・・・・・・(5)川原で鬼ごっこ
「おれの、さあ。 嫁さんになってくれないかな」
アフロ男が言った。
まだ名前も知らないのに。
「ものすごいいきなりだね」
感心するしかリアクションのしようがない。
河原の土手に二人腰掛けて、まだ2時間もたってない。
「2時間もお互いのこと、話して聞いたんだ。
どんな子なのかはわかった。 いい子だもん、きみ」
ンなばかな。 19年間付き合ってきたあたし自身が、いまだにわからないことなんですけど。
大丈夫か、この男。
発端は、2時間たらずの前だった。
バイトが休みの日だったので、あたしはウィズに宝くじを返そうと、「ウィザード」へ向かっていた。
バス代もない状態だったので、バス道路横の散策道路を延々と歩いた。
右手に川があり、大きな橋が架かっているところで、その音楽は聞こえて来た。
サックスの音だ。
河原の芝草の上に、演奏者はいた。
長身でアフロヘア。
てっきり外国人だと思った。
ジャズなんてさっぱりわからない。
サックスも、漫画で主人公のカレシが吹いてるって設定で見たことがあるだけで、実際に吹いてる人間を見たのは初めてだ。
体をエビ反りにしてリズムを取る姿勢が映画のワンシーンのようでかっこいい。
車がひっきりなしに通る国道の橋なので、騒音で迷惑がかかる恐れがないんだろう。
足元の楽器ケースに置かれた譜面が、風でパラパラめくれている。
アフロ男が演奏をやめて、こちらを手招きした。
あたし、ここでちょっと落ち込む。
‥‥もしかしてあたし、またやった?
無意識にこっちから誘ってるの?
あたし、立ってるだけでインバイってやつなの?
なら行かなきゃいいのに、行っちゃうの、あたし。
また、病気だ。
まだ、病気だ。
自分のものでないように足が動く。
「すいません! ごめんなさい!」
あたしが寄っていくと、アフロ男は慌てた様子で頭を下げた。
「気、気安く呼んじゃって、こんな大人の女性とは思わず!
遠目で見たらちっちゃい子かと思って、お菓子があるから食べるかなって。
怪しい男みたいですよね。 失礼しました!」
いや、幼女誘う方が怪しいし。
第一、今の台詞の方が、10倍も失礼だろ?
土手に座って、アフロ男は身の上話をした。
無名だけどプロのバンドマンであること。
二十歳で故郷の福岡を出て、いったん東京に住んだこと。
テレビ番組のバックで演奏していたこと。
番組が終了して、別の誘いがあり、今度は各地を回る仕事になったこと。
話を聞くのは面白かった。
もともとあたしは、年上の人が好きだ。
仕事を持って、自信たっぷりに働いている人に憧れる。
あたしには自信がない。 何かあるたびおろおろする。 次に何が起こるか、びくびくしてる。
仕事の出来る人は、先の見通しがあって動くのが、見ていて気持ちがいい。
ウィズに見とれるのも、ルックスだけじゃなくて、彼が予見者だからかもしれない。
そして、そのあとがこれだ、嫁さん発言。
「おれの嫁さんになってくれ」
どう見たって、展開に無理のある会話だと思う。
「どうして?」 そりゃ聞くしかないでしょう。
「どうしてって、結婚したいからさ。 おれもう30だし」
「どうして結婚したいの?」
「んー。 寂しいからかなあ。 一人暮らししてると。
誰か家にいて、明かり点けて、食事用意して待っててくれよ、って思うね」
わかるけど。
「それって奥さんじゃなくてもできるよ?」
「家政婦さん? 同居人とか?」
「てか、もともとお母さんの仕事だし」
「このトシでオフクロ頼るわけにいかん」
お母さんの代わり?
あたしはここでまず、むっと来る。
恋人も母親も今は拒絶したいあたしでさえ、ご飯作ってくれる人は欲しいんだ。
だから、どうして結婚じゃなくちゃいけない?
あたしのことをめちゃめちゃ好きになったのならともかく、ご飯が作れる人なら他にいくらでもいるだろう。
“オトコハ馬鹿ダカラ、ココデ誤魔化シヲヤルンダヨ”
頭の中で警報が鳴る。
“ホントハ、イヤラシイコトガシタイダケナンダヨ”
“恋人ニナレトカ、結婚シヨウトカイエバ、ダマサレテ気ヲ許スト思ッテルンダヨ”
「オフクロの代わりじゃないよ。 女房ってのは、自分だけのもんだ」
「所有物?」
「い、いや、そうじゃない。 オフクロとは築けない関係がある」
「セックス?」
わざと、はっきり言ってやった。
背筋がサアッと冷たくなる。
ひんやりした興奮があたしを包む。
あたし、怒ってる。
ああ、なんでこんなことに腹が立つんだろう。
「要するに、母親みたいに身の回りをかまってくれて、でも口うるさくなくて、はいはい言うこと聞いてくれて、人前では慎ましく、でも夜は自分だけとノリノリでエッチしてくれる女がいいわけね」
「そうは言ってないけど」
「でもあたしが世話好きかどうか、今の2時間でわかった?口うるさく言うタイプかどうかまでわかったの?わかんないのに結婚したいのは、結局、セックスの相手としての好みなのよ」
「‥‥自分、なん、怒っとう?」
「わかんないから聞いてるだけよ。
あたしとしたいだけなんだったらはっきり言えばいい」
やだ!なんでこんなこと言うの、あたし!
日暮れが近づいて、あたりがたそがれ色に沈んで来た。
その薄暗い光の中で、アフロ男はまじまじとあたしの顔を見た。
「おい。 ‥‥おれば、誘っとうや?」
福岡弁で、探るように聞いてきた。
誘ってない!
でも今回はやっぱり、あたしが呼び込んだんだろう。
腕をつかんで、引き寄せられた。
全身に鳥肌が立ち、それがたちまち痒みに変わる。
すすきの生い茂る中に逃げ込んだ。
強い川風が、足音もすすきの揺らぎもごまかしてくれる。
アフロは追って来ているだろうか?
草の隙間をすかしてみるのだが、よくわからない。 宵闇があたりを満たしはじめている。
やみくもに走っても、見えるのは、星の瞬き始めた空だけ。
不意に、涙がこみ上げてきた。
あたしは何でこんな馬鹿なんだろう。
なんで、望んでもないことをやっちゃうんだろう。
毎日のように、こんな意味のない場所で、見も知らぬ男と探り合うような真似ばかりして。
それもこれも、あたしがインバイだからいけないんだろうか?
発端についてはわかってる。
逃亡癖のきっかけになったのは、例の写メールだった。
あの写メが最悪だったのは、恥ずかしい部分を撮られたからでも、それを縁もゆかりもない人たちに流されたからでもない。
あたしを一番傷つけたのは、写真と一緒に流れた、根も葉もない風聞だった。
「そういう写真で、お小遣い稼ぎをしてる女の子」という、悪意の風聞だ。
わざわざ近所の男子校から、あたしの顔を見るために校門で待ち伏せしてるやつがいたり。
「篠山美久って、お前のクラスにいる? すごい子? ってお兄ちゃんにきかれたよ」
と、あたしがいじめに会ってることを知らない他のクラスの子に言われたり。
そしてある日、町なかでいきなり肩をつかまれ、
「この子だ! おい、いくらでやらせるんだ?」
と、知らない高校生に囲まれた。
怖かった。 もちろん、逃げた。
商店街に逃げ込み、トイレを借りますと言って2階の居住空間まで入り込んでやり過ごした。
隠れて見ていたら、あたしを見失った高校生は、ものすごくくやしがった。
もともと、たまたま出会っただけで、それほど執着してたわけでもないくせに、なんであんなにむきになってあたしを追い回そうとしたものか。
ざまあみろ、と思った。
ミヤハシ父にいたずらされて以来、溜飲が下がったのなんて、これが初めてだった。
あの時の快感で、あたしの心に一本のレールができてしまったに違いない。
こうすれば、すっきりするよ!って。
それは真っ赤な嘘なんだけど。
だって、今夜もこんなに落ち込んでるもん。
やっとの思いで土手から上がって歩道に出ると、折りよくタクシーが通りがかった。
後ろを気にしながら乗り込んだ。
お金がないけど、きっと喜和子ママがなんとかしてくれるだろう。
動き出した車の中で、ひざに突っ伏して涙をこらえた。
「お客さん! お客さん!」
運転手に大声で叫ばれ、驚いて顔を上げた。
車は急停車していた。
中年の太った運転手が、必死の形相でこっちを見ている。
あたしが座席の陰から顔を上げると、
「ああ! よかった! お客さん消えてなかった!」
「消える?」
「だってさっき、川から上がって来られたように見えたんで、てっきり」
あたしゃ幽霊ですか!