・・・・・・(29)記憶の奪還
ドアが大きな音を立てて開いた。
真っ黒な影が、外の視界をふさいでいた。
そいつは、のそりと中に入って来た。
馬鹿でかい影がうねって、一旦天井いっぱいに広がった。
ぐるりと天井を覆い尽くした後、そいつは入り口近くまで戻って来て一旦体を縮め、固まりになって人々をにらみつけた。
サッカーボールぐらいの大きさの目玉が一つだけ付いていた。
よく見ると、そいつの足元(足らしきものは見当たらないのだが)にひとりの醜い小人が立っていた。 カンテラと鐘を持って叫んでいたのはその小人だった。
「篠山美久は返事がなあい!
返事のないものは、ひと飲みじゃあ!」
小人が、体に似合わない大声でわめいた。
この時、若者がくるりと体の向きを変えたので、あたしたちは二人して怪物に背を向ける格好になった。
彼の背中の後ろに、あたしが隠れる形になる。
……この人、あたしを庇ってくれてる?
暴漢だとばかり思っていたので驚いた。
影の怪物が二つに裂けた、と思ったら、巨大な口が開いたのだった。
その口は小屋一杯に広がるかのように見えた。
不思議なことに、この若者に密着していると、後ろを向いたままでもそれが見えてしまった。 黒い体の中にあった口は、鮮明な真紅の舌をひらめかせてどこまでも広がった。
しかし、影はうろうろと小屋の中を、口を開けたままさまよい始めた。
どうやら影には若者の姿が見えないようだ。
そして、その陰にいるあたしのことも。
ひとしきり小屋の中をうろついた挙げ句、影は出口まで後退した。
木戸の前で、影はゆっくりとトグロを巻くように丸くなり、小屋をもう一度見渡した。
そして、いきなり動いた。
あの大きな口が思い切り開いて、中から真っ赤な炎が噴き出した。
ジョッと音がして、一番近くにいたお婆さんの体が、霧になって溶けた。
周辺の人々は、燃え上がって炭になった。
小屋の中が、悲鳴と、炎と、閃光で一杯になった。
あたしは声も出せずに体を縮めた。
炎が、若者の背中にまともに吹き付けている。
あたしはその陰にぴったり隠されている。
彼の体に当たった炎は、扇状に広がりながら、周囲の人間を吹き飛ばした。
大変だ。
彼の背中も、頭も、後ろ面全部が炎の中だ。
あのお婆さんのように、溶けてしまうのではないか?
この若者に死んで欲しくない、と思った。
小屋が焼け落ちて、天井がなくなった。
あきれたことに、レンガまで溶けて流れてしまった。
形あるものが何もかも崩れてしまうと、あたりを沈黙が覆い尽くした。
炎が揺らめく中、無意識に止めていた呼吸を取り戻した。
視界は驚くほど広くなっていた。
立ち上がって見渡すと、何もない焼け野原の上にいた。
目の前に河があった。
河の上に、あの美しい虹色の船が浮かんでいた。
燃やすべきものを焼き尽くした炎は、次第に勢いを失い始めていた。
あたしは恐る恐る振り返った。
若者は無傷だった。
火傷一つしてない。
その顔を見たとたん、何故か胸が熱くなった。
「美久ちゃん」
不意に若者が、あたしの耳に唇を寄せて囁いた。
あたしの心臓が、ぴくんと反応した。
その声には聞き覚えがあった。
あたしの、一番、大事な何か。
くすぶっていた炎が止まった。
小屋の残骸が、跡形もなく消えた。
カシャンと乾いた音がした。
あたしをつないでいた金具が地面に落ちた音だ。
「美久ちゃん、美久ちゃん、美久ちゃん……」
彼はあたしの口をふさいでいた手を離した。
両腕であたしの肩を、後ろから思い切り抱き締めた。
あたしはその腕を知っていた。
その声を、胸のぬくもりを知っていた。
空っぽになってしまったあたしの胸の中。
その一番大事な場所に、この人と同じ形をした穴があいている。
「美久ちゃん、あの船に乗らないでくれないか。
今は、今は戻って来てくれないか。
例えばもっと年取って、お互い飽きるほど愛し合った後で、どちらかがどちらかに見送られて、またここに来ればいい。
ねえ美久ちゃん……美久ちゃん!
僕ら、まだ何も始まってないじゃないか。
戻って始めようよ。
何もかもこれからなのに、こんな時に置き去りにしないでよ。
頼むから、頼むから、あんな船いらないと言ってくれ!」
あたし、体が震えて涙があふれて来た。
なんてこと。 なんて台詞!
これ……これってつまり、プロポーズじゃないか。
それもめちゃめちゃスパンが長い……!
一生もののプレミア。
「ウィズ……!」
名前を口にした途端、虹色の船が消え失せた。
視界を覆い尽くすほどの大河も、暗く広がる空も、足元の大地も、何もかも消え失せて真っ暗になった。
その代わりに心の中に、失った記憶が滝のように流れ落ちて来た。
さて次回は現実に戻ってそろそろ終盤に突入します。あとしばらくお付き合いください。