・・・・・・(8)楽園の崩壊
マンションの出口で、誰かに思い切り衝突した。
脂肪の塊のような巨漢は、オタリーマンの白井さんだ。
ウィズの部屋の隣りに住んでいて、店の常連でもある。
体重負けして吹っ飛ばされたあたしを、あわてて助け起こしてくれた。
「大丈夫?あれえ?美久ちゃんじゃないか。
どうしたの?泣いてるね?」
あたしは首を振るのが精一杯だった。
話が出来る状態じゃない。口を開くと泣き叫びそうだ。
「わかった、吹雪くんが何か悪さしたんだろ。
あいつはダメだぞ、冷たいヤツだからな」
あたし、首を振る。
「可哀想に、美久ちゃんこんなに可愛いのに、吹雪君は馬鹿だね。
僕ね、君にそっくりなフィギュア持ってるんだよ。
美貴ちゃんって言って、名前も似てるんだ。見に来ない?」
無視して外に駆け出そうとしたら、後ろから呼び止められた。
「ま、待って美久ちゃん、何か落としたよ!
あ、鍵じゃないか。待って!」
「喜和子ママに渡して!」
叫びながら通りに駆け出した。
悲しいのは、ウィズが性欲の牙を持っていたからじゃない。
無理やりキスされたからでもない。
悲しいのは、ウィズがあたしをわざと傷つけようとしていたからだ。
出会ってからの6年間、そんなことは一度もなかった。
あたしの嫌がること、傷つくことを、彼は絶対にしなかった。
強引なキスは、ウィズがあたしのナイトを降板したという事で、あたしにとっては拒絶だった。
それは楽園の崩壊を意味した。
どうしよう。
あたしもうどこにも行き場がない!
児童公園があった。
入り口から一番遠いあたりに、渦巻き貝の形をした滑り台がある。
中に這いこんで、暗がりにうずくまった。
淀んだ空気なのに、ひどく寒い。
頬を流れる涙が、いやに暖かかった。
声を上げて、泣いた。
どうしたらいいんだろう。
どこを探したら、ウィズを失わずに済む方法が見つかるだろう?
泣きながら考えた。
考えることにすがってないと、どうにかなってしまいそうだった。
その時、暗がりの中に何かが落ちているのを見つけた。
反射的に拾って見たら、誰かの落とした筆箱だった。
中にぎっしりとシャーペンやボールペンが詰まっている。
あたしはその中からカッターナイフを選び出した。
何をしようとか、頭で考えたわけではなかった。
気がつくと、左の手首が血だらけになっていた。
痛みをほとんど感じなかったから、ちょっとおかしくなっていたのだと思う。
さぞかし勢い良く血が吹き出るだろうと思ったが、出血は少なかった。
(もっと深く切らなきゃだめなのかなあ)
他人事のように無感動に、自分の傷を観察しながら、目からは機械的に涙を流していた。
「おい!そこにいるのか?
…大丈夫か!?」
いきなり、大声で外から呼ばれた。
誰かが息を切らして、滑り台の壁面から呼びかけている。
暗くて顔が見えなかったが、その姿には見覚えがあった。
頭の形が、独特のもさもさしたアフロヘアだったからだ。
「きみか!あああ何だこの怪我は?
誰にやられた?どっちへ逃げた?」
アフロは何か勘違いをして、警察に通報しようとした。
自分でやったと言っても信じない。誰かをかばってるんじゃないかと言い出す始末だ。
とりあえず止血して、ティッシュで血をふき取って見ると、思いのほか小さな傷だった。
なるほど、おいそれと自分を殺すことなんか出来ないもんなんだ、と妙に納得した気分だった。
「驚いたなあ。
きみみたいに明るい子が、リスカなんかするんだ」
コンビニから買ってきた消毒液とカットバンで手当てをしてくれながら、アフロはボソッと言った。
「どうしてこの公園へ来たの?
最初から誰かがいるってわかってる感じだったね」
あたしが尋ねると、アフロは何故か急にしどろもどろになり、
「いや、家が割と近くで。まあ、なんとなくだ」
と、あきらかに誤魔化そうとしたが、バレバレだと気付いたんだろう、言い直した。
「その、実は脅迫電話みたいなのがあって」
「脅迫電話?」
「そこの公園で女の子が怪我をしてるから、見に行け、行かないと向かいから銃撃するって」
「誰が、そんなことを」
「だから俺は、その怪我をさせた通り魔かなんかが電話して来たんだと思った」
「やだ、誰よそんなことするの」
あたしは身震いした。
「でも、会えてよかった。
きみに謝らんといかん、思ッとった」
「え?」
「あれしきのことでカッと来て殴ろうとした。
男のすることじゃなかったい」
「…殴るつもりだった?」
「あんまし生意気な言い方するから…ほっぺ張っちゃろう思った」
それじゃ、あの時腕を捕まれたのは、いやらしい気持ちからじゃなかったんだ。
あたしが勝手に思い込んで誤解しただけ。
「何があったかは知らんが、死んだらつまらんよ。
誰かに何かされたんなら、そいつの前でいつかトロけそうに幸せな顔して復讐してやる、とか思って頑張れよ」
福岡弁混じりの標準語でアフロはそう言うと、何かあったら連絡しろ、と名詞をくれた。
あたしは、また泣き出してしまった。
ありきたりの言葉、ドラマで使い古されたお決まりの台詞。
それだけに心に染み込むものがある。
こうしてみると、アフロはごく当たり前の、常識ある社会人なのだ。
ミヤハシ父のような変態が、右にも左にもいるというわけではないのだった。
ウィズのいうことは正しい。
あたしはただ自分の憂さを晴らす為に、彼ら平凡で常識的な男性に攻撃し続けて来た。
あたしの逃亡癖は、単なる甘えだったということだ。
本当に怒りの矛先を向けるべき人は、まずミヤハシの父だろう。
あの行為をイタズラなんて軽い言葉では呼びたくない。
なのに行為の間、あたしは抵抗しなかった。
イヤと言って、体をよじっただけだ。
なぜ抵抗しなかったんだろう。
例え力が及ばなかったにしても、自分がいかにイヤかを、もっと思い知らせることは出来たんじゃないだろうか?
殴ってでも、蹴ってでも。
殺してでも、殺されてでも。
怒りの対象、その2は、ミヤハシの母。
饅頭1つでことの罪悪を誤魔化そうとした。
まるであたしがミヤハシ父と共通の罪を犯したかのように扱った。
あの時もあたしは文句ひとつ言わなかった。
あんたの亭主は変態だと。
犯罪者だと。
ああ、なんでののしってやらなかったんだろう!
そしてその娘、ミヤハシ。
あたしは、学園生活を真っ暗にしたあのいじめに、抵抗しただろうか?
先生に訴えた?
警察に話した?
電話相談に連絡は?
殴られて殴り返した?
何もしてない!あたしは自分のプライドを守る努力をしなかった。
それこそがあたしの怒りだったのではないかと思う。
ウィズの言ったことは正しい。「怒りは正当な相手にむけるべき」
あたしは、抵抗しなくちゃいけなかったのだ。
例え殺して、犯罪者と呼ばれても。
例え殺されて、校舎の裏に埋められても。
あたしが一番憎んでいたのは、なんにもしなかった自分だった。
ここまでのご愛読ありがとうございます。
「頑張るへタレ」美久ちゃん、ここから奮起して立ち上がります。次回お楽しみに。