態で討伐すると、怨夢は崩壊する。中にいる魂は巻き添えで消滅してしまうのだ。
「まずい!」
千絃が叫ぶが早いか否か、二人は走り出した。
「こっち」
「分かった!」
二人は人が通り抜けられるほどの大きな亀裂に飛び込み、この空間から脱した。